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フェオンの巫子  作者: ミナト碧依
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05

 サラは黒州王(こくしゅうおう)の陣営に連れてこられ、二人きりになった。

 蘭黎(らんれい)軍の天幕は思いのほか豪奢だった。長机に椅子はもちろん、低いながらに寝台のようなものまである。敷物の刺繡も凝っているし、分厚い天幕に守られた中は屋内とさほど変わらない。窓がないため蝋燭が灯されているが、燭台もまた緻密な細工が施されていた。

山中への遠征は防寒対策も必要なためある程度の装備は必要だが、身軽さを要求される中でこれほどの調度品を運ぶとは。

 長い沈黙の後、華崚祐(かりょうゆう)は口を開いた。

「お前が身代わりでないと証明できるか」

「この額飾りは歴代の玉依(たまより)に受け継がれるものだ。額飾りは巫子(みこ)の証だが、銀光石は玉依にのみ許された石」

「玉依姫ならば独身のはずだ」

 なぜそんなことを知っているのか、とは聞かなかった。間諜でも紛れこませていたのだろう。玉依姫のアバサ視察が知られていたことが何よりの証だ。

 サラは左腕を上げた。

「私の左手首に結紐はない」

「右も見せろ」

 サラは命じられた通り右腕も見せた。右に着けているとしたらそれは寡婦や寡夫の証だ。右には先立った配偶者の結紐を着ける。そんなことまで知っているのか。

 両手首に結紐がないことを確認した崚祐は立ち上がると、サラと机の間に入ってきた。そのまま机に腰を下ろしてしまう。膝が触れるほど距離を詰めた黒州王は、声を潜めてサラに告げた。

「俺の妻になれ。フェオンの玉依姫」

 サラは耳を疑った。だが動揺してはいけない。これは交渉だ。ならば理由があるはず。

「目的を聞こう」

「俺はフェオンとの同盟を望んでいる」

「同盟だと? 我が地に攻め入り女子供を人質にしておいて何を言う!」

 思わず声を荒げたサラの口を、腰を浮かせた崚祐が手で覆う。

「大きな声を出すな。誰が聞いているかわからん」

 陣営の外にいるのは彼の部下たちだ。部下さえも信用できぬというのか。

 サラは崚祐に「大声を出すなよ」と念を押され、しぶしぶ頷く。それを見た敵の公子は手を離し、机の上に腰を下ろし直した。

「同盟の交渉をしに来ただけで攻撃する予定じゃなかった。先に仕掛けたのはお前たちのほうだ」

「戯言を。別動隊まで差し向けておいて言い逃れするのか」

「別動隊は攻撃が始まったときの保険だ。先触れに矢を射かけたのはお前たちだろう」

「なんの話だ。私は先制攻撃など許可していない」

 先ほどの小隊長と同じことを言っている。だがにわかには信じられない。

「そうか。お前は女たちを逃がすために場を離れたから見ていないのか。部下の独断か?」

 サラは困惑した。フェオンの民は優秀かつ忠実な戦士たちだ。今の砦の人員を正確に把握はしていないが、イギルがいる。イギルがサラの命令を無視して先制攻撃を仕掛けるなどあり得ない。ではイギルの部下の誰かが、独断で。

「矢を射た者は」

「死んだ。投擲用の火薬に引火して、十人ほど巻き込んで吹っ飛んだようだ」

 門の爆発はそれか。

 サラは唇を噛んだ。民の血を流したことも、真実を調べられないことも悔しくてたまらない。それにイギルや、救護所の準備をすると言っていたサクロは無事なのか。

「とはいえ同盟の意志は変わらん。俺の妻になれ。玉依姫」

 心臓が震える。けれど甘い記憶に引きずられるような雰囲気ではない。

「なるほど、私に人質になれというか」

「同盟を結ぶためには必要なことだ。この交渉が決裂すれば、蘭黎がフェオンを攻めることになる。使者として訪れた我々を攻撃した責任を取ってもらう」

「脅しか」

「どう取られても構わない。だが俺はフェオンに借りがある」

「借り?」

 サラの問いに黒州王は一瞬視線を下げた。だがすぐにそれを上げてサラを見据える。

「五年前、フェオンを襲わずに済むならそうしたかった」

 怒りが全身を駆け巡る音を聞いた気がした。

「何人死んだと思っている。手足や家族を失い、家を追われた者がどれだけいたか知っているのか」

かろうじて恫喝は避けたものの、それでも非難の言葉が止まらない。

 額に拳を押し付け、視界を遮る。冷静になれ、と己に言い聞かせた。今は交渉の場だ。

「生き延びるためには物資が必要だった」

 冷静にならなければならない、のに。

「あの頃の蘭黎は敵ではなかった。あんな方法しかなかったのか!」

 声が大きくなる。あの惨状を、傷ついた民を、サラは今も克明に覚えている。

 華崚祐は悪びれる様子もなく続けた。

「古くからこの地で生きる民だとしても、冬の終わりに他人に分け与えられるほどの蓄えはなかった」

「十分な備えなく山に入ったよそ者のために飢えろというのか。あのとき貴殿の軍が飢えたのは貴殿のせいだ。アバサの里長は貴殿らを生かそうとしたのに!」

 戦闘で数を減らしたとはいえ、蘭黎の二千五百の軍勢を賄うのは容易ではない。施しをすれば必ずフェオンの重荷になる。最後まで面倒をみることができない以上、受け入れることはできなかった。

だがアバサの里長は当時フェオンにとっても脅威であった叙眞族を討伐した蘭黎軍に敬意を払い、物資以外の援助をした。冬越えのための知恵を授けたのだ。それでも長引いた冬に耐えかねる彼らに、なんとか支援できないかと里長は大長に嘆願した。アバサ襲撃はその協議の最中に起こった。

「そうだ」

 意外にも崚祐は素直に肯定した。

「俺のせいだ。俺の軍が飢えたのも、フェオンの民が死んだのも」

「……は」

 嘲笑が漏れる。さらなる嫌味でも浴びせなければ気が済まなかった。それでも蘭黎という大国相手に、なけなしの理性がようやく口をつぐませる。

「その借りを返すために、俺はここへ来た」

「ありがたがって蘭黎の傘下へ入れというのか」

「フェオンを亡ぼそうとしている連中がいる」

「何をいまさら。そうしたいのはそなたたちだろう」

「真面目に聞け。玉依姫が暗殺される」

 予想外の言葉に、サラは顔を上げた。フェオン討伐でも大長暗殺でもなく、敢えて玉依姫だけを狙って暗殺する理由とは、その目的はなんだ。

「ようやく聞く気になったか」

 顔色を変えたサラに、華崚祐は目を光らせた。

「連中がフェオンを邪魔に思う理由は三つ。一つは蘭黎人でないこと。二つ目は馬や鉄などの良質な軍事資源を有していること。そして三つめは雪原最強の戦士たちが蘭黎の脅威となり得ること。それは俺が五年前、身をもって証明した」

「蘭黎ほどの大国がわれらを脅威と?」

「フェオンの地で戦うのは不利だ。数に物を言わせようとしても、狭い山道では色々と限度があるからな」

 元々そういう土地だった。そしてその不文律を壊したのはこの男の軍だった。

 とはいえ地の利がフェオンにあるのは変わらない。五年前のように数に任せてフェオンに攻め込むことは可能だろうが、少なくない犠牲を覚悟しなければならない。サラにも蘭黎に一矢報いる自信がある。だがフェオンに対してそれだけの犠牲を払うほどの理由も因縁も、今の蘭黎にはない。

「三つ目の理由は、あくまで戦えばの話だ。フェオンに蘭黎侵略の意思は――」

 言いながらはっとした。

「そうだ。玉依姫が蘭黎に暗殺されれば、それは報復の理由になり得るだろう?」

 五年前、フェオンは蘭黎に報復しなかった。蘭黎という大国を敵に回し、叙眞族の二の舞は避けねばならないと大長が判断したからだ。砦を失い、春先という物資の最も少ない時期にフェオンに戦をする余力がなかったことも大きい。アバサの――正確には生き残りたちの保護で手一杯だったのだ。

 けれど今は違う。今回の襲撃があったとはいえ砦はほとんど完成しており、五年前の教訓から蓄えもある。何より五年前の禍根が残る中で「玉依姫」という象徴が暗殺されれば、大長がどう収めようとしても民が許さない。

「それに連中は玉依姫そのものを排除したいとも思っている」

「何故だ」

「姫が怪しげな術を操るという噂があるだろう」

「貴殿はそれを信じたのか」

「いや? だが姫が十余年前、三倍の数で攻め入った叙眞(じょしん)族を退けたというのは、信じてもいいと思っている」

 五年前、華崚祐の軍が叙眞族を討伐するまで、フェオンはたびたび叙眞族の奇襲に悩まされていた。叙眞族は隠密行動を得意とする。奇襲によって被害が拡大することは間々あることだった。

 十三年前のその日もそうだった。年に一度の長会議のため、アバサどころか近隣の長たちも不在にする日を狙った奇襲。瓦解するかと思われた砦の軍勢は、しかし強固に砦を守り抜いた。それどころか援軍の到着をまたず一昼夜にして叙眞軍を壊滅せしめた。

その砦を指揮したのが、当時十歳の見習い巫子だった少女。のちに歴代最年少で玉依姫となるサラである。

この件で民からは「大巫子の再来」とあがめられたが、叙眞族からは「フェオンの魔女」と呼ばれた。たった十の少女が叙眞の軍勢を退けたのは、怪しげな術を使ったに違いないと。わずかに生き延びた敗残兵は、フェオンの砦は不思議な力で守られ、矢が届かないどころか近づくことさえままならなかったと語ったという。

「大長の娘として指揮官になったのが本当だとしてもお飾りで、実力ある副官がつけられたのだと考えていた。だが俺の軍と対峙したときの迅速な判断と先ほどの身のこなしを見て考えが変わった。十の娘に惨敗した叙眞が妙な噂を流したのも仕方のないことだろう。或いは本当に信じていたのかもしれんな。優秀な将はそれだけで脅威だ。玉依姫が死ねばフェオンは決起する。優秀な将を欠いた状態で平原まで出てきてくれるならこちらにも分がある上に、フェオン討伐の理由になる。願ったりかなったりだ」

「私の暗殺を蘭黎皇帝が看過するとは思えんが」

「陛下は無用な争いを避けるが、人徳者というわけじゃない。利がないからそうしないだけのこと。蘭黎の利になれば見逃すだろう。対外的には叙眞の仕業だと主張すればいい」

「仮にそれを阻止して、貴殿になんの得がある?」

「言っただろ。俺はフェオンに借りがあると。それを返したい。ついでに恩も売れる」

「借りというならば恩にはならぬ」

 サラは少し考えた。何かがおかしい。

「……釣り合わないな」

「なんだと?」

「貴殿の言う『連中』がフェオンを廃したい理由の一つ目が『蘭黎人でないこと』。フェオンに暗殺者を送り込むことができ、皇帝を欺こうという大胆な策略を企てる。なにより大軍を動かすことのできる財と権力を有した人物。私を狙っているのは洪州王(こうしゅうおう)――第二公子・華景俊(けいしゅん)だろう」

 交渉相手の眉がわずかに動いたのを、サラは見逃さなかった。

「皇太子亡き今、洪州王は最も立太子に近い公子の一人。ならば『市井の公子』が歯向かうには、少々相手が大きすぎる」

 サラにとってはかけがえのない民でも、大国である蘭黎にとってフェオンは取るに足らない少数民族だ。国交はほとんどなく、蘭黎にとっての脅威にもなり得ない。それなのに次期皇帝候補を自ら敵に回そうなど、フェオンへの贖罪というには大きすぎる。

「フェオンの間諜は優秀らしい。それを呼ぶのは宮中の人間だけだ」

 華崚祐は産まれてから七歳まで市井で育ったという異色の経歴の持ち主だ。生母は平民出身の下女だったが、皇帝の御手付きとなったあと出奔して秘密裏に公子を出産した。七年後、それが宮中の知るところとなり、彼女は公子誘拐の罪で毒杯を賜った。その子は公子としての身分は残り宮中に引き取られたが、後ろ盾がなく、罪人の子であるとして宮中では軽んじられていると聞く。

「もとより敵対しているという方がよほど自然だ。洪州王に対抗してフェオンを取り込みたいのだろう? いかに『軍神』といえど、相手が皇太子ともなれば国に歯向かうのに等しい。それが兄であっても」

「洪州王は皇太子じゃない。兄と思ったこともない」

「ほう? ならば自らがその器だとでも?」

 崚祐が高笑いする。本音を引き出したくて挑発めいた言葉を使ったが、やり過ぎたか。

「――気の強い女は好みだ」

「なにを……っ」

 急に首を掴まれた。ごつごつとした固い手が、片手でやすやすとサラの白い首を覆う。

「俺の妻になれ、玉依姫」

「交渉を諦めて実力行使か? 軍神殿は武に秀でていても、交渉の才能はないらしい」

「目的の為ならば、多少の無茶は押し通すさ」

 武骨な指先がサラの肌に食い込む。窒息するより先に骨を折るという脅しだ。そしてこの手ならば可能だろう。

「やるがいい。言っておくが、私程度の将がおらずともフェオンの統率力は揺らがぬ。むしろ私の死は、フェオンの士気を大いに高めるだろう。貴殿が先ほど言った通りだ」

「隠匿することなど容易い。人質に取っていると思わせればいい」

「フェオンの間諜が優秀だと褒めたのは貴殿だ。ましてやここはフェオンの地。私が死んだことなど、すぐ我が民の知るところとなる。たとえ蘭黎本国の軍に滅ぼされたとしても、その前に黒州軍を壊滅させてくれようぞ」

「そうか」

 黒州王の形の良い唇が弧を描く。翡翠の瞳がサラの体を舐めるように見て、艶然と微笑んだ。

「ならば玉依姫の純潔が奪われたことも、すぐに民の知るところとなろうな?」

「なんだと?」

顔を上げたその時、唇が重なった。伏せた瞼と、長い睫毛。唇に触れる柔らかなその感触に思わず身が震えた。遅れて身を引こうとしたが、腰に手が回されて動きを封じられる。

「んっ……んん⁉」

重ね合わせるだけだった唇が、舌にこじ開けられた。熱い舌が口の中に滑り込んできて口内を蹂躙される。

 長い口づけのあと、息苦しさに呆然としていたサラは、黒州王が自分の唇を舐めたのを見た。正確には唇に移ったサラの唾液を舐め取ったのを。サラは羞恥心に頬を染めた。

 腰に回っていた手に強引に引き寄せられて、気づけば崚祐に横抱きにされていた。抵抗する間もなく寝具に下ろされて、手首を掴んで褥に縫い付けられた。

 目的のために既成事実を作ろうというのか。

 翡翠の瞳も濡羽の髪も記憶にあるままだ。焼き尽くされそうな殺意を感じたことがある。だがこの男のこんな冷たいまなざしをサラは知らない。これが黒州王・華崚祐か。

「待っ……」

 声を上げかけたサラの唇に、武骨な人差し指が触れる。崚祐は一瞬視線を天幕の入口に向けると、サラの耳元に顔を寄せた。

「ひとつ、その気になる話をしてやろう」

 囁いた言葉は睦言ではない。だがはた目にはそうとしか見えない上に、話の内容が外に聞こえようもない。密談をしていると悟られぬために寝台に放り投げたのか。先ほどもそうだったが、自軍の中でさえこれほどに警戒するのか。

「皇帝が病を得た」

「それがどうした」

「本当に、フェオンの間諜は優秀らしい。蘭黎の最重要機密だ。俺ですら数日前に知ったばかりなのに」

 崚祐は驚いた様子もなく、喉を鳴らして小さく笑った。

「このまま皇帝が死ねば、帝位争いが表面化する。そうなればいくつの勢力が名乗りを上げるか、正直俺にもわからん。国全体が戦乱の時代になるかもしれん。再興した叙眞族もこれに乗じて攻め入るだろう。黒州の前にどこを襲うか、見物だな?」

 痛いところを突かれた。蘭黎の乱より、フェオンにとって目先の脅威は間違いなく叙眞族の方だ。そして蘭黎侵攻の足掛かりにフェオンを襲う。崚祐はサラと同じ考えをしているというわけだ。

「洪州王は黒州軍も邪魔に思っている。だから帝位争いが表面化する前にフェオンと潰し合わせたいのさ。俺たちが争いになれば叙眞も出張って三つ巴になるだろう。そうして俺やフェオン、叙眞の戦力が削がれたところで美味しいところを横から奪うつもりなんだ。上手く立ち回れば、蘭黎の脅威となる蛮族を退けた功績で立太子も近くなる。姫はそのための贄だ」

 贄。どこまでも蘭黎本位な扱いだ。セイヤあたりが聞いたら確実に激怒する。これが正式な交渉の場でなくてよかったと、サラは少し現実逃避した。

「俺は洪州王に利用されるつもりはない。だから姫に死なれちゃ困るんだ」

「フェオンが黒州王と同盟を結べば、洪州王の目論見ははずれるというわけか。だが」

 仮に黒州王・華崚祐と同盟を結んでも、このまま皇帝が崩御すれば乱は起きる。そうなったときに耐えられるのか。

「姫の言う通り、俺に皇位争いをするだけの権力はない。俺の軍は最高最強だが、禁軍や諸侯を動かされると数では劣る。フェオンと手を組んだくらいでは抑止力にもなれない。――俺は使者だ」

「使者? いったい誰の」

 仮にも公子ともあろう者が使者を務めるほどの相手とは誰だ。

犀州王(さいしゅうおう)・華青蘭(せいらん)

 まるで睦言のように囁かれたのは、別の男の名。思いがけないその名に、サラは言葉を失った。

 華青蘭といえば貴妃を生母とする第三公子だ。犀州を奉じられ、諸外国との交易で犀州を皇都に次ぐ大都市にまで発展させた切れ者と聞く。洪州王・華景俊と並び、皇位争いの双璧と目される人物。

「俺は犀州王についた。同盟を望んでいるのは彼だ。密書もある」

 密書。印章を確認せねば確かなことは言えないが、偽造はまず無理だ。ならばはったりの可能性は低い。

「このまま皇帝が崩御すれば必ず国が荒れる。犀州王はその前に立太子して勢力を盤石なものとするつもりだ」

「そして我らに犀州王を守るための鉾となれと?」

「同盟とはそういうものだ。否定はしない」

 崚祐はあっさりと肯定した。その危険と天秤にかけられるほどの利がフェオンにもたらされるのか、サラは見極めなければならない。

 崚祐はサラの耳元で続けた。

「仮に皇帝の存命中に勢力争いが決着し乱が起きずとも、もし洪州王が即位すれば必ず異民族狩りが始まる。国内外問わずな。犀州王が即位したとしても、この同盟を蹴ったフェオンを敵とみなすだろう。犀州王は敵に容赦しない。そうなれば結果は同じだ」

 サラは考える。蘭黎の後継者争いにフェオンを巻き込むわけにはいかない。だがそもそも巻き込まれることが避けられないならば、確かに犀州王という後ろ盾を得るのは希望につながる。そう思うのに素直に頷けない。この違和感はなんだ。

「この同盟に同意するか?」

「私は大長ではない。私の一存では決められぬ」

 それはサラ自身は同意すると告げているようなものだった。それに気分を良くしたのか、崚祐の声が少しだけ楽しげに聞こえた。

「俺の妻になって大長を説得してくれればいいさ」

「正式な同盟を大長が受け入れるならば、人質などなくともフェオンは味方する」

「保証のない同盟を犀州王は信用しない。同盟を結ぶということは、姫が俺の妻になるということと同義だ。同盟を受け入れろ。味方になれば犀州王はフェオンを必ず庇護する」

 ――妻になれと言うくせに、ほかの男を選ばせるのか。

 そんな愚かな考えが浮かんだ。

 そのとき違和感に気づいた。政略結婚だとしても筋が通らないのではないか。

「貴殿の言う『同盟』は蘭黎ではなく、あくまで犀州王との間に結ばれるものだ。ならば婚姻を結ぶべきは貴殿ではなく犀州王ではないか?」

 サラの問いに、崚祐が少し身を引いた。翡翠の瞳にわずかに嫌悪を滲ませている。

「犀州王の妻になりたいと?」

「私はフェオンの玉依だ。無為な結婚をするつもりはない。貴殿と結婚して、本当に犀州王はフェオンを庇護するのか」

「犀州王がフェオンに与える庇護とは俺のことだ。それにこの同盟の懸念材料といえば五年前のアバサの件だけ。俺と姫の婚姻によってその禍根が払拭されたと示せる」

 確かにそれならば辻褄が合う。それに犀州王が皇帝となるならば、その妻はいずれ皇后となる。それがフェオンの玉依では役不足だろう。蘭黎国内の有力貴族か、隣国の王女あたりを娶らねば釣り合わない。サラとてそれに匹敵する立場ではあるが、国力が違う。フェオンの大長の娘など、戦の火種にはできても皇后には見合わない。「市井の公子」あたりが丁度良いということか。

 同盟を受けても蹴っても結果は同じ。ならば華青蘭につけば、フェオンは庇護される。それに蘭黎と国交ができる。

 黙り込んだサラに、崚祐は静かに告げた。

「無言は是と取る。――抱くぞ」

 短い宣言に、ぞくりと背筋が粟立つ。

 サラの両腕を拘束する手に力がこもった。片手で易々と女の自由を奪うその手は、そこにサラの意思など必要ないと言わんばかりだ。

 反論が浮かばない。崚祐の言は筋が通っていて、サラは確かにこの同盟に利を見出している。だが。

このままこの男の妻になるのか。思惑のためだけに、肩書と体だけを求められて。

 片手でサラの両手の自由を奪ったまま、首筋に顔をうずめる。柔らかく湿った何かが肌に触れた。

「やっ……」

 思わず拒絶が口をついて出そうになって、唇を引き結ぶ。

 このままこの男の妻になるわけにはいかない。

 同盟は確かにフェオンの利になる。これ以上拒絶すれば同盟そのものが立ち消えるかもしれない。これが正しいのかわからない。それでも同盟の可能性を潰すことだけは避けなくてはならない。

 ――考えろ。私は、フェオンの玉依は何を言うべきなのか。

 もう抵抗の意思がないと悟られたのか、身体が離れ腕の拘束も解かれた。崚祐は手早く己の鎧を脱ぎ捨て、衣を緩めた。武人の割に線が細いと思っていたが、記憶よりも厚い胸板が覗く。ああそうか、あのときはろくに食事がとれていなかったのだと、今はどうでもいいことを思った。

 再び手が伸びてきて、身が強張る。

 ――うろたえるな。思考を止めるな。言わなければ。

 崚祐を見据えて、サラは唇を開いた。

 そのとき、武骨な掌がサラの頬を包む。何かを確かめるように。親指が頬の形をなぞった。

意外なほど優しい手つきに、言おうとした言葉が引っ込んだ。覆いかぶさってきた彼の顔が陰になる。

 崚祐の手が頬から下がって襟にかかった。見上げた顔に表情らしい表情は見えない。瞳に称えた燃えるような闘志も、初めて見せた笑顔もはっきりと思い出せるのに。何を思う。何故サラを抱こうとする。

 胡服の留め具が外されて、サラはぎくりとした。

「…………いやだ」

 掠れた声が耳に届いて、サラは自分がついに拒絶を口にしたことを知った。

 はっとして唇を噛んだがもう遅い。言ってしまった。男の表情が歪む。気分を害したのか、荒々しい手つきで衣をはぎ取りに、いや、引きちぎりにかかった。武骨な指が布越しに肌に沈む。口がまた「いやだ」と言うのを、体が抵抗しようとするのを止められなかった。

 そのまま強く引かれたかと思うと鈍い音を立てて衣が裂けた。白い首筋や、衣に隠されていた胸元が晒される。サラはぎゅっと強く目をつむった。

「見ないで……っ」

 サラは顔をそむけた。崚祐の顔を見ることができなかった。小さく息を呑んだのが聞こえただけだ。

 どれくらいそうしていただろうか。実際には短い時間だったのかもしれないが、永遠にも感じた。ふっと身が軽くなった。

 恐る恐る目を開けると、こちらに背を向ける形で寝台に腰かけていた。サラは咄嗟に引き裂かれた衣をかき抱いて胸元を隠した。

「興がそがれた」

「え……?」

「その気のない女を抱くほど不自由していない。信用のできない女に急所を晒すほど愚かでもない」

 そう言って華崚祐は乾いた笑みを浮かべた。

「だがお前は今から俺の妻だ」

 そう言って短剣を取り出すと、いきなり袖をまくって左腕を傷つけた。

「黒州王⁉」

 サラは思わず声を上げた。

 崚祐は気にした様子もなく、褥に血を数滴たらす。さほど深い傷ではないようだ。

 困惑するサラに、口元を歪めた。

「これで、お前が俺のものになったことを疑う者はいない」

「こんな小細工に意味があると」

「ならば処女検査をするか」

「検査だと?」

「通常、蘭黎の皇族が妻を迎えるときは、正室だろうが側室だろうが処女検査をする。医官の前に股を開いてお調べを受けるんだ。従軍している軍医に調べさせようか? 処女だと診断されれば、この小細工は意味をなさない」

 そんな屈辱的な検査など、受けられるはずがない。

「黒州王、私は」

「この同盟に必要なのはフェオンの玉依姫が黒州王の妻になったという事実だ。それくらいは譲歩しろ」

「黒州王!」

「なんだ」

「子が」

 声が上ずった。だが言わねばならない。

「私は……そなたの子は産めぬ」

 崚祐の目がわずかに見開かれる。だがそれ以上の動揺もほかの感情も見せることはなかった。

「子は必要ではない。だからこそ処女検査も免除してやる。俺からは手を出さぬと約束もしよう。『抱いてくれ』と懇願されたら別だがな」

 必要なのはフェオンの玉依が、大長の娘が黒州王の妻になったという事実。そして人質として蘭黎へ同行することだと崚祐は言い切った。

 こうしてサラは、蘭黎公子で黒州王たる華崚祐の妻となった。

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