馬術大会とハンカチ
午後の陽光が芝にまだらな影を落とし、馬術大会の会場には貴族たちの軽やかな笑い声があふれていた。
色とりどりのドレスが咲き誇る中、アリシアもまた令嬢たちの輪の中にいた。
「あ、ほら見て!テオドール様よ」
隣にいた令嬢が、アリシアの婚約者を見つけて声を上げる。
馬場の中心では、栗色の髪を風になびかせ、馬上に凛と腰を下ろすテオドールの姿があった。
彼が手綱をすっと引くと、馬はその場で後ろ足を軸に、しなやかに一回転する。
その無駄のない動きに、周囲から小さく歓声があがる。
テオドールは客席に向かって控えめに手を挙げ、微笑を向けた。
「アリシア様、ご覧になりました?素晴らしい後躯旋回ですわ。あんな方が婚約者なんて、本当に羨ましい」
「ありがとうございます」
アリシアは胸の奥に生まれた小さなモヤモヤをぎゅっと握りつぶし、にこやかに笑った。
テオドールの馬術は洗練され、美しい。
特に目立った動作はないのに、手綱を握る指先、まっすぐ伸びた背筋、馬の足音にさえ品格が漂う。
「綺麗ね…」
優雅に馬を操る姿を、眩しそうに眺めながら、アリシアは今朝の出来事を思い出していた。
*****
それは、会場へ向かう人々の流れの中、白い砂利が整然と敷かれた小道を、テオドールにエスコートされていた時のことだった。
伯爵家の令嬢として、婚約者として、恥ずかしくない振る舞いをしなくてはと背筋を伸ばす。
横を歩くテオドールの足取りに合わせるのも、彼女には小さな努力が必要だった。
ふいにテオドールが足を止める。
その視線の先には、砂利道に落ちた淡い青のレースのハンカチ。
アリシアが状況を理解する前に、彼は腕を解き、手にしていた日傘を彼女に預ける。
テオドールは、それが自然な流れであるかのように、前へ進み、しゃがんでハンカチを拾い上げた。
アリシアは日傘を持ったまま立ち止まり、戸惑いながら彼の背中を見つめた。
彼は数歩先の令嬢に近づくと、静かに声をかける。
「お落とし物です、レディ」
令嬢は頬をわずかに染め、恥ずかしそうに会釈する。
まごつく彼女の代わりに、隣にいた兄らしき人物が「ありがとう」と穏やかに応じ、ハンカチを受け取った。
兄らしき人物はアリシアの姿に気づき、はっとした表情で気まずそうに会釈した。
そのとき、少し離れた場所から声が響いた。
「テオドール、少し手を貸してくれないか」
テオドールは顔を向け、声の主を確かめるように目を細める。
視線の端にアリシアを捉え、刹那、何かを思案するような気配を見せた。
「わかった。すぐ行く」
令嬢とその兄に軽く会釈すると、足早にアリシアの元へ戻る。
「待たせたね」
「…いえ」
アリシアは日傘の陰に彼を隠し、腕に手を伸ばそうとした。
「友人が困っている。悪いがここからは一人で行ってくれないか?」
思いがけない言葉が、彼から放たれた。
そして、アリシアの返事を待たず、彼は背を向けて、友人のもとへ駆け出していった。
(ーーーーあれ? 私、置いていかれた?)
後ろを歩いていたカップルが、申し訳無さそうにアリシアを追い抜いていく。
(…どうしよう…)
気づけば、人の流れからぽつんと取り残されていた。
*****
はぁっと大きなため息をついた。
(嫌なことを思い出してしまった)
胸の奥にじわじわと広がる不快感。息を吸うのも億劫に感じる。
「……すみません、少し席を外します」
立ち上がろうとしたアリシアに、隣の令嬢が小声で言った。
「え? もう? テオドール様の演技、まだ終わっていませんよ?」
驚きと少しの心配が混じった声だったが、アリシアは笑みを崩さず首を振る。
「少し気分がすぐれなくて。お気になさらず」
足音を忍ばせ、見学席を離れようとしたとき、ふと手元の白いレースのハンカチに目が留まる。
テオドールが誕生日に贈ってくれたものだった。
アリシアが力を抜いて手を広げると、ハンカチは、簡単に指の間からすり抜けていく。
落ちる寸前のところで、反射的に、キュッとつかみ直す。
それを、落ち着いた動作で丁寧にたたみ直すと、もう一度、掌の中にぎゅっと握り込んだ。
周りに気づかれないほどの小さな深呼吸をすると、アリシアは静かに見学席を離れた。
*****
テオドールは馬上での最後の動きを終えると、ゆっくりと馬を止めて見学席へ目を向けた。
拍手や歓声が沸き起こる中、彼の視線は自然と婚約者の姿を探す。
しかし、そこにいるべき人の姿はなかった。
テオドールは、軽く眉をひそめるが、すぐに柔らかな笑みを戻し、涼やかに馬上で一礼した。