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何かに引っ張られている感覚が、
船体から確かに伝わってくる。
不思議な浮遊感と解放感。
そして闇の底に落ちてゆく感覚に、
世界の底に落ちて行くような錯覚を覚えた。
船体が深海に潜るにつれ、
金属の外壁がギシギシと言う悲鳴を上げ、
収縮し始めた。
ビーチボールのように水の中で船体が、
押し潰されてゆく。
鼻を突き抜ける様なツーンとした感覚と共に、
耳鳴りがし始めていた。
『耳抜きしないと潜水病になる!』
そう言った彼女は鼻を摘まんでいた。
彼女の声が遠くで聞こえた気がした。
「耳抜きってなに?」
彼女は不思議そうに僕を見ると説明してくれた。
『耳の間にある空気が密閉された器官を開けるの。
そうしないと空気圧で鼓膜が裂ける。
鼻を摘まんで口を閉じ鼻をかむ感じで、
耳に空気を送る 』
「こう?」
僕は言われた通りにするけど、
耳が遠くなった感じは治らない。
『どう?』
「ダメみたい」
『じゃあ鼻を摘まんで唾を飲み込んでみて。
初心者の方法』
僕は言われた通りに唾を飲み込むと途端に、
耳を覆う圧が抜け普通に戻っていた。
心配そうに僕を覗き込む少女。
「ありがとう。
もう大丈夫」
彼女は空気圧計をちらりと見る。
空気圧計が体重計の針のように、
徐々《じょじょ》に徐々にその重みを増しっているのが見えた。
それがそのまま船体が押し潰された量と、
潜った水深の深さを示していた。
『危なかった』
そうぽつりと漏らすと、
すぐにアクアボイジャーで通信を始めていた。
『うんそう』
彼女は眉間にシワを寄せてこちらを見た。
「どうしたの?」
『間に合わない』
えっ!?
『津波の速度が速い。
もうそこまで来ている。
潜るスピードを上げないと間に合わない』
・・・
「これ以上はスピードを上げれないの」
『弁を前回まで開けてる。
これが潜水速度マックス』
「死ぬの?」
彼女はこくりと頷いた。
『普通なら』
・・・
『なら普通でない方法をとる。
そこの酸素ボンベを口に加えて』
「なにするの?」
『スピードを上げるには沈めればいい』
!?
『窓を開ける』
彼女はそう言うなり何かのレバーを下ろした。
途端に壁についた四角いハッチがいくつか開き、
水が勢い良く船内に流れ込み始めた。
僕は慌ててボンベを加える。
船内の空気圧計がぐんぐんと気圧を上昇させていた。
1.5 1.7 1.8 2.0
2.2 2.5
そこまで空気圧が上がったところで、
何かが破裂するような音が弾けた。
【パーン!】
それはお菓子の袋だった。
お菓子の袋が空気圧に耐えかね破裂して、
その中身のお菓子が空中に飛び散っていた。
くじらにイルカと色々な形のお菓子が、
空中に浮遊して飛んでいた。
えっなんで飛んでるの?
彼女はそれには答えずレバーを上げる。
途端に水の浸水は止まった。
椅子の腰元辺りまで貯まった水のなかで、
彼女は説明してくれた。
『お菓子が浮いているのは、
このお菓子が地上の1気圧の中で作られたから、
お菓子の中にたまった空気も1気圧。
船内の空気圧は今3気圧近くまで上がってる。
つまり重い空気で満たされている。
軽い1気圧の空気は風船に入ったヘリウムと同じ。
だから浮く』
「急激に気圧が変わると潜水病になるんじゃ?」
『それも大丈夫。
急激に下がれば危ないけど、
上がるのは大丈夫』
彼女は僕と話ながらイルカ達とも通信していた。
『うんそこでいい。 お願い』
彼女がボイジャーでそう喋りかけながら、
僕の方をちらりと見てうなづいた。
どうやら岩影は見つかったようだ。
しばらくして何かにぶつかる振動がした。
そしてひときわ大きな軋みを上げると、
船体は水底について停止した。
途端に窓の外で舞い上がる白い綿雪。
それも再び沈澱し始めると、
世界は深淵と静寂の中に包まれていた。
海底は誰もいないスノードームのように、
ただ堆積した雪垢だけが降り積もっていた。
窓の外は一面の闇と無音が支配する世界。
その闇の中で取り残された様に船体だけが、
淡い光をだしていた。
どうしようもなく、寂しさだけがそこにあった。
そんな寂しさに抱かれ僕は不思議な安らぎを感じる。
そんな安らぎも永くは続かなかった。
唐突に船体が揺れ辺りに堆積した白い綿が、
一斉に舞い上がった。
船体の外は海吹雪の中に埋没していた。
その嵐もすぐに過ぎ去り辺りは再び静寂に覆われた。
『大丈夫、通りすぎたよ』
彼女はぽつりとそう言ったきり黙ってしまった。
窓の外は舞い上がった雪が神秘を彩り、
永遠と流れ続けていた。
僕がそんな海底にみいられ窓の外を見ていると、
ふっと窓ガラスに同じように深海を見つめる少女の夕暮れの様な顔が映っていた。
その姿は深海に眠る人魚のように虚ろで儚げに、
ここでは無いどこかを見つめていた。
僕はこの目を知っていた。
それは僕の瞳の色と同じだったから。
後悔と懺悔と憎しみと、
あきらめの滲んだ色だったから。
僕はこの目を知っていた。




