スクライド・ザ・ブラッド
スクライドは造語で、ブラッドは英語だ!
嵐の前の静けさ、というやつだろうか。
戦場には静寂が訪れていた。
つい先程まで天地を鳴動させていた超高濃度の聖神力が、物質として現界することにより、安定期に入ったが故に。
無論、ほんの一時のことに過ぎないわけだが。
「……どういうつもりだい? まさか、それで終わり……なんてことはないだろう?」
翔子は再び、訝しげな表情を浮かべていた。
「ああ、やはり翔子さんのお気に召すものではありませんでしたか?」
「……当然だろう。そんなものが、本当にキミの聖衣なのか?」
「危惧していたこととはいえ、残念な質問ですね。見た目で物事を判断してはいけない、と教わったことはないのですか?」
とは言うものの、翔子の疑問は至極真っ当なものだった。
奏詩が創り出したのは、右前腕部から伸びた太くて長い無骨な突起物と、その周囲を覆っている孔だらけの外装。
あちらこちらに刻まれた、経文のような文字列の群れは不気味さを助長するものではあるが。
ただ、それだけだった。
「ボクとしても、折角の初陣なんだ。矮小な性能であってほしくないとは願っているよ。ただ、右腕以外は生身というのは、どうにもアンバランスじゃないか?」
聖神力を循環させているため、外見上は生身でも強度は常人を遥かに上回る。
無論、聖神聖衣の前では大差ない。
「生身云々についてなら、翔子さんが言えた義理ではないでしょう。貴方とて、背中以外は変化なしじゃないですか」
両端を広げれば20メートルにも達しようかという巨大な翼と、最大全長でもせいぜい2メートル程度の得物を同列に比較するというのは、随分と烏滸がましい話である。
「……やれやれだね、もしかして、力を出し惜しみでもしているのかい? 徒手格闘で圧倒していたから、聖衣を用いたところで高が知れている……つまりはボクを侮っている、と」
「いいえ、そのようなつもりは決して」
「構わないさ。そういうつもりならば、全力を出さざるを得ない状況へと追い込めばいいだけだ」
白銀の翼から、数枚の羽根が舞い上がり、奏詩目掛けて飛来する。
「羽根を飛ばした……? いや、あれは……!」
飛び道具が本人よりも遅いわけがない。
軌道を予測し、瞬時に回避行動へ移る。
聖神力によって数千倍に強化された認識・反応・思考速度を以てしても、ギリギリのタイミングだった。
「あのサイズで……こうなりますか」
あと少し判断が遅れていたなら、確実に終わっていた。
白銀の羽根改め4枚の鋭刃は、奏詩の眼下の地面へと激突し、凄まじい爆音と、猛烈な土煙を巻き上げる。
「神ハルコン製の地面をこうも易々と貫通する威力……あの翼がなくなるまで凌ぎ切るというのは……」
奏詩のネーミングセンスがおかしいわけではない。
聖神力を用いることでしか精製できない超常物質『神ハルコン』というのは、あくまで正式名称だ。
聖女の時代に変遷してからの主要建造物には殆ど、この素材が用いられている。
「……次弾を撃ってこない……? いや、これは……ッ!」
咄嗟の判断で、奏詩は大きく左斜め後ろへと飛び退く。
次の瞬間、さっきまで奏詩がいた位置を中心に、噴火のような4つの柱が立ち上っていた。
「フフッ……やはりいい勘をしている。直撃ではなくとも、掠めるくらいは狙っていたのだけどね」
土柱の正体は、地中から飛び出した白銀の刃によって巻き起こった破壊の余波。
4枚の鋭刃は意思を持っているかのように、迷いなく翔子の元へと舞い戻り、再び翼を構成する一端を担う。
「……一応確認しておきたいのですが、その羽根全部、使い捨ての飛び道具ではなく、自在に操作できるのですか?」
「当然だろう。ボクの聖衣なのだから、手足なんかよりも正確に操れるさ」
事も無げに言ってのける。
1人の聖女が、短時間の内に抽出できる聖神力には限度がある。
高濃度の聖神力の塊たる聖神聖衣を使い捨てにする、非効率な仕様であったならば、持久戦に持ち込む線もあったが、露と消えた。
次の戦術プランへと移行する。選択肢はあまり多くはない。
「あとついでにですけど、一旦元の位置に戻さないと推進力が保たない……なんて弱点、あったりしません?」
「鋭いじゃないか。その通りだよ」
これもまた、あっさりと白状する。
「ブラフの可能性もありますが……おそらくは自信の表れ……でしょうね」
「おめでとう。つまりボクの羽根をすべて撃ち尽くさせてしまえば、簡単に無防備状態へ持ち込めるというわけさ」
孔雀の求愛、或いは威嚇行動のように、白銀の翼を大きく広げる。
「だからこうして、少しずつ段階を上げていくしかないわけだ」
翔子の心配はただの杞憂。その枚数は軽く見積もっても数百から数千。
しかもただ躱すだけでは不十分。込められた推進力を喪失させなければ無力化には至らない。となれば、そうそう弾切れなど起こりはしない。
「ま、すぐに決着がついてしまうというのも興醒めだし、悪くはないさ」
間違いなく、本音は後者。
再び翔子の翼から、白銀の羽根が舞い上がる。
その数……40。初撃の実に10倍。
「……段階の進め方、間違ってません?」
「問題があるのなら、早く本気を出したまえ。力を温存していたまま、気付いたらやられてました、なんて笑い話にもなりはしない」
刃の群れが、容赦なく襲来する。
全部まとめて、猪突猛進に突っ込んでくるわけでは勿論ない。
あるものは大きく弧を描きながら。
またあるものは直角じみた角度でジグザグに曲がり続けながら。
*
「うわぁぁ、あんなにいっぱい撃たれたら、奏詩ちゃんの逃げ場がないよ……」
「それだけじゃない。ただでさえ軌道が読み辛い上に、到達タイミングも微妙にずらされている」
「如月奏詩の反応速度や精密動作性は相当。その上でも、次を凌ぐには運の要素が絡む」
*
外野の見解は概ね正しい。それでもまだ、奏詩の中に焦りはない。
刃の群れが炸裂する。
採石場で怪人でも撃破したかのような、派手な大爆発を伴って。
「へぇ……やるじゃないか。それがキミの聖衣の能力かい? シンプル・イズ・ベストってやつかな?」
着弾地点から、既に奏詩は大きく距離を取っていた。
*
「え……? 何が起きたの? 瞬間移動?」
「いや、河嶋さんの言う通り、もっと単純明快な能力だよ。能力と呼ぶのもどうかと思うくらいに」
「ロケットエンジンの要領。聖衣に開いた孔から聖神力を噴出させて、爆発的な推進力を獲得」
「ああ、そして進行方向にある邪魔な刃だけを打ち払って、突破したというわけだ」
「う……うん、つまり、えっと……なんかすごいことしたんだね?」
舞愛は置いてきた。ハッキリ言ってこの闘いにはついていけない。ああ、そのほうがいい。
*
「……推進力を温存させたまま、数枚地中に隠しておくというのはどうですか? 忘れた頃に奇襲を仕掛けるとか」
奏詩は地中からの追撃も難なく躱す。来るとわかっていれば、避けるだけならそう難しくない。
1500と少しをその場で斬れるかと言われたら、それはまた別の話になるが。
「面白いアイディアだけど、ボクの流儀には合わないかな。さて、あれだけの高速移動が出来るのなら、もっと広範囲に仕掛けていく必要があるわけだけど」
翔子の刃が展開される。その数はざっと……200といったところか。
「さぁ、今度は躱し切れるかい?」
「どうでしょうね。やってみればわかるのでは?」
「ああ、その通りだ。余計な質問だったね」
無慈悲なまでに、殺戮の雨が降り注ぐ。
*
「うげぇ……あんなの、今度こそ避けきれるわけないよ……」
「否定。如月奏詩の聖神聖衣、想定以上に強力」
「え? そうなの?」
「というより、如月さんの技量が凄まじい。一切の無駄なく的確に、精密に聖神力を噴出して超高速の移動と防御をこなし、無数の刃を紙一重で捌き切っている」
3人が固唾を呑んで見守る中、バトルフィールドは暴虐の嵐が激しく吹き荒び、
やがて凪が訪れた。
*
周辺の地面は戦場の中心地となったかのように砕け、隆起し、ズタズタに切り裂かれている。
だというのに、その爆心地にいた奏詩は傷の1つも負うことなく、悠然と構えていた。
「……面白い。本当に面白いよ、キミという存在は! そんなちっぽけな聖神聖衣でどこまでやれるのか、是非とも試してみたいものだ!」
翔子の展開する刃の数は更に膨れ上がる。
「先程の10倍……といったところですか。流石にもう、防ぎ切ることは不可能でしょうね」
「そうなのかい? ならば本気を出すといい。聖神力噴射を全身から行えるようにすれば、機動力や敏捷性は飛躍的に上昇することだろうしね!」
「それもいいアイディアですが……折角ですので、こういった趣向はいかがです?」
奏詩は徐ろに、左手を翔子へと向ける。
それは照準を定めるかのような行為。
イメージは古代の砲撃兵器・バリスタ。
テコの原理で弦を引き、矢弾を撃ち出すものであるが、今回それに当たるのは。
「攻撃は最大の防御、なんて言いますよね」
『死者粗製』に備え付けられた噴出孔を1方向へと集約。
最大限に聖神力を放出し、推進力へと変えて……突撃する。
「なっ……!? 特攻かッ!」
翔子はすぐさま反応し、無数の刃が動き出す。
が、問題はない。
後方に展開され、弧を描くような軌道で飛来する刃よりも、直線距離で突進する奏詩の方が先に着弾する。
……はずだった。
「成程……身体から分離していない翼部分は、更に反応が早い……わけですか」
奏詩と翔子の間を遮るように、白銀の三対の羽の集合体が立ち塞がっていた。
「最大の攻撃手段にして、最大の防御手段でもある……ってことですか」
無骨な切っ先に集約された『点』の突破力を持つ奏詩に対し、咄嗟に防いだ翔子の翼は『面』で受けざるを得なかった。
翔子の翼には激しく強く亀裂が入り、次々に砕け散っていく。
物理法則を無視する聖神聖衣であるが、お互いが同じ性質を保有している以上、明らかな非対称の形で衝突すれば、どちらが敗北するかという結果を覆すことは出来ない。
「これは……ダメかもしれませんね」
やがて奏詩は、白銀の翼による防御を穿ち貫いた。
が、その切っ先が翔子を完全に捉えるには至らなかった。
そして突進の勢いは収まることなく、バリア・フィールドへと着地することで漸く停止する。
「フ……フフ……流石だよ、如月奏詩。こんな隠し玉を用意していたとはね……『深淵より来たる風』の攻撃を掻い潜り、このボクに傷を負わせるだなんてさ……本当に、心から驚いたよ」
「掠り傷を付けたくらいで、そこまで称賛されると、反応に困るのですが」
白銀の翼による堅牢な防御は、奏詩の突撃を食い止めるには至らなかったが、軌道を逸らすだけなら十分だった。
翔子は脇腹から出血していたものの、致命傷には程遠い。
「謙遜することはない。聖神聖衣を纏った、ボクに掠り傷を負わせた者は、キミが初めてなのだからね」
「それはそうでしょう。聖神聖衣なしでは、まともな対抗手段もないでしょうし」
「そうだね。ボクがまだ聖天騎士団ではないから、互いに聖神聖衣を使うことも許容されないものでね」
翔子は僅かに溜息をつき、それからすぐに、歓喜に瞳を輝かせた。
「余力を残したままの戦闘なんて、退屈の一言に尽きる。初めての、全力を出すべき強敵との対峙に、激しく心が躍っているんだ!」
もう何度目になるだろう、翔子の刃が展開される。
*
「あれ、さっきよりも少なめ? やりすぎだったって気付いたのかな?」
不思議がる舞愛に、深冬たちが答える。
「違う、そうじゃない。おそらくだけど、河嶋さんは誘っているんだろう。如月さんの先程の攻撃を」
「肯定。翔子の性格上、如月奏詩の驚異的な突破力を、完璧に防御したい欲求に起因すると推察」
「ただ、いつ繰り出されるかわからないアレを防ぐには、聖女の反応速度をもってしても、ある程度の距離は必要不可欠だ。だからさっきよりも接近させることのないよう、間合いを最優先にした立ち回りになっているんだろうね」
「概要を知り、初見時より猶予があれば、防御可能との判断。おそらく適確」
*
呑気に酌み交わされる外野の分析に、奏詩は溜息でもつきたい気分だった。
安全圏からの実況が聞こえてしまうというのは、能力強化の難点かもしれない。
しかし一番の問題点は、彼女らの指摘が的を射ていることだった。
牽制というにはあまりにも苛烈な翔子の攻撃。
それらをどうにか捌いてはいるものの、間合いを詰めることはとても出来そうにない。
自信の表れからか、或いは拘りやプライドの関係からか、翔子自身はまったく動く気配を見せようとはしないものの、接近するためのルートは厳重に封鎖されていた。
「力技のゴリ押しで、無理やり押し通ることも出来なくはない……ただ、その後が続かないでしょうね……」
翔子の飛ばす白銀の刃は、そのすべてを奏詩への攻撃に使ってはおらず、一部が上空で待機状態となっている。
奏詩が強引に距離を詰めたとして、そこから直線距離では跳べないように、突撃する軌道上に刃の群れを密集させてくるであろうことは想像に難くない。
防御偏重の立ち回りのおかげで、防ぎきれないほどの殲滅力はなくなっているものの、このままではジリ貧だった。
加えて、翔子の広範囲攻撃で、足場もかなり破壊され、随分と起伏が激しくなっている。
防壁としての意味を成さない以上、一方的に奏詩が不利になっていくこともまた自明。
「いいんですか? 広範囲に高威力を展開させ続けている翔子さんと、必要最低限の動作と出力で防御に専念している私とで持久戦になった場合、どちらが負けるかは明白と思われますが」
「余計な気遣いだよ。今ボクはかつてない程に絶好調だ! あと数日くらいならこのまま撃ち続けられる自信があるくらいにはねッ!」
「……冗談に聞こえないのが怖いところですね。ただ、そう長々と付き合わされるのも面倒です。終わりにさせてもらいましょうか、次の一撃で」
大きく後退し、突撃の構えを取る。
睨んだ通り、足を止めたところに追撃してくるつもりはないようだった。
*
「一体、どういうつもりなんだ如月さんは……? あの位置では初撃よりも遥かに遠い。河嶋さんの防御を突破できるはずもない……」
「可能性を考察。一度目は出力を制限していた線。或いはブラフ」
「うん、やっぱりね。そういうことだったんだよね。あたしも常々そう思ってたよ」
舞愛の知ったかぶりも堂に入ってきた。
*
「終わりにする、か。そこからでもボクの防御を突破する自信があるというのなら、是非見てみたいものだ。阻止することは容易だが……フフッ、無粋というものだね」
奏詩と翔子を結ぶ直線上に乱舞していた刃が退避し、道を譲る。しかし本体へと戻したわけではなく、周囲に留まらせたままだ。
先程までの激しい攻防が嘘のように、闘技場は静寂に包まれていた。
水面下で熾烈な読み合いを繰り広げる剣の達人かの如く。
極限まで集中力を高めて一瞬に懸ける西部劇のガンマンかの如く。
そして、爆音が鳴り響いた。
*
「疾い。しかし、速度は一度目と同等」
「つまり、如月さんの発言はブラフだった……? 確かにそのおかげで射線が開いて、あの技を使いやすくはなったのかもしれないけれど……」
「同時に翔子が待ち構える態勢を整える結果も齎した。ならば結果は明白」
奏詩の『死者粗製』と、堅牢な防御形態と化した翔子の『深淵より来たる風』が真っ向からぶつかり合う。
「くっ……やはり、とんでもない威力だね。だが、それでも……ッ!」
固く閉ざされた翔子の翼が、けたたましい金属音を立てながら砕け折れていく。
しかし、奏詩の切っ先が侵食する勢いもまた、徐々に失われつつあった。
「これで……終わりだッ!」
閉じていた白銀の翼が、一斉に開かれた。
押し戻す力をダイレクトに受けて、奏詩の突撃は完全に食い止められる。
「フフ……どうしたんだい? この一撃で終わりにするはずじゃなかったのかな……?」
「はい。そう言っておけば油断してくれると思ったので」
奏詩の突撃が完全に防がれたということ。
それはつまり、軌道を逸らされただけの先程と異なり、不必要に間合いが開かないことを意味する。
「至近距離……取らせて頂きます」
既に奏詩は、再突撃の準備を完了させている。
「しまっ……最初から狙いは……ッ!」
防御態勢を解除してしまった双翼を、慌てて閉じようとする翔子。
しかし、元々連発するつもりでいた奏詩の方が、僅かばかり早かった。
不十分に閉じた程度の羽の防御も、あっけなく貫通。
轟音とともに、鈍く重厚な切っ先が、翔子の腹部へと突き刺さる。
「が……あああああああっっっ!?」
聖女の痛覚は聖神力によって制御されており、ちょっとやそっとの痛みでは思考の邪魔になることはない。
それでも尚、聖神聖衣による強烈な直撃を受けてしまった際には、正常な感覚を保ち続けていることは難しい。
翔子もまた、深刻な致命傷を受けたことによって『深淵より来たる風』の制御が乱れた。
空中に留まろうとする反重力が消失し、突撃する奏詩の勢いを受けるまま、まるで隕石のごとく地面へと墜落する。
だが、奏詩が開放したフルパワーの推進力はまだ底をつかない。
白銀の翼は砕け、毀れ、へし折れながらも地面を抉り、穿ち、破壊の限りを尽くしながら巨大な轍を形成していく。
200メートルほどそのまま突き進んだだろうか。
強烈な摩擦と掘削によって勢いが弱まってきたところで奏詩は離脱。
慣性制御によって空中で翔子へと向き直り、戦闘態勢を崩さないまま着地する。
日本の武道に見られる、残心という概念。
攻撃を終えた直後に反撃を食らうことのないよう持つべき心得。
如月奏詩に油断はない。
尤も、今回その必要はなかったようであるが。
河嶋/翔子の上半身と下半身は完全に分断され、数十メートルは離れたところに打ち捨てられていたのだから。
動き出す気配はなかったのだから。
「……やりすぎだ、如月さん。先に聖神聖衣を持ち出したのは河嶋さんの方だから、仕方ない面はあるにしても」
「……深冬……さん? いつの間に……?」
油断したつもりはなかった。接近する気配も確実になかった。
けれど、翔子の上半身を持ち上げる深冬の存在に、その瞬間まで気が付かなかった。
「もう勝負はついた。河嶋さんはこのまま医務室へと連れて行こう。死に至るのは時間の問題だとは思うけれど。影崎さんも、それでいいだろう?」
深冬が見上げた視線の先で、観客席の影崎朱音は虚を衝かれた様子だった。
彼女もまた、深冬がいつの間に移動したのか、把握できていなかったらしい。
「了承。下半身は影崎朱音が運搬」
相棒である翔子の千切れた下半身を、動揺することもなく担ぎ上げる。
「如月さんはどうする? これだけ派手な戦闘を繰り広げたんだ。ちょっとした検査くらいは受けておいた方がいいかもしれない」
「いえ……遠慮しておきます。自分の身体のことは、自分で判断できますから」
普通の人間にとっては、なんの根拠もない無責任な言動に当たる。聖女にとってはそうでもないが。
「まぁ、そうだろうね。取り敢えず……あまり無茶な真似は控えてほしい、とだけ伝えておくよ」
「憶えておきます」
事務的なやり取りをすませ、二人は闘技場から去っていった。
手短に呼吸を整えた後、長居は無用と、出入り口へ向かうため踵を返す奏詩の背後から、絶望に満ちた悲痛な叫びが聞こえてくる。
「奏詩ちゃ~ん……待ってぇ~……置いてかないでぇ~」
それは未だ観客席に拘束されたままの、舞愛によるものだった。
奏詩は短い溜息を1つつき、舞愛を開放してから帰路へつく。
時刻は、19時を2分ほど回ったところだった。
*
巨大な敷地を贅沢に使った、学園施設に併設する形で聳え立つ、全50階の高層建築。
旧き時代に於いては、ごくごく一部の限られた上級国民しか居住することを許されなかった、タワーマンションの如き建築物が、聖少女学園に通う学生たちのために造られた女子寮である。
低階層は一般学生が分譲する形だが、高層階はワンフロアがまるまる1人の聖女に割り当てられることとなっている。
創立当初は満員だったそうだが、現在高層階の方はかなりの数、空室のフロアが存在してしまっている。
現在この聖少女学園に在籍している聖女は、如月奏詩を含めたとしてもたった6人しかいないのだから、当然のことではある。
「くそっ……ここまで消耗するものか……全力を出しての戦闘行為は……」
歓迎パーティーの開催を提案する舞愛を無碍に断り、どうにか自室へと辿り着いたところで、奏詩は忌々しげに吐き捨てた。
足元はフラフラと覚束ない。額には脂汗も浮かんでいる。
「まぁいい。首尾は上々……報告さえ完了すれば、こんな馬鹿げた任務も終わりだ」
ここへ戻る前に諜報部隊と密かに連絡を取り、聖女ドームでの交戦記録映像のデータ回収は依頼済みだ。
聖神力を用いた技術革新によって、従来の電子機器類は、必需品王者の座から敢え無く陥落している。
だがそれを逆手に取り、最も便利でない手段を用いることで、情報戦というステージに於いては、女性陣営に対してアドバンテージを持つことが出来ていた。
プロテクトさえ十全にしておけば、連絡時に露呈する危険はまずないはずだ。
「……交信? まさかもう撤収命令が出たのか?」
生活感のない部屋のクローゼットの中、配置しておいた通信機器が、着信の合図を知らせていた。
が、奏詩の漏らした独り言の内容は推測ではなく、希望的観測に過ぎない。本人もそれは自覚している。
『よぅ、無事だったみたいで何よりだな。たまたま様子見に通信室に来たもんだからさ、電話してみた』
『たまたまって……さっきから10分おきくらいに発信してたじゃないですか』
『うっさいボケ。余計なことは言わなくていいんだよ』
聞こえてきたのは誰よりも聞き飽きた、仲間の声だった。
「心配してくれてたんだな。でも、もう大丈夫だ。全部終わったよ」
『みたいだな。動画データをざっと確認したけど、聖女・河嶋翔子との交戦記録がバッチリ収められてるっぽいし。しかも聖神聖衣も使わせた上、ぶっ殺しまでしたとか、マジで上出来すぎだろ、たった1日で』
「はは……のんびりしてる余裕なんてなかったからな。もしオレが男だってバレたら、その時点で終了なわけで」
安堵しきった声色で、如月奏詩は……否、黒崎蒼汰はそう答える。