優秀な代理講師
マノンと過ごした夜は、案外楽しくて、思いのほか快適だった。
お肌のお手入れの仕方や、若い頃の失敗談、恋の話――。
笑い声に包まれながら眠り、目覚めたときは、心も体もスッキリしていた。
(お姉様がいたら、こんな感じだったのかな……)
朝一番、アリシアは公爵家の家系図を復習し、王国と周辺諸国の歴史をざっと整理する。
お茶の時間、いつもより高い位置からお湯を注いでみたら、勢い余ってこぼしてしまった。けれど、昨日よりも『特別』な紅茶になった。
「今日は、これから音楽とダンスのレッスンの予定なんだけど――」
マノンがカップを置きながら言った。
「どちらの講師も、嵐のせいで領地に戻ってしまったの」
「…残念ですが、仕方ないですね。こんなときですから…」
アリシアは肩を落とし、ため息をついた。
マノンは笑ってウィンクする。
「でも安心して。優秀な代役を用意しているわ。ものすごく使える子よ」
(使える子……?)
しばらくすると、ドアのノック音がした。
マノンはアリシアの耳元でそっと囁く。
「来たみたいね」
ドアが小気味よく開き、派手なスカーフの青年が現れた。
「やぁ、久しぶりだね、アリシア」
「ジュリアン様……?」
「嵐のせいで公演もサロンもぜーんぶ延期になっちゃってね。退屈してたら、マノンが『いい仕事がある』って」
軽快な足取りでこちらへやってくる。
「愉快な試みに参加させてもらえるみたいだね。よろしく!」
マノンは笑いながらジュリアンの隣に立ち、腕を絡めた。
「ジュリアンは、あの講師たちより何倍も優秀よ。ラッキーだったわね、アリシア」
ジュリアンは口元を緩め、嬉しそうな、困ったような笑顔でマノンを見ていた。
(やっぱり似てるなぁ、この二人……)
*****
ジュリアンのレッスンは、どちらも本当にわかりやすかった。説明は丁寧で、質問にはきちんと答えてくれる。
…けれど『距離感』という大きな問題があった。
フルートの時間、アリシアの姿勢が気になったのか、ジュリアンは後ろからアリシアの手をそっと取る。
「ここまで腕を上げて、背筋を伸ばして」
気づけば、彼の腕に包まれるような体勢になっている。
(えっ…ちょっと近い…)
耳元に落ちる声がくすぐったくて、背中がピクリと跳ねる。変な声が出そうで、アリシアは口元をぎゅっと結んだ。
「吹いてみて」
(こんな体勢で、吹けるわけないじゃない…)
*****
ダンスのレッスンになると、それはさらに加速する。
「このステップは、テンポよりも重心の移動が大事なんだ。…ね、こうやって」
ジュリアンはアリシアの手を取り、背中に手を回す。
そのまま軽やかにステップを踏み、「上手だよ」と、耳元でさらりとささやく。
(うぅ…。耳元で囁かれるのしんどい…)
密着する体温、まつげが触れそうな距離、低く落ちる声のトーン。ひとつひとつが、アリシアの意識を奪い、ダンスに集中できない。
「ね、今の感覚、つかめた?」
「えっ、あ、はい……っ」
言葉に詰まりながらも、引きつる笑顔を浮かべ、必死に平静を装う。
向かいのソファでは、マノンが優雅に紅茶を啜りながら、満足げに二人を見守っている。
レッスンが終わると、アリシアは部屋の隅で小さくうずくまった。
(心臓が、もたない…)
ジュリアンがゆっくり近づき、軽く首を傾げて彼女の様子を覗き込む。
「大丈夫?アリシア。ちょっと刺激が強すぎたかな?」
その瞳には、愉快だと書いてあって、アリシアの背筋がぞくっとした。
頭を撫でようとする彼の手を、アリシアは咄嗟に手を伸ばして制した。
「ま、待ってくださいっ…少しだけ、休憩を…!」
ジュリアンが一歩引くと、マノンがくすくすと笑い出す。
「あはははっ!ジュリアン、やっぱり貴方、いい仕事するわね」
「前回は良いように躱されたからね。本気だしちゃった」
褒められたジュリアンは、口元をゆるめて嬉しそうだ。
マノンは紅茶をひと口含むと、なおも肩を揺らして笑う。
「アリシア、男性の一挙手一投足に、そんなに反応してどうするの?ふふふ。明日からも頑張って、耐性をつけましょうね」
(明日も…?)
胸は早鐘を打ち、息は浅く、手のひらは汗ばんでいた。
アリシアは、まったく生きた心地がしなかった。
*****
その日の夕刻、アリシアは机の上に置かれた封筒を見つけた。
テオドールからの手紙だった。
大切に手にとり、丁寧に封を開ける。
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✉️アリシアへ
急な出発で連絡が遅れ、すまなかった。
思ったよりも被害が大きく、いつ戻れるか目処が立たない。
すまないが、今ある予定は白紙に戻してくれ。
君からの手紙、嬉しかった。礼を言う。
追ってまた連絡する。
身体を大切に。
テオドール
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ジュリアンといるときの、振り回されるようなドキドキとは違った。
心の奥にぽっかり空いていた空洞が、ぎゅっと満たされていくような、柔らかく甘い胸の高鳴りだった。
アリシアは手紙を胸に押し当てる。
すると手紙から、体の隅々にまで温かな熱が広がるような感覚が訪れ、目を閉じてその幸福をゆっくりと味わった。




