02
雪景色の中を歩く後ろ姿。
男性にしては長い濡羽色の髪。
後頭部で一つに結ったそれが、男の歩みに合わせて揺れている。
サラは呼吸さえも潜めてその背を見ていた。
不意に足を止めて、男が振り返る。
翡翠の瞳が、柔らかくサラを見つめた。
「ともに行こう、サラ」
待ち望んだ言葉だった。
サラは手を伸ばした。
けれど見えない壁に阻まれて、その先に進むことができなかった。
「サラ様」
室外から控えめに呼ぶ従者の声に、サラは目を覚ました。そっとこめかみに触れると涙で濡れている。
気付けば辺りは暗く、室内に明かりはない。夕餉のあと、いつの間にかうたた寝をしてしまったようだ。身を起こすと頭が重く感じた。夢見のせいか、それとも泣いたせいか。それに少し汗ばんでいる。
夢の残滓を打ち消すかのように胸のあたりに触れ、ゆっくりと長く息を吐く。呼吸を落ち着けると、頬に張り付いた銀髪を払った。
「サラ様?」
扉の外から二度目の声がかかる。咄嗟に顔を乱暴にぬぐった。
「セイヤか。入れ」
短く声をかけると間を置かず扉が開いた。明かりを持った黒髪の青年が立っている。少し前まで少年と呼ぶべき風貌だったのに、すっかり精悍になって声も低くなった。四つ年下のこの従者は、もう十九になる。
旅程は順調に進み、サラたちがシィザに到着したのはまだ日も高い時間だった。セイヤは後からサラたちを追う形で向かっていたはずだが、いつ到着したのだろう。
セイヤは寝起きらしいサラの様子を見て眉をひそめた。
「お加減が悪いのですか」
従者は入室すると心配そうにサラの顔を覗き込んだ。青水晶のような瞳が、サラの動揺も先ほどの夢もすべて見透かしてしまうのではと心配になる。そんなことありはしないけれど。
「腹が満たされて眠くなってしまっただけだよ」
軽く返すが、セイヤの顔つきは厳しい。サラは苦笑した。この従者の過保護っぷりはどうにかならないものか。サクロも主治医として心配性なところがあるが、セイヤはその比ではない。
「俺にまで嘘をつかないでください。ファルサを出て三日です。旅の疲れもあるでしょうし、明日の視察は延期しましょう」
フェオンは山中に三十の里が点在している。
今サラたちがいるシィザはその中で最も南に位置し、最も麓に近い里だ。サラたちが普段住まうファルサは最も山頂に近い。ファルサからシィザまで馬で三日の距離だが、今回は女子供も多い上にサラの体調を気遣い、一日余裕を持った日程となっていた。
「大丈夫だ。確かに多少疲れはあるが、体調も問題ない。じゃなきゃサクロに担がれてファルサまで強制送還されている。せっかくここまで来たんだ。アバサに行くのは久しぶりなのだし、延期だなんて言わないでくれ」
サラが言い募ると、セイヤは不服そうに「本当ですね?」と念を押した。
「大袈裟にしないでくれ。どこも悪くないんだから」
幼い頃からサラを主と慕う忠義者だったが、ここ数年で過保護さが増した。
「大袈裟なくらいで丁度いいのです。御身は唯一無二の玉依姫なのですから」
「私の代わりなどいくらでもいるよ。私自身が先代の代わりになり得たようにね」
「そんなこと」
「生き物である以上、いつかは死ぬのだから」
「サラ様!」
咄嗟に大きな声を出したセイヤは、サラよりも自身が驚いているようだった。
「申し訳、ありません。大きな声を出して」
俯いたセイヤは、少年の面影が強く見える。
追い立てられるように夜着に着替えさせられる。着替えを終えたサラが椅子に座ると、セイヤがサラの足元に桶を置き、水を注いだ。そのまま跪き、青年はサラの足を取った。手ですくった水を白い足に少しずつかけながら、旅の汚れを落としていく。
「気にかかることがあるようだな。何があった」
親しい者にしかわからない程度だが、険しい表情をする従者にサラは尋ねた。
就寝前にセイヤがサラの足を洗うのは日課で、その際、セイヤの報告を聞くのもここ数年続けてきたことだった。セイヤは若いながらにフェオンの諜報機関を司る。
セイヤは顔を上げず手も止めないままに堪えた。
「蘭黎の皇太子が病死しました」
「……快癒は叶わなかったか」
予想よりも悪い知らせに、サラは低く呟くように言った。
蘭黎帝国はフェオンの南に隣接する大陸一の大国だ。現在フェオンと戦をしているわけではないが、友好関係ともいえず、どちらかと言えば敵に近い。
その蘭黎国皇后の一人息子たる皇太子が病臥にあるというのは、少し前に報告を受けていた。とはいえ四十路前の男性だ。快復の可能性も十分にあると思っていたのに。
「やはり乱が起きそうか?」
「戦についてはまだなんとも。ですがすでに水面下での派閥争いは起きているようです」
それが蘭黎国内のみのことならばいいが、隣接するフェオンに影響が出ないとも限らない。
「皇帝が次の皇太子を指名する前に崩御すれば、乱が起こるのは必至でしょう」
「どういう意味だ」
「蘭黎皇帝にも病臥の疑いありと」
「まさか、伝染病か?」
「そのような報告はまだありません。本当に病を得たかどうかも、確実な情報ではありませんので。仮に伝染病だとしたら、宮中より市中に被害が出ているはずです。そういった様子はありません」
蘭黎では身分によって居住区が分かれており、貧民層ほど街の衛生環境は悪くなる。伝染病が発生するとしたら大抵が貧民街からだ。
「確証が得られるまでは調査を続けさせろ」
「はい。それと洪州領で移民の出入りを制限する布告が出されました」
洪州は蘭黎西南の地方だ。
「今の洪州領は移民が入ることも出ることも容易ではないようです」
「皇太子薨御と同時期にこんな布告を出すとは。第二公子……洪州王はなにかを企んでいるのか」
皇族が諸侯を奉じられた際、王号が与えられる。皇族でない貴族や官吏の場合は「候」と呼び区別される。
「もともと洪州王は蘭黎人至上主義の選民思想を持つ人物でしたが、現皇帝がそれを許していませんでした。皇帝がそれを見逃しているということが気になります」
「洪州王を抑えられぬほどに力を失っている? あるいは気づいてない可能性もあるということか」
常なら見逃さぬことでも、病を得たとなれば話は別だ。
「それに洪州王は第二公子。母は四夫人の一人ですし、皇位争いに食い込んでいくでしょう」
蘭黎ではフェオンとは違い、一夫多妻制である。高位の男性であればあるほど愛妾を持つことは一般的で、皇帝に至っては血を残すための義務に近い。妻の中にも序列が存在し、その頂点が皇后である。四夫人とは皇后に次いで位の高い四人の妃たちだ。当然その子の皇位継承の順位も高くなる。
「黒州王はどう出るだろう」
蘭黎帝国でフェオンの地と隣接するのは黒州領だ。それを治める黒州王は第五公子。そしてフェオンと因縁深い人物でもある。彼の行動が最もフェオンに影響を及ぼすだろう。
「わかりません。母親の身分こそ低いですが、黒州王着任後の黒州軍は蘭黎一の強さを誇るとまでいわれています。武力をもって皇位を得んとするやも」
苦い記憶が胸の内に影を落とす。サラはため息をつく。
「黒州王が皇位争いに乗り出すとしたら、それは武力を行使することになるだろうな。もしそうなれば乱が起きるのは必至か……。叙眞族も気になるというときに」
サラの言葉にセイヤが頷いた。
「やはり叙眞族の残党が一族を再興したというのは間違いありません。彼奴らの目的は蘭黎に雪辱を果たすことでしょう」
叙眞族はフィルガ山の西の平原を拠点とする民だった。平原の更に西は西国の領域だ。叙眞族は西国から流れてきた山賊や盗賊の子孫といわれている。彼らは狩猟だけでなく、平原の街道を行く商人や旅人たちから略奪することで発展してきた。
そんな叙眞族は当然のごとく非常に好戦的で、蘭黎の豊かな土地を狙っている。一度は蘭黎に討伐された。それを為したのが黒州王で、彼はその件で「軍神」と呼ばれるに至り、黒州を奉じられた。だが叙眞族はまだ諦めていないようだ。
「蘭黎侵攻の足掛かりに、またフェオンを狙ってくるだろうか」
「今のところその動きはありませんが、可能性は高いかと」
フェオンは一年の半分を雪に閉ざされる険しい土地だが、山の恵みは多く、何より鉄が産出される。冬仕事として取り組まれる間に技術が発展し、フェオンの武具は大陸中を見ても一級品だ。フェオンの武力を底上げしている武具は、蘭黎への雪辱を狙う叙眞族からすれば喉から手が出るほど欲しい品の筈。
そもそもフェオンとて、古くから叙眞族の標的にされてきた。その度に退けてきたが、サラが知るだけでも片手で足りぬほどの戦があった。それ以外の謀略や小競り合いを含めると数えきれない。
「挟まれるのが一番厄介だな」
「内偵を増やします。その手配が済み次第、俺もアバサへ向かいますから」
「お前はこのままファルサへ戻れ。直接大長の指示を仰ぐほうがいい」
「梟は飛ばしました」
「お前が直接行って大長の補佐を。春になって下界への道も開けた。蘭黎にしろ叙眞にしろ、動きやすくなる。アバサの砦は未完成だ。それでなくとも警戒のために砦の人員を増やす必要があるだろう。動くならば早急に手を打たねば」
「ならばやはりサラ様の視察は中止しましょう。サラ様が大長の補佐をなさってください」
「私は予定通りアバサへ行く。砦の者たちにこのことを伝えねば」
「ですがこれ以上お側を離れるのは心配です」
「私なら大丈夫だ。サクロたちもいる」
「ですが」
アバサは一度蘭黎軍によって壊滅させられた。家畜や備蓄食料をはじめとする家財もすべて奪われ、家屋は焼き払われ、大勢の死傷者を出した。
厳しい自然はそれ自体が天然の要塞となる。数で劣るフェオンが長年叙眞を退け、蘭黎にも見逃されてきたのは環境の要因が大きい。それを頼みにしすぎた結果、五年前アバサの里と多くの民を失った。それ以来サラ自身、消えない傷を背負い続けている。大長はそれをサラの弱さと取るだろう。
「なあセイヤ。『彼』は黒州軍にいると思うか」
セイヤがわずかに表情を曇らせる。
「それは……わかりません」
「そうだな。だが彼があの当時、華崚祐の軍にいたことは間違いない。その可能性がある以上、私がファルサに戻ったところで大長はこの件で私を補佐にはしないだろう」
セイヤはしぶしぶといった様子で別行動を受け入れた。サラはセイヤに聞こえないようにそっとため息をついた。
かいがいしくサラの足を洗うその手はごつごつと固い、武人の手だ。少年の頃の面影はあるが、本来ならばこうしてサラの従者をしているような年齢でも立場でもない。サラの方から手放してやらねばとも思うのに、セイヤに拒絶されて打破できていない。押し負けるのは、サラにも側にいて欲しい気持ちがあるからだろうか。己の弱さが嫌になる。
サラは胸のあたりに触れて夢の内容を手繰る。思わず自嘲の笑みが漏れた。
「サラ様?」
嘲笑に気づいたセイヤが顔を上げる。
サラはセイヤに微笑みかけた。
「何でもない」
懐かしい声は、けれど決して女の名を呼ばなかった。それどころか振り返りもしなかった。だからあの夢は記憶ではなく、愚かな未練が見せた願望でしかない。