精気(エネルギー)不足
それからメリューナの、グライフ付きのメイドとしての日々は順調だった。メリューナはサキュバスとしては劣等生であるが、人間……ではないが、一人の『いきもの』としては、そう劣っている性質ではない。
むしろ、人間に混じって人間の振りをして生活できてしまっているのだから、器用ともいえるのだろう。メイドとしての仕事も、大変優秀というわけではないが、少なくとも言われたことはきちんと終えられるくらいの腕前を発揮していた。メイド長からも「もの覚えがいいですね」と言われたこともある。
ある夜、グライフに「サキュバスでなければできた女だろうにな」と、くつくつと笑って言われてしまったくらいである。
だがメリューナにもちっぽけな矜持と言うものがある。「そのように言われても困ります」と言った。
今ではグライフの言うことを、はい、はい、と聞くだけでなく、こうして多少ではあるが自分の意見を言えるようになっていた。
メイドという設定であるし、その設定を除いても恩人であるので、グライフはメリューナにとって上の立場であることに違いはない。だから当たり前ではあるが、逆らうようなことは言わない。
ただ、からかわれっぱなしになることはなくなった。不本意であるときは、それを言葉に出す。言うだけ、であるが。
しかしグライフもそれを悪くは思っていないようだ。「言うようになったな」と、それがくせなのか、やはりくつくつと笑うのであったが、少なくとも「無礼だ、従順にしていろ」とは言わなかった。
よって、対等ではないが、主従ほど完全な上下のある関係ではなくなっていた。
ここしばらくの、メリューナの生活はこのようになっていた。
昼間はメイドとして王宮のことをする。やはり大した仕事は言いつけられず、部屋や公共の場の掃除がメインであったが、もう特にお目付け役もいなくなっていた。
そしてグライフ付きのメイドとしてもいくつか仕事をしていた。
彼の服を用意するだの、お茶を淹れるだの、仕事のための文具を用意するだの、簡単すぎることではあるけれど、それは掃除をするよりも確実に上の段階である。
メリューナはこの生活にも馴染み、最早面白さすら見いだせるようになっていた。
サキュバス、淫魔は基本的に働くということをしない。ひとならざるいきものは大抵そういうものだが。労働をして金を得て、それを使って生きる人間とは、根本的に生活形態が違うのだ。
なので働く、つまり労働など初めてのことで、はじめは面倒なことだとも思っていた。
しかしやってみれば案外楽しいものだった。
掃除をして、手をかけたものが綺麗になっていくのを見るのは達成感がある。
お茶を淹れるのもなかなか興味深かった。お茶などただの水分補給程度に思っていたのだが、味や香りなどに相当色々と種類があるのだと知った。そして淹れる手順も同じくらい色々とあるのだと。
服の手入れも文具の支度も同じである。
毎日のように、新しく教えられることや、自分で気付くことがあった。それはメリューナにとっては刺激的で、めりはりのある新鮮な毎日。
サキュバスの生活が退屈だと思ったことはなかったのに、今、元の生活に戻ったら少し退屈だと感じてしまうかもしれない。そんなふうにも思うようになった。
そして夜は時々、グライフの私室に呼ばれた。そして『ひよこになるための』教授をしてもらう。
とはいえ、今のところかわいらしすぎるものであった。
体に触れられたときの反応、表情の作り方、そしてどういうことを言うのが適切か、など。初歩も初歩である。
グライフは良い先生役であった。メリューナは着実に、サキュバスとしての理想的な手腕を身につけていったといえよう。
人間の振りをして味わえる、面白みのある昼間。
そして、サキュバスとして向上できるような手腕を教えてもらえる夜。
どちらもメリューナにとっては悪いものでないどころか、得るものは実に多いものだったといえよう。
よって、日々は充実していた。
その順調であった日々が突然崩れたのは、半月ほどしたある朝のことであった。
その朝、メリューナは自室で『目覚めた』。
しかしサキュバスなので眠っていたわけではない。ベッドに横たわって、目をつぶって、心身を休めていただけだ。
ただ、人間の振りをしている現在であるので、それを『眠っている』ということにしていた。
実際、普通のサキュバスとしての生活よりも体力を使うので、人間とは違う方法でエネルギーを得て体を動かしているとしても、流石に疲れる。『眠っている』間の意識は半ば沈むようになっていた。
そうだ。『エネルギーを得ること』。実のところ、この状態を招いたのは、それをするのをすっかり忘れていたためといえよう。
メリューナは日々を送るのに夢中になり、また楽しみも覚えていたために、自身の生に必要である『エネルギー』のことをすっかり忘れていたのだ。それは人間でいうところの『空腹感』がなかなか起こらなかったということもある。精気を取らないまま、半月も経っていたというのに。
そしてそれはこの日の朝、メリューナの体に、酷い倦怠感として表れていた。
『目覚め』て、体を起こそうとしてもうまくいかない。あれ、とメリューナは思った。
けれどすぐに気付く。体が重い。
どうして、と思ってやっと思い出した。精気を取っていなかったことを、だ。
栄養不足だ。いきものなのだから、栄養になるものをとらなければ生きていけないし、それがあまりに不足すれば死んでしまう。
それに思い至ってメリューナは恐怖を覚えた。なんて馬鹿なことをしてしまったのか、と思う。『食事』をここまでおろそかにするなど。
ただ、それははっきり示していた。精気を得られないうちは、人間の振りをする生活はできない。これほど体に倦怠感が現れていて、じゅうぶんに動けるはずもないではないか。
どうしよう。
メリューナは深刻な問題に行きあった。
どうにかして、どこかからか、精気を得なければいけない。
けれどそのあては、まったくなかった。もしもここで精気を得るというなら、王宮の適当な男を襲うのが手っ取り早いだろう。
しかし、なにしろメリューナは劣等生である。いくらグライフから少々の手ほどきを受けたとはいえ、それを実践に移したことはまだ無い。うまくできる保証などなかった。
精気が足りなくてエネルギー不足になったとき持ち直す方法は、もうひとつある。それは、仲間のサキュバスから精気を分けてもらうというもの。
だがこちらは絶対に叶うはずがなかった。なにしろ今、メリューナは一人きりで人間の世界に居るのだから。仲間などそばにいやしない。
人間界で仲間に偶然会うということもないではないが、滅多にあることではないし、そんな幸運や偶然任せにできる場合ではなかった。
よって……メリューナは窮地のまま、八方塞がりになってしまったというわけだ。
どうにもできず、考えれば考えるほど絶望しか感じられず、外に出ていくことも出来なかったメリューナ。どのくらい時間が経っただろうか、ついに部屋のドアが叩かれた。
そこでやっと、はっとする。仕事に出ていかなかったからだ。体の倦怠感にとらわれて、そのことをすっかり忘れていた。
人間であるなら、なにか、誰かに伝えるのだ。風邪を引きましたとかなんとかだ。それにやっと思い至る。
叱られるだろうか。王宮から叩きだされるかもしれない。別のことが不安になった。
だが、最悪の事態にはならなかった。
重い体をなんとか起こして入り口に向かい、ドアを開けたメリューナ。そこにいたのはエマであった。半月を過ごすうちに、一番良くしてくれて、一番親しくなったともいえる存在。
「どうしたの? 朝、出てこないから心配したよ。具合でも悪い?」
言われた言葉はとても優しくて、また、やはりこれも貰ったことのないようなものだった。メリューナの胸を、ほわっとあたたかくしていった。
「え、ええ……なんだか、……。……頭が痛くて……動けなくて……ごめんなさい」
どう言い訳をしようか少しだけ悩んで、すぐに無難であろうことを言った。エマはなにも疑うことなどなかったらしい。
メリューナの様子が本当に具合の悪そうなものだったことも幸いしたのだろう。いや、実際具合がいいか悪いかと言われれば、相当悪いのであるが。
エマは眉根を寄せて、手を伸ばしてきた。メリューナの額に触れる。
「んー……熱はないみたいだけど……」
言われてメリューナの胸が、ひやりとした。嘘だとばれただろうか。
だが、エマはそうは思わなかったらしい。別のことを言った。
「偏頭痛かしら。昨日からお天気が悪いし」
お天気?
メリューナは不思議に思ってしまう。天気となにが関係あるのだろうか。そして『偏頭痛』という言葉も知らない。
「私のおばあちゃんも、雨が近付くと腰が痛いって言うよ。雨の日は具合が悪くなりやすいって。それかしらね」
その端的な説明で、メリューナはなんとなくわかった。『偏頭痛』というのは、どうやら天気の悪さによって引き起こされる不調のようだ。そしてそれは、そう珍しいものではないのだろう。
瞬時にそれを頭に巡らせて、メリューナは肯定しておく。少し付け加えた。
「そうかもしれないわ……疲れていたりすると、こういうとき頭が痛くなりやすくて」
その思考と返答はなにもおかしくなかったらしい。エマは心配そうな顔のままではあったが、うんうん、と頷いてくれたので。
「そうね。疲れてると具合も悪くなりやすいわよね。メリューナはここにきてから緊張続きだっただろうし……きっとその疲れが出たのもあるんだよ」
そう言ってくれて、あとはとんとん拍子だった。
「メイド長のミラさんに言ってくるね。ミラさんだって鬼じゃないから、今日は休んでいいって言ってくれると思うわ」
それでエマは一旦出ていって、そのあと、そのメイド長が来た。珍しく、はっきりと優しい気遣うような言葉をかけてくれる。
「疲れが出たのね」などと、エマとまったく同じことである。
そしてその日は休みを貰えることになった。実にスムーズであった。
「あとで誰かにお粥を持ってこさせますね。しっかり休んで早く治すのですよ」
ミラに言われてメリューナは「はい。ありがとうございます」と言っておいた。
とりあえずほっとした。いったんの猶予はできたことに。
そのあとお粥をもらい、ベッドに戻ったのだが……そこでやっとメリューナは再度、途方に暮れた。仕事に行かなくて良いのは助かったが、事態はなにも好転していないし、好転の希望もないのである。
精気を得ないと。
でもどうやって。
今の私にできそうなことなんて、ひとつもない……。
思考はどうあってもそこから進まない。
でもなにも思いつかないまま、闇雲に外に出ていっても無意味である。
ベッドに寝たまま、時折寝返りを打ちながら悶々とするしかなかった。
進退窮まったメリューナを救ってくれたのは……このときもまた、グライフだったのである。