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オペラ座の夜②

オペラ・ド・ラ・ミューズは、王都ウィロウの中心、〈ミューズ通り〉に建っている。

白亜の石肌に金の飾りが織り込まれ、夜になると街灯と月光がその輪郭を淡く浮かび上がらせる。

その静かな輝きから、人々はいつしかこの劇場を『白銀のミューズ』と呼ぶようになった。


馬車の窓の向こうに、その姿が現れる。

夢のような建物。

物語の始まりを知らせる灯り。

少し前の彼女なら、その光景に胸を躍らせていた。


けれど今、アリシアの目に映る『白銀のミューズ』は、かつてとはまるで違う表情をしていた。

高くそびえるその姿は、物語ではなく、彼女自身の在り方を粛々と問いかけてくるようだった。


「アリシア」

瞳を覗き込むように、テオドールが名を呼ぶ。


「そんなに気張る必要はない。君は今のままで十分だ」


熱を帯びた視線でアリシアは彼を見上げた。


「誰かとの会話で答えづらいことがあれば、黙っていて構わない。なんとかしよう」


「はい……」


「それと、これからは『テオドール』と呼んでくれ」


そう言われてアリシアの頬は思わず赤く染まった。


それに気づかぬまま、面映ゆい気持ちを隠したつもりで、

「はい、テオドール」

と、応える。


テオドールはそんな彼女を愉快そう見て、笑顔を見せた。


*****


*ホワイエに入ると、すでに社交界の面々が集まり始めていた。

煌びやかな照明と香水の匂いに包まれ、視線を少し上げただけで、いくつもの目が二人に注がれる気がした。


アリシアは笑みを崩さぬように注意しながら、テオドールの歩調に合わせ、すれ違う淑女や紳士たちに会釈を返していく。

挨拶の言葉は短く、けれど、優雅に見えるよう細心の注意を払う。


その耳元に、テオドールがふいと顔を寄せた。


「……あの孔雀も驚きそうな頭の夫人、他人のゴシップが何よりの好物だ。気をつけるといい」


アリシアが目線を向けると、広間の柱の陰に、様々な羽飾りを頭につけた中年の夫人達が輪を作っていた。


その一群の中で、羽毛の花束を頭に乗せた夫人が、扇子越しに微笑みながら手を上げた。


「まぁ、シャルヴァン公爵のご令息とご婚約者様ではありませんか?」


呼びかけに、アリシアは歩みを緩め、テオドールと並んで立ち止まる。

控えめに裾をさばき、笑みを湛えたまま、礼をする。


「ご機嫌麗しゅうございます、夫人」


その挨拶に、夫人は目を細めながら口元に扇子をあてた。


「まぁ、お綺麗なこと。――ほら、レオノーラ、貴方もこちらにいらして」


この場にレオノーラを呼ぶ機転に、アリシアは閉口しながらも、表情を崩すことなく、立ち位置を整える。


(趣味の悪い遊びをする人ね…)


きつい香水の香りと、手に持った扇子を揺らしながら、レオノーラ・コルヴェールが現れた。

彼女は、テオドールとアリシアを目にすると、何度か瞬きをしてまごついたが、すぐにいつもの調子に戻る。


「ごきげんよう、テオドール様。そして……《新しい》ご婚約者様も」


扇子をふわりと仰ぎながら、レオノーラはわざとらしい笑みを向ける。

その一言に、夫人たちの何人かが小さく口元を押さえた。


アリシアは、内心煩わしさを感じながらも、丁寧な口調で応えはじめた。


「ご挨拶できて光栄です、レオノーラ様。

幼い頃から、レオノーラ様の社交界でのご活躍は耳にしておりました。若輩者の私が憧れの方に、こうしてお目にかかれたこと、嬉しく思います。

……こうしたご縁をくださったご夫人に、感謝しなければいけませんね」


「……まあ」

夫人の扇子を仰ぐ手がぴたりと止まり、口元の笑みが微かに引きつる。


「感謝だなんてそんな……ねえ、皆さん?」

場を取り繕うように周囲へと視線を流すが、その声音はどこか間延びしていた。


レオノーラは笑みを湛えたまま、夫人へと一歩近づき、低く美しい声で言った。


「私からもお礼を申し上げますわ。

こうした場を『誰にとっても』思い出深いものにされる、そのお手並みには、いつもながら感心いたしますわ。――本当に」


夫人に釘を刺すように圧をかけると、扇子を傾けて周囲を一瞥した。


「……あちらで連れを待たせておりますの。これで、失礼いたします」


そう告げると、レオノーラは一分の隙もない所作で身を翻し、すっとその場を後にした。


その様子を愉しげに眺めていたテオドールが、少しだけ口元を引き締めながら言う。


「私たちも席に向かいます。この辺でご容赦ください。ごきげんよう、皆様」


アリシアは最上級の笑顔を作って一礼し、テオドールに並んでその場を離れた。

*ホワイエ

劇場やオペラハウス、美術館などにある

「ロビー」や「休憩スペース」にあたる場所のこと


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