とある公爵の奥方になって、ざまぁする件
前世の話はほぼ出てきません。
─私は、夢を見ているのかもしれない。それとも死んだのだろうか?
百合は、見知らぬ場所で目を覚まし、その余りの豪華さに圧倒されていた。天蓋付のベッドに出口が見えないほど広い部屋。どう考えても自身の部屋ではない。ふらふらと抜け出し、何かに引き寄せられるようにアンティークの机まで赴く。机上には一冊の本が置いてあった。
─誰も来ないし、申し訳ないけど読ませてもらうわ。
開いてみると、高級そうな見た目に反して中はぼろぼろだった。所々、皺が寄っているし染みもついている。ビリビリと引き裂かれた頁もあり、一瞬躊躇ったが今の状況を知るためにも必要なことだと判断して、読み進めることにした。
『帝国暦250年天秤の11日─』
繊細かつ美しい字で、ぎっしりと書き連ねてある。どうやらこれは、一人の女性の日記のようだった。
『今日から私もエーデル家の一員。
不安もあるが、婚姻の儀は済んでしまった。
後戻りができる時期はとうに過ぎている。
旦那様とは婚約してから数えるほどしか口をきいていない。
なぜ、旦那様─クルーガー様が冴えない私を選んだのか…。
物語のような展開を全く期待していなかったと言えば嘘になる。彼はとても女性に人気があったから。
ほとんどの未婚女性は彼を狙っていたと言っていい。ただ自ら近づける者はほとんどいなかった。その高すぎる地位故に。そして何にも心を動かさない、笑顔一つ浮かべない男だと知られていたために。
しかし、それを補って余りあるほどの美貌を彼は持っていた。実際、初めて会ったときは目が離せなかった。こんなにも美しい人がいるのかと…。
プラチナブロンドに深い翠の瞳。彼はその存在を以てして場を支配する。生まれながらの貴族だった。
もちろん、そんなに都合のいい展開などあるわけがなくて…。この婚姻は確固たる契約の下成り立っている。彼は、私を愛しているわけではないし、ましてや私の家目当てでもない。
ただ、従順で自分の邪魔をせず、男児を産んでくれればいいと彼は言った。
煩わしいのはごめんだとも。
私を選んだのは、彼にとって都合が良かったから。社交界でも全く目立たず、馬鹿にされても言い返すことすらできない私を御することなど簡単だと思ったのだろう。
父も母も喜んだ。当然だ。あか抜けないと言われ続けてきた娘が、まさかのあのエーデル家に輿入れ。
断れるはずもなく、私自身断る気もなかった。欲に目が眩んでしまったから。』
そこまで読んで、百合は自身の姿に気づく。元の姿とはかけ離れた、ブルネットの髪に緑の瞳。二度見して、首を振り、頬を叩いて
もしや…と思った。夢か何か知らないが、この日記を書いた作者に、今、自分はなっているのではと。
クルーガーが、どういう男か実際会ってみなければ分からないが、日記で、知る限り随分失礼な男だ。百合は傲慢な男が大嫌いだった。お前は何様だと、すぐ罵倒したくなるのだ。
日記の頁をめくる。日付は次の日だった。
『初夜が終わった。
あまりにも呆気なく、機械的に。
クルーガー様は─』
ここは飛ばそう。知らない人の性行為を覗き見る趣味はない。
百合がしばし、今後のことについて思考していると扉が勢いよく開いた。
「さっさと起きてください奥様。こちらも忙しいので…」
随分と態度の大きな使用人らしき女が入ってきた。彼女は私が起きていることに、まず目を丸くし、起きてるならとっととそう言ってくださいよと言った。
いや、知るか。
「さあ、こちらの椅子に座ってください」
言われた通りに腰かける。女は、持ってきた櫛を使って髪をとかすようだ。とりあえず、身を任せるかと思ってじっとしていたが、すぐに声が出てしまった。
「いた…っ」
「あら、すみませんね。急いでいたもので」
絶対わざとだろ…。
乱暴に髪を引っ張られ、ぷちっという音も聞こえた。絶対、髪切れてるとこあるし、全然とかせていない。これなら自分でやった方がましだ。
「貸して」
女から櫛を奪い取る。
「何するんですか奥様?私から仕事を奪う気ですか?」
どの口が言うのか…。
呆れてため息が出る。ここの女主人はどれだけ馬鹿にされているのか。
百合は憤りを感じた。元々、百合自身、内弁慶な性格で、人から悪意をぶつけられたときその場では我慢し、後でウガーといらいらが募ってくる質だったので尚更理不尽は耐え難い。夢かもしれない場所で我慢する意味もない。
(後でイライラしてくるのも、考えものなのよ)
百合は、言った。
「使えない女…。早く出ていって?」
女はしばし唖然とし、口喧しく騒いでから部屋を出て行った。
(やっと静かになった)
嵐が去ったようだと一息つく。
ぐぅー
しかし、お腹は正直だ。ほっとしたのか、けたたましい音を響かせる。
(朝食は誰に運ばせればいいのだろう…?)
女を追い出したことを少し後悔しながら、百合はまた日記を手に取った。
朝食についての記述がないか、パラパラと捲っていく。真ん中ほどで漸く見つけた。
『─朝食の時間はいつも憂鬱だ。今日もそう
…。なぜなら広間で一人、どう味わっても一流シェフがつくったものとは思えない料理を口にしなくてはならないからだ』
え、“まずい”ってこと?
疑問には思ったものの、広間を探せばいいということは分かった。
慣れない服に手間取りながらもなんとか着替え、外に出る。
いくつあるのか分からない部屋に、どこまでも続く廊下。百合は早々に諦めて、近くを歩いている使用人に聞いた。
「朝食場所はどこかしら?」
「…」
無視…ですか?そう、ですか。今の私は空腹でかなり苛立っているっていうのに。
「聞いている?そこの女!!!
…さっさと案内、してくれるかしら?」
情緒不安定みたいに、なった。
けれど、まあこの身体はお貴族様みたいだし、少しは丁寧な言葉づかいを意識しなきゃでしょ?
百合は、自分自身をそう、納得させた。
もちろん足は動いている。先程の使用人の女は、一度は無視をしたくせに強く言われると弱いのか、蒼褪めた顔で先を歩いている。
最初からそうすれば、いいのに…。
百合は思ったが、ここの使用人たちのあまりに失礼な態度がなぜか許されているほどに、女主人の立場が弱く、クルーガーとかいう夫からも軽視されているということがよく分かった。
─いつまで、この身体で生きるのか分からないけれど…このままには、しておけないわ。
朝食会場に着き、腰を下ろすと逃げるように使用人は去っていった。
…ちゃんと料理は運ばれてくるんでしょうね?
もしこなかったらどうしてやろうか…
などと考えていると広間の扉が開いた。
給仕する男だろうか?恭しく入室し、百合の前に食事を置いていく。トマトとレタスのサラダにスープ。三日月状のオムレツも美味しそうだ。元いた場所と食材は変わらないと分かりほっと一息。
百合は早速口をつけた。スープを一口。
「……」
給仕の男はにこにこと側に控えている。表面上の態度がいい分、余計言いにくい…なんてことはない。
「まずいわ」
静かな空間に、その声はよく響いた。
「え?」
男が不思議そうに繰り返す。
「だからまずいわ、と言ったの」
「そんなはず…。何かの間違いではないでしょうか奥様?最高の料理人が調理しておりますので。もしやご体調が優れないとか?」
「…ふふ。随分と舌の悪い料理人もいたことね。ここに呼んで」
「…奥様。やはり身体の具合が…」
「しつこいわね…。その笑顔、とっても胡散臭いわよ。私の体調のせいにしたいみたいだけれど、ここに料理人を呼ぶことに何か不都合でもあって?」
ずっとにこやかな表情だった男から初めて笑顔が消える。彼は一礼して去っていった。
しばらくして、恰幅のいい白い服の男が入ってきた。
「奥様、何か問題でもごさいましたでしょうか?」
「ええ。問題大ありよ。このスープ控え目に言って、酷い出来だわ」
「そんなはず」
「よろしければ召し上がって。私が口をつけたものでもよければ」
「…失礼します」
男がスープに口をつけ、瞬時に顔を歪めた。
「これはひどい」
「そうでしょう?」
「私がつくったものに何か細工がされています。泥のような…こんなもの料理ではない!料理人として、どのような方にでも皆等しく自信を持って、料理をお出ししている身からすれば、これはあまりに酷い仕打ちです」
「…この料理に手を加えられた者は?」
百合は静かな声で言った。
「奥様の料理ですので、私とそこにいる彼─イネスだけかと」
「と、言っているけど、イネス…
何か反論はあって?」
「料理人が嘘をついているのです…!奥様は信じてくださるでしょう?私は誠心誠意奥様にお仕えしております。泥を入れたなどと、そんな、あまりにも惨い。…そんなことできるはずもありません」
すらすらと動く口だな。百合は思った。
料理人は嘘をついていない。プライドを持って仕事をしていると伝わってきたからだ。
かと言って証拠があるかと言われれば無いと
言う他ない。
「イネス…あなたはよくやってくれているわ」
「!でしたら、奥様…」
「話は最後まで聞くものよ?でも、この状況で信用するというのも無理な話よね?
あなたの潔白が証明されるまで、私に近づかないで。…ああもちろん、私もきちんと調査するから安心して」
「ですが、奥様…」
「下がってよくってよ」
何やら言っていたが、話を聞かず追い出した。調査するとは言ったが、味方がいるのかも定かではない。こんな状況下で百合にできることなど、日記を読むことだけだ。
料理人が新たにつくり直した料理に舌鼓を打ちながら、百合は考える。
料理人ですら、ここの女主人に含みがあるようだった。誰にでも皆等しく…などと。
あの場では言わなかったが、この屋敷の使用人皆が女主人を侮っているのはまず間違いない。
─快適に過ごすためには掃除が必要よね
◇◇
『帝国暦250年天秤の25日─』
百合は再び日記を手に取った。
『女主人としてやることは多い。家の管理がまずそうだ。使用人たちを監督し、統率する力が必要になる。
…私にはできない。失敗する度に使用人の目が冷たくなっていくのが分かる。どうすればいいのか分からない。
全て他の者に任してしまえば…。そう考えると急に楽になった。そして執事のリーゼントに裁量権を譲ったのだ。彼は上手くやってくれている。奥様は目立たないように部屋に籠っていればいい、と言われてもその通りだし、何も言えない…。』
逃げてしまったわけね。百合は納得する。
間違いではない。しかし時には、強いところを見せなければ下の者は付け上がる。
執事が舐めているのならば、他の使用人も当然、態度を真似るだろう。
どこかに味方はいなかったのかと、頁をパラパラと捲る。
『メイドのライラはいつも優しい。彼女だけが私を馬鹿にせず、優しく話を聞いてくれる。
クルーガー様との、例の約束の日が近づく度緊張する私の手をとり、慰めてくれるのだ。』
約束の日?疑問に思った百合は、頁を戻し、そして見つけてしまった。
『毎月15日は、夫婦として夜を共にするという契約だ。双方が望めば、この限りではないなんて…無意味な但し書き…。』
そんなこと知らないんだけど…。
百合は慌てて、今日の日付を確認する。
幸か不幸か15日だった。
顔を見たいと思っていたクルーガーに会えることが確実とはいえ、百合にはそういったことの経験がない。
(え、どうしよう…。逃げる?)
心が千々に乱れる。身体の持ち主にいくら経験があるとはいえ、どうすれば。
考えても仕方のない問いを夜になるまで持ち続けたのだった。
◇◇
「ふぅ」
クルーガーは、知らず溜め息をついてしまう己に気づいていた。
今夜は妻と同衾する日。契約とはいえ、面倒だ。いつもの如く、下を向き、震え、問いにも満足に答えを返さないだろう彼女を思うと憂鬱になる。
いや、そんなことは関係ない。私は私の務めを果たすだけだ。煩わしくない女を望んだのは、紛れもない自分なのだから。
思い直し、軽く扉をノックした。
「どうぞ」
珍しくはっきりとした答えが返ってきたことに驚きながらも足を踏み入れる。
妻は、自分の目をしっかりと見つめていた。
「何か、お飲みになる?」
「いや…」
知らず、気圧されていた。
「何かあったか?」
「いえ別になにも」
妻が飲み物を差し出してきた。
少量のホットワインがゆらりと波打つ。
「私も頂くわ」
これも常ならありえないことだ。
軽く、乾杯のため容器を近づけて、ゆっくりと流し込む。
頭に浮かんだ疑問は消えないままに。
◇◇
百合は開き直っていた。
なんとかなるでしょうと。
お酒を飲めば、いい感じに事が進むのではという安易な考えで用意したが、結果的に正解だった。
入ってきた人間離れした美貌を持つ男に、心は激しく動揺していたが顔には出さない。
意地でも目を逸らすまいと、じっと見つめた。
別人だと見破られたかとも思ったが、そうではないようだった。
百合はこれから無謀な賭けに出ようとしている。無茶で大胆な。
しかし、夜までじっと考えている内に思ったのだ。昼食、夕食と、やって来る使用人皆が生意気で、叱責することに疲れてしまった。
─掃除するにしても、代わりの人材が必要になる
今いる使用人はできるだけそのままに、彼らの態度を変えさせようと考えた。それには手っ取り早くクルーガーに好かれればよいのでは…とそう思った。
だから、顔から火が吹き出そうになりながらも誘惑しようとしている。
柄でもない。元いた世界でも“はしたない”と思えるネグリジェを着て。少しの期待も持ちながら。
ベッドへと誘う。
「もうお休みになられては?」
「…そうだな」
クルーガーは変わらず無表情だったが、紳士的に手を差し出してくれた。慌てて手を上に乗せる。
仰向けになり、黙って見つめた。
ここからは完全なノープランだった。
脈打つ鼓動を感じながら、胸の上で手をぎゅっと握りしめる。
クルーガーが言った。
「今夜は灯りを消してください、とは言わないんだな」
頭が一杯で思いもつかなかっただけです。
そこ、つっこまないでと百合はもう息も絶え絶えだ。
灯りが消される中、クルーガーが微かに笑った気がした。
◇◇
昨夜あったあれやこれやが、頭に浮かびかけ、百合は慌てて首を振った。未知の経験の威力たるや…。誘惑しようなどと考えた自身の甘さを思い知る。
─すごかった
ただそれに尽きる。百合はぼうっと梨を口に運んだ。
◇◇
使用人部屋にて、メイドのアンナが侍女のメアリに話しかけている。
「奥様、どうしちゃったの?なんだか随分態度が違うって話じゃない」
「ふん。すぐに化けの皮が剥がれるよ。調子に乗っていられるのも今だけさ」
侍女のメアリは、昨日“使えない女”と部屋から追い出された、腹立ち紛れにそう言った。
今朝の様子もまたぽわっとしていて、彼女を苛立たせる。
月に一度の営みで舞い上がりやがってと、内心悪態をつく。ベッドを整える手も自然乱暴になるっていうもんだ。メアリは肩を怒らせながら、アンナに言う。
「家政婦長もメイド長も奥様のことをよく思ってない。変に睨まれたくなかったら、余計なことは言わないことだね」
「…わかったわ」
メイドと侍女の間にはれっきとした差がある。それ以上、アンナは強く言えなかった。
◇◇
料理長のエドガーは昼の食事の用意をしながら、他の料理人の進捗具合もしっかり確認していた。
思い出すのは昨日の朝のこと。自然、食事をつくる手にも力がこもる。
朝から奥様に呼ばれていると連れ出され、言われたのは思いもよらないことだった。
自分の料理がまずいと言う。とんだ言いがかりだと思ったが、実際に口にしてみると確かに味が違う。
泥水のようなスープだった。料理長である自分をただの料理人扱いするイネスには、元から良い感情を抱いていなかったが、まさか自分を嘘つき呼ばわりするとは…。
今、思い出しても顔が歪む。
あのとき、奥様が自分のことを信じてくれたようだったのも意外だ。イネスは気に入りのようだったのに自分の肩を持ってくれるとは…。
少しでも美味しいものを提供しよう。
「おい、そこ!手が止まってるぞ」
料理人を指導しながら、エドガーはいつも以上に料理に集中するのだった。
◇◇
百合は一日で状況が変わるとは思っていなかった。さすがにそこまで甘くはない。
執事からまずは、裁量権を取り戻さなくては。それには信用してもらうのが一番なのだが、どうすれば…。
思案していると、ノックの音と共に男が入室してきた。
「奥様、少しご相談が…」
「リーゼント?」
試しにそう呼んでみると、男は怪訝そうな顔で見てきた。
「はあ。どうなさいましたか?」
どうやら執事のリーゼントで間違いないらしい。
「なんでもないの。話を続けて」
「それでは…当家で主催するパーティーについてですが、招待客のリストを僭越ながら選ばせていただきました。奥様には、当日の行程を確認していただきたいのですが…」
そう言って、紙を差し出してきた。
百合は目をやった。元いた場所でイベントの準備もしていた彼女は疑問を口にした。
「これ、随分スケジュールが過密だけど前、主催した時の資料は残ってる?
それと、招待客が随分多いのね。
先に帰ってもらう家と残ってもらう家、分け方の判断は妥当だと思うけど、誘導はどうやってするの?」
執事は驚いていた。いつも黙って自分の言うことに頷き、行程についても全て任せてくると思っていたのに…。
疑問点を口にするだけでなく、過去の資料を持ってこいとは随分様子が違う。まるで別人だ。
リーゼントは、しばしお待ちをと言い、資料片手に再び部屋に戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう…」
読み始める女主人をじっと見つめる。彼女に何があったのだろうか…。
「誘導についてですが─」
「なるほど、それなら─」
話は白熱していった。結局、パーティーテーマまで決め、満足して向かい合う。
「リーゼント、あなた優秀ね」
「恐れ入ります」
普段言われれば、反感を持つだろう言葉にも素直に頷ける。女主人の意外な一面を知り、少し見直したリーゼントだった。
「奥様こそ、深い考えをお持ちでいらっしゃいますね…」
「…そんなこと。」
ただ慣れているだけと、心の中で口にする。
百合は駄目元で、家の裁量権を返してもらえるか聞いてみた。
執事は今の奥様なら…と了承した。
ただ、自分に何かする前に確認をとってほしいとだけ言い添えて。
(まあそうよね。でもなんとかなりそう…)
事態が少しずつ好転していくのを感じながら、日記で新たに知った名前を口に出す。
「…ライーサ、あなただけは許さない」
◇◇
『メイドの一人が体調を崩して、辞めてしまった。私にとってはメイド以上の存在だった彼女。
味方のいないエーデル家で唯一寄り添ってくれたライラ。あなたには側にいてほしかったのに…。
頼りない私には相談しづらかったのだろうか?一言もなかった。
だが、そうではなかったと知ったのは家政婦長のライーサがメイドと話しているのを聞いたからだ。
ライーサは言っていた。
“よくやってくれたわね。ライラもきっと…分かってくれたと思うわ。”
疑問に思って物陰に隠れるとメイドが言った。
“まあ、しぶとかったですけどねあの女。
奥様を最後まで悪くは言わなかったですし。
痛め付けて破落戸まで雇ったって言ったのを本気にしたのか、逃げていきましたけど。”
アハハハ
彼女たちの笑い声が今も頭に残っている。
どんなに怖かったことだろう。彼女の苦しみに気づかずに自分の悩みばかり話して。
私はなんて、愚かだったのだろう。』
百合は思った。
ライーサ、あんた人として終わってる…。
いくら女主人を快く思っていなかったとはいえ、度が過ぎた行為だ。
それから百合は、家政婦長について徹底的に調べ始めた。
巧妙に隠してはいるが、続々と出てくる証拠の数々。横領も当然の如くやっていた。
手下のメイド経由だが、彼女は自分の身可愛さにライーサを売ってくれることだろう。
百合はほの暗く微笑んだ。
今まで不自然に辞めていった使用人にも連絡がつく者には、手紙を出した。
一人では弱くても、ここまでライーサから受けた仕打ちについて訴える者がいれば…。
中には法廷で証言すると言っている者も。
証拠は揃った。その前にクルーガーにお伺いを立てなくては。
◇◇
「お忙しいところ失礼致します。夕食時でいいので少しお時間頂けないでしょうか?」
「…分かった」
鉄面皮の彼の態度が急に柔らかくなることはないが、話を聞いてくれたことにほっとする。
それでは、と言って百合は退出した。
◇◇
夕食の時間、二人揃って食べているのが珍しいのか給仕する下僕が驚いたような顔をしている。
それを軽く睨み付けながらも、百合は切り出した。
「ご相談というのは、家政婦長ライーサについてなのですが─」
そう言って、手早く簡潔に彼女の行いを訴える。クルーガーは言った。
「これだけ証拠が揃っているなら、辞めさせるのは簡単だろう?なぜ、私に?」
「公爵家の不祥事になりかねない事案です。先にお許しを頂くべきかと…。」
「警察につき出すもしないも、どうぞお好きに。あなたなら悪いようにはしないだろう?」
それは、どういう意味かと一瞬百合は考える。侮られているのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
自分を信頼してくれているのではと、心が温かくなる。裁量権を取り戻してからの自分の行いを認めてくれているようで…。
「決して悪いようにはしません。」
それだけ言って食事を再開した。
◇◇
─奥様が呼んでる
ライーサは使用人部屋のベルが鳴り、自分が呼び出されたことに辟易とした思いで部屋へと向かった。
「お呼びですか?奥様」
「…入って」
目の前で優雅にお茶を飲む女主人を見つめてライーサは顔をしかめた。
「どういったご用でしょうか?私も暇ではないのですが」
「すぐ終わるわ」
そう言って、しばしの間お茶の味を楽しんだ。
「…これから話すことは、意味のない下らないことなの…。でも女主人として言わなくてはね。」
百合は間をあけて口を開く。
「お前は、クビよ」
「…は?」
ライーサの口からは乾いた笑いが漏れた。
「何をおっしゃってるんですか…奥様。
私が何をしたと…?」
バサッ
書類の束を机に投げ捨てる。もちろん写しだ。用意するのは大変だったが、万が一破られたり燃やされてはかなわない。
ライーサが言う。
「それは?」
「あなたが分かるように簡単に言うと、犯した罪の証ね」
勝手に見ればというように、ひらと手を振る。
ライーサは震える手でそれを取って読むなり言った。
「捏造です!誰かが私を陥れようと…」
「うーん。それは無理があるんじゃない?
ここまで訴える者が多いとね…。法廷で証言してくれる者もいるそうよ」
漸く状況を把握したのか、ライーサがすがり付いてきた。
「奥様…どうかお許しを。なんでもいたしますので、今までのことはどうか…」
「そうね…あなたは長年屋敷に勤めてくれたものね」
「それでは…」
ライーサの顔がパアッと明るくなる。
「私、そういえば謝罪の言葉、まだ聞いてないわよね?」
「申し訳ございません奥様…!」
地べたに頭を擦り付ける勢いでライーサが言う。
「頭が高い…なんちゃってね」
ライーサの頭を軽く押して、すぐ離れる。
これ以上はやり過ぎねと。
しかし、思い直して、これは辞めさせられたライラと女主人の分とばかりに足で蹴った。
ライーサが痛みに悶える。
「それであなたの処遇なのだけれど、まず、ここに署名してくれる?」
百合はそれには構わず言った。
守秘義務についての書類だった。
─自身が犯した罪を含めて、エーデル家で起きた一切を他言することを禁ず。破れば、法の下、正式に訴えるものとする。
ライーサは署名した。
百合はそれを受け取り、にっこりと笑った。
「今までありがとう。紹介状は書かないけれど、こずるいあなたならどこでも上手くやっていくわよね。それじゃあね」
「待ってください奥様!話が違います!!」
「話?」
「許してくださるのでは?」
「そんなこと一言も言ってないけど?
じゃあねもう二度と会うこともないと思うけど」
この嘘つきと殴りかかってきたライーサの腕を掴んで、扉の外に向かって怒鳴る。
「早く連れていって!」
外で待機していた下僕が、彼女を連れていく。
ずっと暴れていたので、女主人に対する暴行未遂での訴えも今後できるわねと、わざと聞こえるように言ったら大人しくなった。
ライーサが辞め、彼女の手下のメイドや侍女、メイド長までもが謙ってくるようになった。
「奥様、何かお困りではないですか?」
「奥様は相変わらずお美しいですわ」
「前の家政婦長は、どうかしていましたね。辞めてくれてよかったです」
口々に何か言っていたが、話半分にあまり聞いていなかった。
少なくとも彼女達3人には辞めてもらうつもりだ。代わりの者が着き次第、すぐに。
それまで働いてくれればいい。紹介状を書くつもりはないから、次の働き口に困るだろうが知ったことではない。
大分、掃除も済んだなと百合は独り言ちる。
ああ、それとイネス…あの下僕の処遇も決まっている。彼ももちろん追い出すが、その前に毒味役として、こき使ってやるつもりだ。
聞くところによると、公爵家はよく狙われるらしい。立派なお役目よね。彼も満足だろう。
◇◇
クルーガーは、変わり始めた妻に興味を抱き始めていた。
生き生きとした顔で使用人に指示を出し、
今はパーティーの準備を進めている。テーマは白い薔薇だなんだと執事と盛り上がっていた。
少し羨ましい。
妻にと望んだのは、母とは正反対の後ろで大人しく控えている女のはずだったのに…。
今は彼女が次に何をするのか、気になって仕方がない自分がいる。
母は美しい人だった。そして心が弱い人でもあった。今なら分かるが、当時は急に気分が上下する母を恐ろしく思ったものだ。
望むことがころころと変わり、意に反することをしでかすと叩かれたので、子供の頃は痣だらけだった。
「立派な公爵に」
それが、彼女の口癖で。
前公爵─父が外につくった女の元から帰ってこなくなると、余計自身への締め付けは酷くなった。
終いには、男をつくって、母はそいつと一緒に馬車から転落死した。醜聞だけ遺してこの世を去っていった。
期待されるのが恐ろしく、女というものをどこか怖く思っていたので大人しく無害な女を求めた。
跡継ぎを産んでくれる…彼女はそれだけの存在のはずだったのに。
自分に何も求めず、楽しそうな彼女から何故か目が離せない…。
◇◇
パーティー当日。
「奥様、緑色のドレスがとてもお似合いです!!」
新しく侍女になったアンナが力一杯誉めてくれる。
それを嬉しく思いながら、百合は微笑む。
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえて嬉しいわ」
「公爵様もきっとそうお思いになると思います!」
「…だといいのだけれど」
百合は未だ、クルーガーをよくは分かっていない。一度閨を共にした記憶があるとはいえ、彼は忙しくあまり顔を合わすこともない。
時たま視線を感じるが、何も言ってこないこともあり首を傾げるばかりだ。
ギー
扉が開く音がし、見ると公爵が立っていた。
アンナは気を利かせたのか、退室してしまう。
「……」
見られている。視線に耐えられなくなって、百合が口を開こうとすると、手を差し伸べられた。
苦笑して手を取る。結局何も言ってくれなかったと前を向くと、耳元で声がした。
「…似合っている」
小さな声だったが確かに聞こえた。
見るとクルーガーの耳が赤くなっている。
照れ屋なところもあるのねと、百合は微笑ましくなった。
パーティーは滞りなく進行し、二人寄り添って招待客に挨拶していく。
「あの氷の薔薇が微笑んでいるぞ。嘘だろ?」
「やだ、ほんと!」
クルーガーが妻に向ける笑みに驚く者もいれば、今だけよ…と罵る者もいた。
「彼女がどんなにみっともなかったか、皆様覚えているでしょう?」
「ええ、本当に。分からないくせに知ったかぶって…。笑われてるのに気づきもしない」
「今日は調子がいいようですけれどね」
フフフ
彼女たちが華やかに毒を隠して笑う。
記憶に無くても腹が立つものねと少し離れた場所にいる集団に向かって歩を進める前に、クルーガーが大股に歩いていった。
「エバンディラ伯爵夫人に、ルーデン侯爵夫人、ラリー嬢。それは妻に対する侮辱と受け取っても?」
「あら、冗談ですわ…オホホ。お許しください」
百合も追い付き、口を開く。
「冗談にしては質が悪いわ。私、深く傷つきました」
「…妻もそう言っておりますし、今夜は当家の主催です。お疲れならもう帰られてもよろしいかと」
やりすぎだとクルーガーを見るも彼の表情は変わらない。
蒼褪める婦人達が口々に謝ってきたので、
「忘れないですわ」
と笑顔で答えておいた。
◇◇
その日の寝所にて。
「ユリシーズ」
クルーガーが女主人の名前を呼ぶ。
「百合と言って」
「ユリ」
百合はクルーガーの首に手を回した。
「今日はありがとうございました。あなたのお陰で素敵なパーティーに…」
「今はそんなことはいいから、こっちに集中を」
常より余裕なく見える彼が言うままに、百合は口を閉じた。
「なんだか珍しいお顔ですね...」
しかし、彼が覆い被さってきたので、それ以上は言葉にならなかった。
彼の舌がもう黙れとばかりに百合の口内を動き回る。息継ぎが上手くできないでいる彼女に気づいて、クルーガーが口を離す。
「はぁ…はぁ」
もう少し手加減してと、百合が上目遣いで軽く睨み言った。
「…灯りを…」
「聞こえないな」
クルーガーが意地悪そうに笑う。
その日、百合は明るいまま散々貪られたのだった。
(ユリシーズには悪いけど、もう彼から離れられない)
愛欲にまみれた日々はまだ始まったばかり。