オペラ座の夜③
シャルヴァン家のボックス席は、一階、舞台のほぼ正面に位置していた。
席の入口には、柔らかな布地のカーテンが垂れ下がっている。
愛想の良い案内係がカーテンを引いた先に、ふたり分の椅子と、金縁の小さなテーブルが品よく据えられた小部屋が現れた。
テオドールに促され、一歩、足を踏み入れる。
アリシアの視界いっぱいに、壮大で豪奢な劇場の景色が広がる。
左右に繊細な金の細工が連なる深紅の緞帳、それを取り囲むように縁取られた幾重にも重なる観客席。
天井からは、煌めくようなシャンデリア。
シャンデリアからの光の乱反射が、会場全体に降り注ぐ。
その圧倒的な光景に、しばらく動くことが出来なかった。
「座ろう、アリシア」
隣から静かな声が響く。
肩に触れたテオドールの手に、はっとして意識を戻した。
「……座る席で、劇場のイメージがこんなにも変わるんですね…」
「そうか?」
「ええ…」
テオドールが、入り口付近に控えていた案内係に目配せすると、係りの者は、観客席からの視線を遮るように、席の側面に設けられたカーテンを引いた。
個室感が増し、外部から向けられる視線が少なく感じる。
やがて係の者が下がり、入り口のカーテンも閉じられると、ボックス内に静寂が訪れる。
アリシアは、背筋をぴんと伸ばし、膝を揃えて手を重ねて座る。
その横では、テオドールが、すっと背もたれに身をあずけ、片肘を肘掛けに置いた。
「そんなに背筋を伸ばしたら、舞台に立つのかと勘違いされるぞ」
テオドールは、気を張るアリシアを横目で見ながら可笑しそうに言った。
「この席は、他の観客席や舞台から、見えにくい構造になっている。肩の力を抜け」
言葉の意味はわかったが、アリシアの身体はそれに応えられなかった。
結局、劇の間中ずっと姿勢を正している羽目になった。
そんな彼女を、テオドールはくすぐったそうに見ると、柔らかな暖かい視線を送った。
*****
帰りの馬車の小刻みな揺れのなか、アリシアは相変わらず良い姿勢を保っていた。
正面に座るテオドールが、背もたれに身体を委ねながら、先に口を開いた。
「……『白銀のミューズ』でのオペラは、初めてだったか?」
「…いえ、以前に一度だけ。父に連れられて、『フィガロの結婚』を観たことがあります」
「なるほど。では、今日の演目は?」
「『魔笛』は、はじめてでした」
「そうか…。楽しめたか?」
アリシアは、少し時間をかけて思考し、口を開いた。
「…はい」
テオドールは彼女の口ごもる様子が気になったのか、質問を重ねる。
「気に入った場面はあるか?」
「…それが、…」
アリシアは、血の気が引いていくのがわかり、指先を握りこんだ。
そして、観念したように細く細く長いため息をつくと、消え入りそうな声で続けた。
「緊張しすぎて…。実は、あまり覚えていないんです…ごめんなさい」
座席の端で青白く小さくなっているアリシアの様子に、テオドールは声を上げて笑った。
彼は、ひょいと立ち上がると、アリシアの隣に腰を下ろす。
「だったらもう一度、観にいく必要があるな」
「え……」
耳元で囁く声と近くなった彼の気配に、アリシアはどきりと胸を鳴らした。
彼の手が、そっと彼女の手に重ねられる。
「テオドール様…」
「ああ、違う」
彼は目を細めて、微笑んだ。
「テオドール、だろう?」
アリシアに白魔法でもかけるようなやさしいトーンだった。
「…テオドール」
重ねられた手からは、テオドールの熱が伝わり、ふわふわした甘酸っぱさが全身に広がっていく。
「で…でも、楽しかったのは本当です」
「敬語も、なしだ」
彼の声が低く響く。
アリシアを射抜くように見つめる淡い灰青の瞳が、あまりにも特別すぎて、目の奥が熱くなり、瞬きのたびに涙がこぼれそうだった。
「…はい」
それ以上、何も言えなくて、アリシアは俯いた。自分が溶けて無くなってしまうのではないかと思うほど、身体中が熱い。
二人のあいだに静かに時間が流れる。
「テオドール、今日は、…ありがとう」
アリシアは、絞り出しすように、やっとのことで口にした。
重ねられた彼の手に力がこもるのがわかった。
「アリシア」
そっと名を呼ばれて、彼女は顔を上げた。
テオドールの手が、彼女の頬に添えられる。
そのまま、彼はアリシアの唇に軽く口づけた。
彼の柔らかな感触に、すべての意識を奪われていく。
彼がゆっくりと唇を離し、優しく囁く。
「目を閉じろ、レディ」
アリシアは何も考えられず、言われるがままに瞼を下ろす。
そして、もう一度――
今度は、確かで濃厚なテオドールの感触がアリシアを襲っていった。




