公爵家の教育係
レッスン部屋の中央には、教育係のマノンがちょこんと座っていた。
小柄で、丸みを帯びた頬が愛らしい上品な女性。
「きちんと時間を守って来てくださるのね。とても素敵なことよ、ミス・アリシア」
「ごきげんよう、マノン様」
「さ、入って。こちらに座ってくださいね」
アリシアが椅子に腰掛けるのを見届けると、マノンはにこやかに話し始めた。
「ひとつ、お知らせがあります」
アリシアは軽くうなずき、耳を傾ける。
「これから暫く、社交界は『冬眠期間』に入ります。嵐の影響で、皆さん領地の復興に手いっぱいですから」
「あ…、そうですよね…」
「せっかくだからこの機会に、『次期公爵夫人』として貴方を一気に鍛えあげたいのだけれど、どうかしら?」
アリシアの頭には、領地で奮闘しているであろうテオドールや父の姿が浮かんだ。
アリシアは息を吸って、覚悟を決めるように頷いた。
「ふふっ。帰ってきたテオドールを、びっくりさせてあげましょう」
そう言いながら、マノンは机へ歩み寄り、かかっていた布を取り払った。
「これが、これから貴方が学ぶ全てです」
机の上には、圧倒的な量の書籍が、山のように積まれていた。
けれど、その様子を前にしても、アリシアの覚悟は揺らぐことはなかった。
(皆の大変さに比べたら、これくらいのこと…)
アリシアの表情を確認すると、マノンは満足そうに頷いた。
「いい、アリシア?
これからしばらく、あなたの毎日は、私との二人三脚になります。
お手洗いに行くときも、手紙を書くときも、ご飯を食べるときも、ぜーんぶ一緒。…ね?」
「え…?」
(嘘よね…?)
*****
チリンチリン!
マノンが呼び鈴を鳴らすと、ミーナが銀盆に載ったティーセットとお茶菓子を運んできた。
「さて、堅苦しい話はやめて、お茶でも飲みながらお喋りしましょう」
マノンは愛らしい動作で椅子に腰を下ろす。
アリシアも少し緊張しながら向かいの席についた。
「お話が弾みそうな、香りの良いお茶を持ってきたの。淹れてくれる?」
「はい」
ポットとカップを温め、ティーキャディのを開ける。ふわっとベルガモットの清々しい香りが立ち昇った。
(これ……ものすごく上等なお茶……)
ちらりとマノンを見ると、マノンはいっそう笑みを強めて言った。
「心配しないで、遠慮なく使って?」
アリシアはうなずき、茶葉を慎重な手つきでポット入れた。
「アリシアは、レオノーラのことをどう思っているの?」
「え?」
急な質問に、アリシアはまごつく。
「オペラ座で、羽夫人にいっぱい食わされたんでしょう?」
マノンの意図が読めず、反応に困る。
「…レオノーラ様とは、あまり親しい間柄ではないので、どうお答えしてよいか…」
「そう。では、お友達はいる?侯爵家以上の家柄で」
「…いません。音楽サロンでお話する程度の方ならいますが…」
「ああ、そうね。あなた、フルートを嗜むのよね」
アリシアは出来上がった紅茶をマノンの前に差し出す。マノンは香りを楽しみながら、ひと口すする。
「うん…普通に美味しいわね」
「ありがとうございます」
「それで、ジュリアンとはどんな関係?」
「え?」
「テオドールと婚約する前、言い寄られていたんでしょう?」
「…」
「内緒のおしゃべりよ、安心して話して?」
「…ジュリアン様からは、確かに、お手紙やお声がけを何度か頂きました」
「うんうん」
「でも、お互いの立場を考えると、正式な関係になるのは難しいですし、できるだけ当たり障りなく接して、ジュリアン様の関心が薄れるのを待とうと思っていました」
「ふふっ。ふふっ。そうよねー。ジュリアンはほんとに曲者なのよ。よく頑張ったわね」
「…お知り合いなんですか!?」
「ええ!私の甥っ子ですから」
言われてみれば、どこか雰囲気が似ている。
「ふふふ。意地悪な質問ばかりしてごめんなさいね。すごく困ったでしょう?」
アリシアは苦笑で返事をした。
「アリシア、あなたは優しくて素直でいい娘ね。どうしてテオドールが貴方を選んだのか、よく分かるわ」
テオドールの名前に、アリシアは思わず胸が高鳴る。
「でも、社交界の中心に立つには、動揺や感情が表に出過ぎていて、少し危ういの」
マノンは慈しむような視線でアリシアを見つめる。
「一番大切なのは、良くも悪くも、他人が何を思い、どう接してこようと、相手の評価を自分に介入させないこと。そうすれば、いつも落ち着いていられるわ」
「…難しいですね」
「そうね。訓練がいるわ」
そう言いながら、マノンは新たにお茶を淹れ始めた。
「大丈夫よ。考え方のコツがいるだけ」
湯気と一緒に、芳醇な香りが立ち昇る。
アリシアのいれた紅茶よりも、ずっとずっと良い香りがする。
「美味しい……」
「『特別』美味しい、でしょう?」
「はい。全然違うお茶みたいです」
「貴方の淹れ方に問題はなかったわ。
このポット、貴方のうちのものより丸みが強いでしょう?
だから、いつもより高い所からお茶を注ぐことができるの」
「なるほど…」
「私はその『コツ』を知っていて『特別』ができる。人との関わりも一緒よ。やれそうでしょ?」
「はい、やれそうな気がしてきました」
「ふふ、いつか貴方専用のポットも選びに行きましょう。大切なお客様にお出しする時は、自信を持って使えるセットがあると、心強いものよ」
*****
お茶の時間が終わると、そのまま公爵家の縁戚関係について、マノンから丁寧なレクチャーを受けた。
ほとんどが、縁のなかった名前ばかりで、頭に入れるのも一苦労だ。
「さっ、今日はここまで。お疲れ様!」
「ありがとうございました」
アリシアは深く息をつき、フル回転していた頭を少しでも冷まそうとした。
「じゃあ、次はあなたのお部屋へ案内してくれる?」
「え?」
「さっ、はやくはやく!」
そうして、押されるように自室へ向かうと、いつの間にか簡易ベッドが一つ追加されていた。
クローゼットの一部にはスペースが設けられ、マノンの荷物が窮屈そうに整理されている。
「ここで…お泊りになるんですか?」
「ええ、『いつも一緒』。そういったでしょ?」
(『二人三脚』って、こういうこと…?)
人の良さそうな笑顔の奥に潜む、マノンの底知れぬ迫力。
逃げ場のない小道に立つ獲物を見据える捕食者のようで、背筋がひんやりとした。
(…これから、どうなってしまうんだろう)




