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フェオンの巫子  作者: ミナト碧依
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04

 冬の終わりが近づいたある日のことだった。

 サラは自分が住まうファルサの里から一時離れることになり、聖地のひとつである洞窟に入った。

 洞窟に籠ることは、フェオンではフィルガ山と一体となることを意味する。フィルガはこの地で生きるすべての精霊の父。精霊とともに生きるフェオンの民にとっては、精霊に近づく儀式とされていた。春に行われる儀式の準備として、サラはそれを行うことになった。

 物資の供給や連絡のためにセイヤが数日おきに訪れる以外、サラは一人で過ごした。儀式と言ってもただ洞窟で過ごすだけで、狩りに出ることもあった。

 そうして洞窟に入って間もない頃、雪原で傷ついた男を見つけた。黒髪の男が蘭黎(らんれいい)人だとすぐにわかった。

 叙眞(じょしん)族討伐を為した蘭黎軍は、帰国途中のフィルガ山中で冬を迎えてしまった。下山できなくなり、冬越えのためにフェオンの地へやってきた。その時期森の実りはほとんどないが、街道よりは獲物となる動物も増える。当然の選択ではあった。

 彼らはアバサの里の近くに陣を敷いて冬をしのいでいる。もちろん監視はつけているし、ある程度の様子はサラも聞き知っていた。凍死者や餓死者がじりじり増えていると。

 サラのいる場所は、ファルサの里から更に少し下ったところにあり、道からは外れている。男は狩りのために山を登り、迷い込んだのだろうか。アバサの近辺からこの辺りまで、この雪ならば最低でも七日はかかるだろうが、ずいぶんと遠くまで登ってきたものだと驚いた。

 男の顔には血の気がなく、腹に大きな傷があり血を流していた。男の側には大きな熊が絶命している。穴持たず――冬眠できなかった熊に遭遇したのだろう。今年は冬が早く、栄養の蓄えが間に合わなかったのかもしれない。そういう熊は穴持たずとなる。蘭黎軍が下山できなかったのも、冬が早すぎたせいだ。

穴持たずは飢えて通常より凶暴になる。そのためフェオンの民でも数人がかりで対処する強者だ。山の獣に慣れていないであろう異邦の男が、たった一人で相打つとは大したものだと感心した。

 サラの足音に反応して男の瞼がぴくりと動く。生きていると気づいて駆け寄った。薄く開いた瞼の下にある瞳は翡翠の色。静かな湖面のようだと思った。

 だがサラを見た男はその目に静かな闘志を燃やした。今まさに命が消えそうだったのに、翡翠の瞳が激しさをたたえてサラを射抜く。それは明確な殺意だった。この男は死の間際まで戦士なのだと思った。そしてその殺意とは、生への執着。

「生きたいか」

 サラは蘭黎語で問うた。玉依姫として、大長を継ぐ者として、いつか必要になると覚えた言葉だった。

「……生きる。お前を食ってでも」

 男の手が動く。だが剣どころか自分の体を支える力も残っていない。

サラは傷の状態を確かめようと、男の傍らに膝をついた。そのとき男がサラの手首を掴んだ。剣も握れないというのに、驚くほど強い力だった。

「生かしてやる。そなたが私を食らわぬ限りは」

 サラはそう言い、男を洞窟に連れ帰った。洞窟内部には温泉が湧いている。その影響か、洞窟は冬でも生活できる程度には温度が保たれている。

 サラはもちろん身分を明かさなかったし、名乗りもしなかった。男も蘭黎人ということ以外、身元につながるような話はしなかった。

 男は二週間後に山を下りた。恋をするのに、十分すぎる時間だった。


 華崚祐(かりょうゆう)は五年前叙眞族を討伐し、その直後アバサを襲った蘭黎軍の総大将。名は知っていた。だがこの男の名であることを、生涯ただ一度の恋をした男の名を、こんな形で知ることになるとは。

「まだ玉依姫(たまよりひめ)が見つかっていない。女はすべて生かして確保しろと命じたはずだ」

「女?」

 小隊長がいぶかしむようにサラを見る。男装のサラを男だと思っていたのだろう。小隊長は反論することなく、殊勝に首を垂れた。

「……申し訳ございません。反撃を受けたもので、手加減をしては逃げられるかと」

「言い訳はいい」

 困惑する弓手を前に、黒州王はサラを見た。あの翡翠色の瞳。懐かしさに声が震えそうになる。

「あ……」

 言葉にならなかった声が、喉の奥から漏れる。馬上から見下ろされる形で、なんの感情もない瞳がサラを見据える。

「武器を捨てろ。無益な血を流すつもりはない。おとなしく従えば殺しはしない」

 記憶とたがわぬ声が、けれど記憶よりずっと硬い口調でサラに命じる。

 ――私がわからないのか。

 五年も前に出逢った女の顔など、この男は覚えていないのだろう。それに明かりを灯していても洞窟内は暗かった。男は生死を彷徨った怪我人だったし、そもそも顔が見えていたかどうか。

 サラは唇を軽く噛んだ。絶望などしている場合ではない。恋したことなど今は忘れろ。

「従わねばどうする」

 サラが問うと、華崚祐は部下に合図した。蘭黎兵が女たちを連れてくる。サラは息を飲んだ。ケイナやレイファの姿もある。逃げ切れなかったか。剣を握る手に力がこもる。

 崚祐は馬を降り、女たちの中から幼子を抱き上げた。大きな手が小さな首に添えられる。

「レイファ!」

 思わず名を叫んだ。その時隙を見せてしまい、剣を奪われ羽交い絞めに拘束される。女たちに動揺が走ったのがわかった。

「この子供と玉依姫、どちらが大事だ?」

「非道な……っ」

「玉依姫が砦の視察に来ていたのはわかっている。この中にいるのだろう。素直に教えれば危害は加えない。もちろん玉依姫にもだ。だが教えねばこの子供の首をへし折る」

 鼓動が早鐘を打つ。冷静になろうとしたが、喘ぐような吐息が漏れてうまくいかなかった。喉の奥が乾く。この男が子を殺そうとするなど、いつ想像できただろう。

「それともお前たちの姫君はそういうのがお好みか?」

「玉依をどうする」

「殺しはしない。玉依姫の出方次第だがな」

 その言葉が本当か判断する術はない。だがもたもたしていてはレイファが殺される。

「わかっ、た。その子を放せ」

「言うのが先だ。玉依姫はどこだ」

「それは」

「――ワタシ‼」

 サラを遮って、ケイナが蘭黎語で叫ぶ。

「ワタシ、姫。ソノ子、放シテ!」

 この場にいる女たちの中で蘭黎語を解するのはサラとケイナだけだろう。突然異国語で叫んだケイナに、女たちやレイファも困惑した表情を浮かべる。

 崚祐はケイナに前へ出るよう指示した。蘭黎兵に乱雑に腕を掴まれたケイナは、痛みに表情を歪めた。

「ケイナ!」

「おい。丁重に扱え」

 サラが思わず親友を呼んだのと、黒州王が部下を諫めたのは同時だった。丁重にとはどういうことだろう。黒州王の目的はなんだ。

崚祐はレイファをその場に下ろし、部下に見張らせた。そして品定めでもするように、一定の距離を取ってケイナを眺めた。

「確かに身なりは一番いい。片言だが蘭黎語を話すということは教養も高いようだ」

 崚祐は拳と掌を合わせ、ケイナに礼を取った。玉依姫だと判断したのだ。サラは迷った。このままでいいのだろうか。だが彼の目的がわからない以上、判断ができない。

「玉依姫、手荒な真似をお許しいただきたい」

 急に下手に出た相手をケイナは観察するように見つめていた。先ほど兵に掴まれた左手首が痛むのか、反対の手でさすっている。

「我らは」

 少し視線を上げた崚祐が、ケイナのその様子を見て突然言葉を切った。礼を解いたかと思うと、つかつかと歩み寄ってケイナの左手首を掴んだ。

「この結い紐、たしかこれはフェオンでは既婚者の証ではなかったか?」

 ケイナの表情に緊張が走る。彼女の左手首には、晴れ渡った空のような青い紐で編まれた結紐が結ばれている。

 夫婦となった証に結い紐を交換する。その編み方はそれぞれ違うため、二つと同じものはない。それをこの男は知っているのだ。

「玉依姫ならば未婚のはずだ。その姫に、なぜ夫がいる?」

「コ、コレ……ハ、――」

「身代わりだな」

 取り繕おうとしたケイナを遮って、崚祐が冷徹な声で言い放つ。その威圧に耐えられなかったのか、ケイナはその場に膝と手をついて懇願した。

「ソノ子、ワタシノ子。殺サナイデ!」

「子のために偽ったか。蘭黎語が話せるならお前でもいい。玉依姫は誰だ」

 崚祐は腰の剣を抜いた。鈍色に輝く切っ先がレイファへと向けられる。

「言え」

「……言わない。女だからって甘く見ないで。フェオンの民は玉依姫を異邦人に売ったりしない。その子もまた、フェオンの女だわ」

 ケイナはフェオン語で言い放った。言葉は通じてはいないのだろうが、気迫は伝わったのだろう。薄い唇が弧を描く。

「子の命を懸けても惜しくない姫とは、どれほどの女なんだろうな」

 崚祐が剣を握り直す。もうサラの我慢も限界だった。

「やめろ! その子らを放せ」

「おとなしくしていろ。こちらにも目的がある以上、抵抗するならばお前にも容赦はしない」

「ならば私の話を聞くがいい。私は逃げも隠れもしないのだから」

「サラ、駄目!」

 ケイナが叫ぶ。だが民を犠牲にしてまで隠れているわけにはいかない。サラはケイナと視線を合わせて首を振った。

 そもそも彼は一度「玉依姫」に礼を取った。ならば「殺しはしない」という言葉を信じてもいいだろう。だが人質を取ってあぶり出そうとするほどには急いでいる。何が目的か見極めねば。

「『私は』……?」

 華崚祐はサラの言葉を正確に理解したようで、さっと顔色を変えた。

「黒州王よ、剣を下ろせ。貴殿の捜しものはもう見つかっている」

「まさか」

「私が当代の玉依、サラ。大長の長子にして、その役目を継ぐ者」

 サラは宣言する。男が一瞬目を瞠った。

 この男と戦う日が来るかもしれないと覚悟したこともあった。けれどこんな形での再会は予想だにしなかった。

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