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フェオンの巫子  作者: ミナト碧依
3/5

03

 翌日、渋るセイヤを大長のいるファルサへ送り返し、サラたちは予定通りアバサの砦へ入った。

玉依姫(たまよりひめ)様! よくぞお越しくださいました」

 朗らかに出迎えた長は三十半ばの屈強な戦士だ。背丈はサラとさほど変わらないが、体躯はサラの倍はあろうかというほどに筋肉隆々である。

 懐かしい顔が見られて嬉しいが、サラは咄嗟に笑顔を向けることができなかった。だが民に暗い顔をしてはならない。動揺を打ち消して笑みを作った。

「イギル。久しいな。出迎えご苦労」

「はっ。数年ぶりに姫様のお顔を拝見できて、安心いたしました」

 イギルは笑ったが、側にいたケイナがはっと息を呑んだのが聞こえた。イギルの額に左のこめかみまで走る大きな傷がある。痛々しい傷は左の瞼を通っており、左目だけ焦点が合っていないように感じる。

「もしかしてその目は」

 サラは短く尋ねた。イギルは五年前、蘭黎(らんれい)軍の襲撃を受けたアバサの生き残りだ。最後に別れたとき、確か顔に包帯を巻いていた。こんなに大きな傷だったとは。

 イギルは容姿のいかつさに似合わない、穏やかな笑みを浮かべた。

「片目だけでも、麗しいお姿がよぉく見えておりますとも。またお美しゅうなられた」

 イギルの軽口に、サラはようやく笑顔を作ることができた。前向きに生きる民が、玉依として頼もしく感じる。

「そうか。そなたは昔から誰よりも目が良かったな」

「ええ。一つないくらいがちょうどよいのです」

 イギルは狩猟の達人だ。誰よりも遠くを見渡せる目はもちろん、動物の痕跡を見つける観察眼にも優れていた。サラも昔、アバサ滞在中に彼に学んだことがある。

「あれが再建した門か」

「いいえ。あれは第二の門です」

「第二の門? 以前はなかったな」

「そうです。第一の門が昔からある渓谷の狭間の門で、再建しました。二重の守りとしています」

「そうか」

「詳しいことは明日ご説明します。滞在用の屋敷はあちらに」

 イギルが示したのは屋敷というより小さな城砦だった。杭を連ねたような垣が屋敷を囲んでいる。ここは兵舎も兼ねていて、この屋敷を突破しなければアバサの先、ほかの里へは進めないようになっている。

「イギル。このまま砦の視察をしても構わないか?」

 サラの申し出に、待ったをかけたのは主治医のサクロだ。

「ちょっとサラ。アンタちょっとは休まないと」

「私は平気だ。今日は馬に乗せてもらえなかったし、少しくらい歩かないと。それにこれが今回の目的なのだし」

 何度も大丈夫だと言ったのに、昨夜のサラの様子を心配したセイヤがケイナやサクロに言い含めたせいで、馬車に押し込められたのだ。サラの体調を気遣い隊列の進みはひどく遅くなり、おかげで昼前には着く予定が、もう夕刻に近い。

 久しぶりの騎馬での旅を楽しんでいたサラに申し訳なさがあったのか、サクロはしぶしぶながらも頷いた。

 というか頷いたということは、主治医としてはサラの体調に問題ないと見ていたのだろう。馬車に押し込んだのはセイヤの圧に負けたからだ、とサラは推察した。

「アタシも行くから、ちょっと待ってて頂戴。荷ほどきの指示だけしてくるから」

 数日滞在することになっているため、それなりの荷物がある。それにサクロの荷は大半が薬や医療器具だ。西国で学んだサクロの薬や道具は里の者たちのそれとは違うため、安易に触れないように厳命している。薬と毒、道具と凶器は紙一重だからだ。

「いや、サクロは屋敷の方を頼む。健康診断の準備もあるんだろう?」

 サクロには医師として、民の健康状態を診てもらうことになっていた。サクロは渋っていたが、最終的にはサラが押し切った。

「その目、不便はないか」

「ないと言えば嘘になります。最初は距離感がつかめず、しょっちゅう物を落としたりぶつかったりしたもんです。矢も獲物に当たらない」

 アバサ一、或いはフェオン一とも呼べる狩人のイギルが弓も扱えなかったとは。以前サクロが、生き物は目が二つあることで距離を測ることができるのだと話していたことを思い出す。

「苦労したのだな」

「ですがもう随分慣れました。人間、状況には慣れるものです」

「そうか」

「それに、この傷で男っぷりが上がったでしょう?」

「は?」

 急な話題の転換に、サラは目を丸くする。

「いやぁ、この怪我をしてから妙にモテましてねぇ。三年前に結婚したんですよ」

「そうなのか? 知らなかった」

 狩猟一筋の堅気な男で、五年前は結婚の気配がまるでなかった。三十になるかどうかという頃で未婚というのは、男性でもかなり珍しい。

「もうすぐ二人目が生まれます」

「それはめでたいな。奥方は今?」

「出産の準備でシィザに。ここではまだそこまでの準備はありませんから」

 今のアバサは里ではなく砦だ。住人のほとんどは戦士や職人とその家族。それに生活の世話をする一部の者や巫子で日々を賄っている。他者の世話を必要とする子や老人はおらず、里に家族を置いてアバサで働く者も多いと聞く。砦が完成すれば、少しずつ里のような機能も備えていくのだろう。

「心配だろう。そなたは責任感が強いからここを離れられなかったのだろうが、今からでもほかの者に任せようか」

「家族がいるからこそ、自分の手で護りたいんですよ。俺は一度アバサを捨てた男ですから。今度こそはってね」

「その決断こそがアバサの民を生かしたんだ。そんな言い方をしてくれるな」

「だとしたらもっと上手くやるべきでした。もっと生かせる奴らがいたはずなんだ」

「イギル……」

「すんません、姫様。これは俺の後悔ですから、もうそれ以上は言わんでください。それにこの後悔に、俺は生かされてる」

 イギルの右目が、仄暗い光を帯びて自身の右手を見た。その手には火傷の痕。見ているのは火傷か、それとも。

 サラはかつて里があった土地を見渡した。あの頃焼けた建物は、もうとうに片付けられている。だが今も思い出す。惨劇のあとに漂っていた、建物が焦げた匂い、人が焼かれたあとの空気を。まだ雪も残る中、喉を焼きそうなほどの熱風を。

 サクロたちに別行動をさせたのは、それを知らせたくなかったからだ。新しい砦の説明を受けるということは、当時の教訓を聞くということ。アバサがどうやって襲われ、どのように同胞が死んだのか、側近たちに聞かせたくなかった。


 アバサは渓谷の中に存在する盆地だ。サラ達が来たのと逆の方向に、渓谷の間に造られた門が見える。記憶にあるよりも随分頑丈そうな造りだ。

 フィルガ山は急傾斜の崖が多く、人が通れる道は限られている。かつてフェオンの始祖たちが切り開いた道だとも言われているが、真偽は定かではない。それぞれの里を繋ぐ道はいくつかあるが、下界から登ってくる際は必ずアバサを経由する。いわばフェオンの玄関口である。

 アバサに至るまでの道は渓谷に挟まれた一本道だ。かつてはそこに物見やぐらがついた両開きの門があるだけで、それを超えるとすぐにアバサの里があった。敵の進軍があればすぐさま見張りの知るところとなり、フェオンの戦士たちが迎撃する。軍隊や商隊を通す玄関口としては小さい門だが、地盤が固く門の拡張はできない。交易をするには不便だが、守りには功を奏していた。敵が門を突破しても数名ずつしか侵入できないため、数の利はあまりない。地の利はフェオンにあり、この数百年に幾度も襲撃を受けたが、フェオンはそれをことごとく退けていた。

 それが慢心を生んだのかもしれない。

 黒州王(こくしゅうおう)、当時は領地を持たずただ「第五公子」と呼ばれていた()崚祐(りょうゆう)。彼の三千の軍勢は、この門を超えてきた。利にならぬと思っていた数を頼みに押し進んできたのだ。猪突猛進とばかりに一気に押し寄せ、倒れた仲間さえも踏みつけてなだれ込んできたという。深夜の奇襲ということもあり、アバサは対応が遅れた。家々は焼かれ、暴虐と略奪の限りを尽くされ、あっという間に里は蹂躙された。アバサの里長は不在で、留守を任されていた民たちは里を放棄して逃げるのがやっとだった。たくさんの民が死んだ。里としてのアバサも、死んだ。

 大長は同じ地に砦を建設することを決めた。大軍の襲撃にも耐えられる城砦を。かつて同胞を守れなかった戒めを込めて、砦はアバサと名付けられた。冬の間に中断していた工事が再開され、サラはその視察と民の激励のためにアバサの砦へ来たのだった。

 一通りの案内を受けて、最後に砦の櫓に上った。生まれ変わったを見渡す。

 ぐるりと周囲を見て、サラは城砦に近接する崖を指した。

「あの斜面が気になるな」

 城砦は崖を背にしている形だ。サラ達もあの崖を回り込む道を通ってアバサに入った。一見敵の侵入を許さぬ守りのように思われるが、ぎりぎり馬が駆け下りられる傾斜に見える。

 サラの指摘に、イギルも頷いた。

「ええ。あそこにも斜面に砦を広げる予定です。ですが地盤が固いので工事の進みが遅く、その間に雪が降って中断せざるを得ませんでした」

「いや。あのアバサから四年でよくここまでの砦を築き上げてくれた。感謝する」

そのとき、気のせいだろうか。何かが動いた気がした。

サラは風に耳を澄ませた。だが春の風は落ち着きがなく、上手く流れが読めない。

「イギル様!」

 櫓に若い戦士が駆け込んでくる。イギルはいかつい顔を引き締めて怒鳴った。

「玉依姫様の御前だぞ、控えよ!」

 怒鳴られた若者は怯えるよりも焦りをあらわに叫んだ。

「ですが、蘭黎軍旗です!」

「なんだと⁉」

 サラとイギルは異口同音に声を上げた。

「こんな、春先に⁉」

 道はまだ開けたばかりだ。いくら何でも早すぎる。それに昨日のセイヤの報告にもなかった。この土地でフェオンの諜報機関の目をかいくぐったのか。

「姫様、なぜ奴らが」

「内偵はなにをしていた!」

 側にいた護衛たちが騒ぎ出す。

「うろたえるな!」

 サラは一括した。セイヤが統率する内偵たちは優秀だが、蘭黎皇帝の病臥に気を取られた可能性は否めない。

「今すべきはこの砦を守ることだ。攻撃の様子は」

「今のところありません。ですが武装した軍隊です」

 ただの使節団だとしても、武装しているのはおかしなことではない。

「もし攻撃が開始されたらすぐに知らせろ。不審な動きもだ。それまでは決してこちらから手を出すな。皆に徹底させろ。だが戦闘の準備も怠るな!」

「は!」

 報告に来た戦士が戻っていく。

「イギル、戦える者は何名いる」

「二百ほどかと」

 イギルの返答にサラは唇を引き結んだ。サラが連れてきた者たちを含めても二百五十を超えない。今回の蘭黎軍がどれほどの規模かわからないが、五年前の叙眞(じょしん)族討伐の際は三千の軍勢だった。そしてその軍勢が、帰国前にアバサを焼いたのだ。

「武器を集めろ! 守りを固めるんだ。子連れの母親たちには馬の準備をさせよ。シィザに戻す」

「はっ」

「イギル、ファルサへ梟を飛ばせ。大長にお知らせするんだ。もし攻撃されるならば、私たちはここで援軍が来るまで耐えなければならない。門の櫓に弓隊を配置しろ。残りの者は近接戦の用意をして待機。火薬はあるか! 投擲の準備を急げ!」

 命令を飛ばして一度櫓を降りる。サラ自身武装を整えなければならない。イギルに適当な武具を借りていると、サクロが飛び込んできた。

「サラ、何やってんの。アンタも避難しなきゃ!」

 砦内は戦闘準備をする者と避難準備をする者が行きかって騒然としていた。サクロはその混乱を知ってサラを迎えに来たのだろう。

「私は残る」

「サラ⁉」

「砦は守らねばならない。戦力が十分ならばそうした」

 問答をする時間さえ惜しい。それでも説得せねばと意気込んだが、意外にもサクロは諦めの表情を浮かべた。

「アタシが何を言ってもムダって顔ね」

 この親友は昔からこういうところがある。サラの一番大事なものを、誰よりも理解して優先させてくれる。

「民を見捨てては玉依を名乗れない。サクロは逃げてくれ」

「おバカ。アタシも残るわよ。医者なんて戦士の次に戦場で忙しいんだから。死なせないわよ、サラ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、瞳は鋭くサラを見る。心強さに胸が熱くなる。一人で大丈夫だと言えないことが少しだけ情けない。

「サクロも私の言うことは聞きそうにないな」

「当然でしょ。医者が患者の言いなりになってたらまともな治療なんてできないもの」

「ありがとう」

「アタシは救護所の準備をしてくるわ。アンタも行くならちゃっと行ってきなさい」

 そう言って踵を返すサクロと同時に、サラも走りだす。

「こちらから攻撃はするな。先触れがあるなら丁重に迎えろ。だが仕掛けられたときは容赦せずとも良い。イギル、私が戻るまでの指揮は任せる。すぐ戻る!」

「御意!」


 サラが向かったのは砦の背面、フェオン側の入り口だった。

 先ほどイギルたちに迎えられた広場に、馬が集められている。その中にケイナがいた。娘のレイファを抱えたままそわそわと落ち着きがない様子で、サラに気づいて声を上げた。

「サラ! ああよかった。遅いから心配したのよ。蘭黎軍ですって⁉」

「ケイナ。皆を連れてシィザの里へ引き返せ。ケイナが先導してくれ」

 手短に済ませて出発を急かすサラに、ケイナが待ったをかける。

「待ってサラ。残るつもりなの?」

 信じられないという顔をしたケイナを安心させるように、サラは微笑みかける。

「使者が来たとしたら、私が出迎えるのが筋だろう」

「あの連中が平和に話をしに来たと思うの⁉」

「だとしたら猶更だ。戦士が少なすぎる。アバサを二度も失う訳にいかない」

「玉依姫を残して行けない! サクロは何してるの」

「玉依姫だから残るんだ。サクロも同意してくれた」

 その言葉にケイナははっと息を飲んだ。

「駄目よサラ。あなたの体が」

 ケイナは途中で言葉を噤んだ。サクロと同じだ。サラの覚悟を感じたのだろう。

「わたしも残るわ! 玉依姫が出迎えるというなら、侍女が必要でしょう」

「前触れのない訪問だ。蘭黎側もそのくらいは見逃すだろう。その程度の身支度は自分でできる。女戦士もいるしな。今は最悪を考えねばならない。頼む。脱出してくれ」

 ケイナはそれ以上言わなかった。

 サラは首から下げていた玉の飾りを外した。それをケイナの腕の中で眠る幼子にかけてやる。

「ひーしゃま……?」

 レイファが目を覚まし、眠い目をこすりながらサラを見る。

「くれうの?」

 レイファが首に下げられた玉に気づく。寝起きで舌が回っていない様子が可愛らしくて、サラは微笑んだ。

「私の大事なお守りなんだ。大事にするんだよ、レイファ。きっとお前を、お前たちを守ってくれる」

そう言って、サラは玉をレイファの衣の内側にしまった。

「サラ、それは」

「行くんだケイナ。私の、フェオンの子らを守るためだ」

「待って、駄目よ」

 そのとき、門の方角から破裂音がした。女たちがざわめく。いくらも間を置かず風に鬨の声が混じった。

「戦闘が始まったか……!」

先ほどの破裂音はおそらく敵側の合図だ。攻めてくる。

サラは迷いの捨てきれないケイナを強引に馬上に押し上げた。

「サラ!」

「急げ。ケイナ、皆を頼む。必ず生き延びろ!」

 ケイナの返事を待たず、馬の尻を叩く。つられて走りだす馬を引き留めようとする者も多かった。サラは指笛を吹いた。金の瞳が輝きを増す。馬たちは留まろうとした騎手の指示に従わず走りだした。女たちがサラを呼ぶ声は、騒音にかき消されてやがて聞こえなくなる。

 砦に戻ろうと踵を返す。そのとき風が動いた。突風に煽られて、癖のない銀髪が翻る。同時に軽いめまいを起こしたが踏みとどまった。

「くっ……」

 両腕をかき抱き、胸の内に起こった熱を鎮める。やがて風はぴたりとやんだ。サラは長く息を吐く。いま倒れるわけにはいかない。

 砦に向けて踵を返す。駆け出したそのとき、風の音がした。サラははっとする。

 風が、違う。

 サラは振り向きざまに剣を抜いた。キン、と高い音がして、真っ二つに斬られた矢が足元に散る。白い矢羽根。蘭黎軍の矢だ。

 ――門はまだ突破されていないはず。どこから……⁉

 矢は真上から飛んで来た。つまりは。

 ――崖の上!

 気付くと同時にサラは地面を蹴った。剣を振りかぶり、降り注ぐ矢を風圧で叩き落す。瞬時に崖から距離を取ると、二十数騎の馬が駆け下りてきた。うち数騎は急勾配に耐えられず落馬するが、多くがむしろその傾斜に助けられ、ものすごい速度で向かってくる。黒い鎧。蘭黎軍だ。

 急勾配の崖を一気に駆け下りた小隊の大半が、サラを素通りしていく。

 ――しまった!

 脱出した女たちを追っていったのだ。サラも足を向けたが、四、五騎ほどに取り囲まれる。サラは唇を噛んだ。

 アバサは天然の崖を利用した城砦だ。そして背面のこの崖は急勾配だが垂直なわけではない。この程度ならば馬が駆け下りられることなどフェオンの民が一番知っている。だからこそ崖を背にすることが安全ではないこともわかっていた。サラもイギルも気づいていたのに。

 剣を構え敵の出方を伺いながら、サラは同胞たちを思った。逃げ切れるだろうか。

「まるで舞のようだな」

 異国の言葉が馬上から降ってくる。身なりからして位は高そうだ。従える数は多くはないが、精鋭と見える。

「お前たちが風を意味する言葉で呼ばれるのも頷ける。あの数の矢を一人で防ぎきるとは、大した戦士だ」

 兜のせいで顔はよく見えない。だが声からして四十歳ほどだろう。鎧の上からでも鍛え上げられた体躯がよくわかる。隙がない。

「反撃しようなどと思うな。もう逃げられないのはわかっているだろう?」

 兜の蘭黎兵は、フェオン語で告げた。

サラは思考を巡らせた。

 別動隊がいたということは、門前に現れた一隊は囮だったということか。アバサの地形に明るくなければ無理な作戦だ。内通者か、あるいは侵入者がいたのだろうか。囮と戦っている戦士たちは無事だろうか。

「何が目的でフェオンを襲う」

 サラは蘭黎語で問うた。サラの蘭黎語を聞いた男は不快感を滲ませ、蘭黎語で答える。

「言葉が間違っている。襲ったのはそなたらが先だ」

「なんだと?」

「我らは交渉の使者として参っただけ。先触れが訪問を告げに開門を願った。だがそれを聞かずに矢を射かけたのはフェオンの方だ」

「戯言を」

 先触れの使者を攻撃するなどあり得ない。戦の責をフェオンに着せるための虚言だろうか。

「ならば質問を変える。なんのためにこの地へ来た」

「玉依姫はどこだ」

 サラは眉をひそめた。

「フェオンの玉依に何の用だ」

「それはお前ごときが知ったことではない」

 大長ではなく玉依姫。異民族にとって意味がある地位とは思えない。いや、フェオンにとって意味があるからか。ならば考えられるのは人質。――あるいは、暗殺。

 それが蘭黎にとってどんな利があるのかはわからないが、正体を明かすわけにはいかなくなった。サラの銀髪はフェオン唯一だ。だがそれを目にして「どこだ」とは、あまり情報を持っていない筈。

「玉依はここにはおらぬ」

「ならば死ね」

 男は嘲笑を浮かべた。殺気を含んだ視線に、ぞわりと背筋が泡立つ。その感覚に覚えがあった。

「貴様、まさか」

 身を焼きそうな熱風、地獄の業火にも例えた熱さがよみがえる。

胸が引きつった痛みを訴えた。

 その時、門から轟音が響いた。

「大砲か⁉」

 声を上げたのは馬上の男だった。だがフェオンにあれほどの火力の武器はない。何が起きているのかサラにもわからない。

 サラは砦に戻ろうと足を向けた。しかし取り囲んだ蘭黎兵に阻まれる。

「どけ!」

 サラは袖に忍ばせた短刀を抜き、投げた。それは正確に敵兵の首に突き刺さる。鮮血が吹き出した。小隊がひるんだ隙にその兵を馬上から引きずり落とし、馬を奪う。飛び乗ると同時に馬の腹を蹴る。

 しかし突然馬がいななき、暴れ出してサラは振り落とされる。受け身を取って体を起こすと、馬の後ろ足に矢が刺さっている。射たのは小隊を率いる男だ。奪われたとはいえ自軍の馬をこうも躊躇なく射るとは。

 男はサラが剣を構えるよりも早く、次の矢をつがえる。駄目だ、体勢が間に合わない。

「待て芳泉! その女を殺すな!」

 轟いた声が場の緊張を崩す。引き絞った矢が放たれる寸前だった。

 どくん、と胸が高鳴った。その声に覚えがある。

 月毛の馬が駆け込んでくる。馬上の主は兜をしていなかった。首の後ろで結んだ黒髪がたなびく。切れ長の目は翡翠と同じ色の瞳。

 ――どうして。

 黒馬の騎手の登場に、弓手は構えを解いて恭しく頭を垂れた。

「黒州王殿下」

「『黒州王』⁉」

 サラは耳を疑った。男が誰かなど知らない。だがその号は聞き覚えがある。

「第五公子・華崚祐……!」

 我知らず独りごちる。

 蘭黎皇帝の第五公子、華崚祐。五年前フェオンを襲った軍の総大将の名。

そして「それ」がかつて愛した男の名であることを、サラは知ったのだった。


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