誘惑指導レベル1
午後はグライフの私室の掃除を言いつけられた。初めてなので、ほかのメイド数人と一緒に、である。
またお掃除、と思いはしたものの、お茶の給仕をしたり、お裁縫をさせられたり、そういうことよりはずっと簡単であろう。人間の生活をしていない、つまり人間ではないことが露見する可能性はずっと低い。
グライフによって、『一時預かり』と言われていたことが幸いだったらしい。あくまでも『お手伝いメイド』として、失敗してもそれほどおおごとにならないような仕事しか言いつけられなさそうである。
そこまで見越した設定を口にしてくれたグライフはやはり、頭が回るのであろう。
あの方には感謝しないといけないのだわ。
教えられたとおりに、そっと棚や窓のほこりをはたきで拭いながら、メリューナは改めて噛みしめた。
本当なら、サキュバスとしての仕事が失敗した時点で叩きだされていてもおかしくなかったのに、魔力を失って帰り道を失ったにも等しい自分をかくまってくれているのである。感謝しかない。
ただ、どうして彼がこれほどよくしてくれるのかはわからなかった。親切なひとなのかと思っておくしかない。少なくとも今のところは。
一日の仕事を終えて、本当ならグライフ付きメイドとして、彼のお世話など色々とあるのだと聞かされたが、初日ということで免除された。そして一室に案内されたのである。
そこはメイドたちの暮らす、寮のような場所であった。住み込みで働くメイドたちは、ここで一人一室をもらって生活しているそうだ。
流石王宮、使用人にも一人一部屋とは。メリューナは感心してしまった。
部屋こそ大変こぢんまりとしていて、ベッドと小さなデスクがあってそれだけでいっぱいになってしまう、というくらいであったが、個室がある時点で使用人としては、破格の待遇である。
朝と夜の食事について教えられ、湯の使い方、衣服の扱い、私物……など、ほかにも生活に必要なことは一通り教えられた。
人間の生活をこれからしばらくしなくてはならないのだ。少なくとも、魔力が戻るまでは。
あまりに覚えることが多すぎて、メリューナは一日が終わる頃にはすっかり疲弊していた。
淫魔は眠る必要がないが、体を動かし続ければ当たり前のように疲れる。じっとしていて休息をとることは必要なのだ。
よって、与えられたベッドに寝転んで、ぼうっと天井を見上げた。木でできた天井。質素だった。
どうして自分は暮らし慣れた魔界、暮らし慣れた棲みかではなくこんなところで休息しているのだろうか。今更ながら不思議に思ってしまった。
昨夜からいろんなことがありすぎた。人間であれば即座に寝入っていたであろう。
考えることはたくさんありすぎた。これからどうするかは『ひとまず人間の振りをして、メイドとして働く』しかないのであるが。
なので、どうしたら魔力が戻るかなど、わかりもしないことに思考を巡らせるよりも、ひとまずは人間として、メイドとして上手く振舞うことを気にしたほうが良さそうだ、と思っておく。
ふぅ、と息をついてころりと転がる。服はすでに着替えていた。
メイド服は、いわば仕事着である。オフの時間まで着ている必要はない。
よって、朝グライフに与えられた藍色のワンピースを着ていた。やわらかくて着心地がいい。
そういえば、私の元々着てきたワンピースはどこへ行ったのかしら。確かグライフ……様のお部屋に置いてきてしまったはずだけど。
ふとメリューナはそれが気になった。
別になくて困るということはないが、無事魔力が戻ったらあれを着て帰るのだ。手元にあったほうがいいだろう。自分のものなので大切ではあるし。
むくりと起き上がった。グライフの部屋へ行ってみよう、と思う。
色々と助けられたのだし、今日の報告もしておくべきかもしれない。そう思ってメリューナは自室を出て、手探り、迷いつつではあるが、グライフの部屋のある騎士団の居住エリアへ向かったのであった。
朝から何回か行ったり来たりしていたので、グライフの部屋へはそう迷うことなく辿り着けた。こんこん、とノックをする。
中から「はい」と応答の声がする。メリューナは、ほっとした。
いらっしゃるのね。
「メリューナです」
名乗ったひとことだけで、「入れ」と許可の声が返ってきた。ドアノブをひねる。鍵はかかっていなかったので簡単に開いた。
「あの、……今日のお仕事、終わりました」
なにを言おうか一瞬悩んで、いきなりワンピースについて聞くのも無礼かと、まず今日のことを口に出しておいた。グライフは自身のデスクについていて、入ってきたメリューナを振り返る。
「ああ……まともにできたようじゃないか」
そう言われてメリューナはちょっと驚いてしまった。褒められるようなことを言われるとは思わなかった。
「そんなところに突っ立っていないで、こっちまで入れ」
「あ、は、はい……」
一応ドアは閉めていたけれど、確かにグライフの座っているデスクと椅子までは少し距離がある。メリューナは扉を閉めて、そろそろと歩みを進めてデスクのそばまで寄った。グライフがメリューナに視線を向ける。
デスクの上にはなにか、書類のようなものがあった。メリューナは、字が少ししかわからない。どんなことが書いてあるのかは、時間をかければ読めるかもしれなかったが、それがどんな書類で、どんな意味があるか、そういうことはわからないだろう。
グライフはその書類を読んで、別の紙になにかを書いていたようだ。使われていたペンとインクが置かれている。
もう夜で、当たり前のように窓の外は暗い。部屋のあかりはついていたけれど、デスクには小さなランプがあった。手元を照らすためだ。
間近で見る人間の生活の模様。ついそちらをじっと見てしまった。そんなメリューナの意識はすぐにグライフに引き戻されたけれど。
グライフは、ぎしっと椅子をきしませて、デスクからメリューナのほうを向いてくれる。書き物をする姿勢から、話をするのだろう、脚を組んだ姿勢になった。
「メイド長のミラから聞いたぞ。特に問題なく働いていたと」
そう言われてメリューナは、ほっとした。
問題がない、と言われるのは、初日にしては合格であろう。それで褒めるように言われたのだろうし。
「そ、そうですか。それなら良かったです」
メリューナが、ほっとしたのは伝わったようで、グライフは口角をあげた。面白い、と言いたげな顔になる。
「なにかやらかすと思っていたがな、無事に一日終わってむしろ驚いたぞ」
確かに自分は人間の振りをするなど初めてのことであったし、そうなっても不思議はなかった、とメリューナも思う。
なにか、人間ではないと疑われるとか。もしくは上手く仕事なんてできないとか。
その点に関しては、確かに上手くやれたわけだ。
「ありがとうございます」
メリューナは、ぺこりとお辞儀をする。
「馬鹿ではないのだな。サキュバスとしては劣等生かつ、ヒナに違いないが」
褒め言葉なのだろうが、ずいぶん乱暴な言われようである。メリューナは、ありがとうございます、と言うべきなのか悩んで、結局、笑いにも困り顔にもならない変な顔をしてしまった。
「まぁ、そのほうがいい。これからしばらくはこういう生活だろうからな」
それはそうだろう。メリューナとしては憂鬱なことであるが仕方がない。
今日、仕事が終わってから試してみたのだが、やはり魔力も使えなければ、翼やツノも出せなかった。その点は、なにも変わっていないようなのである。
早く帰りたいのはやまやまであるが、魔力が戻らないことにはどこへもいけないし、この生活をするしかないのだ。
「で、なにか用なのか。お前の仕事は本日終わりだそうだが」
やっと本題に入った。先程メイド長に話を聞いたと言っていたから、そのとき仕事が終わったと聞いたのだろう。
メリューナは、ほっとしてそのまま、ここへきた本題を口に出す。
「あ、は、はい。……あの。私のワンピースはどちらにあるでしょう。昨夜着てきた、黒いものです」
メリューナの疑問は、抱いても当然のものだっただろう。グライフはただ、ああ、と呟いた。
「そうだったな。この部屋にある」
しれっと言われたけれど、それは『返してくれる』というニュアンスではなかった。
「え、ええと……」
返してくれ、と言って良いものだろうか。メリューナは、しばし悩んで言い淀んでしまった。
メリューナが『返してほしい』と思っていることくらいはわかっているのだろう。またグライフはくちもとに笑みを浮かべた。
「自分で持っていたいか」
それは当然である。メリューナは「はい」と答えた。だがその返答はばっさり切り捨てられる。
「いや、俺が預かっておこう」
駄目だと言われるとは思わなかったメリューナは、目を丸くしてしまう。確かに、帰るそのときまでは着る機会もないだろうし、なくても困らないのは確かであるけれど。
でも自分の服なのである。大切であるし、手元に置いておきたくて当然。
メリューナの気持ちを察したように、グライフはメリューナがなにも言わぬうちに続けた。
「別にお前の服など持っていたいわけではないがな。逃げられては困る。魔力が戻っただとか、そういうときになにも言わずに逃げられてはな」
それは心外だったので、メリューナはもうひとつ目を見張ってしまった。そんなこと、考えもしなかったのに。
「そ、そのような無礼なことはいたしません」
慌てて言ったメリューナの言葉が本心からなのはわかってくれただろう。しかし許してはもらえなかった。
「そうだろうがな。しかしお前と出会って丸一日も経っていないのだぞ。お前のことなどほとんど知らん。一応、保険だ。別に始末などせんし、ここにあるのだから、かまわんだろう。それとも、帰らんがここで着るだとか、なにかに使うのか」
ずばずば言われたが、確かに正論である。メリューナがここへ忍び込んだのは、昨夜の夜半。夜も更けてから。
昨夜から今日、一日。色々ありすぎて感覚が麻痺したようになっていたが、そういえば丸一日も経っていなかった。
メリューナがグライフのことをほとんど知らないのと同じ。あちらからもメリューナのことはほとんど知らないのである。
「……いえ」
メリューナはそう答えるしかない。口ごたえをしないのはわかっていた、とばかりにグライフは「ではおとなしく預けておけ」と言った。
でもまぁ、預けておいても困ることはない。部屋に置いておいてくれるのであろうし、帰るときに返してもらえばいいのだ。自分で言った通りに、お礼も言わずにここを去るなんて無礼なことをするつもりはなかったのだし。
「ほかに用があるか」
グライフは急かすようなことを言った。もう帰れということだろうか、とメリューナは心配になった。
なにか、書き物をしていたようだし、これも仕事なのかもしれない。
それであれば邪魔をするのも悪い。そもそも自分がここに置いてもらっているだけで、ある意味邪魔をしているようなものなのだから。
「いえ。では、おいとまを」
言いかけたそのとき。グライフが突然動いた。メリューナの手を掴む。
手といっても手首であったし、握りしめられたわけでもないのでそう痛くもない。けれど驚きはした。また目を丸くしてしまう。
「本当にお前はヒナだな。男の私室に夜、押しかけてきておいて……仮にもサキュバスだろう」
言われた意味がメリューナにはわからなかった。どうして今、ヒナだと揶揄されるのだろうか。
「これもなにかの縁だ。ヒナをひよっこくらいにしてやってもいいぞ」
「……はぁ」
言われた言葉はまたもよくわからなかった。変な声を出してしまう。
メリューナのその反応には苦笑された。また『ヒナ』だとか思われたような表情である。
「ま、いい。気長に付き合ってやるさ。とりあえず……」
すっと、グライフの手が動いた。メリューナの手首から腰に手が移る。
腰を抱えるように腕を回された。メリューナは違う意味で目を丸くしてしまう。
そのまま引き寄せられるようにされ、ふらっと体がかしぐ。バランスを崩してしまった。
「きゃ、」
変な声が出て、それだけでなく前につんのめっていた。しかし倒れることなく、グライフはそんなメリューナを軽々と受け止めた。ぼすっと音がして、体がぶつかる。
「これも駄目なのか。ここはお前からも身を寄せて、抱きしめられるところなのだがな」
言われてようやく思い当たった。確かに人間の恋人同士であればそうするだろう。
けれどメリューナはサキュバスである。夜に男性を襲うとはいえ、『恋人同士』というものとは違うのだ。あまりこういうことには慣れていない。
まぁ、こういうこともなにも、襲うことすら遂行できていないのだし、なんなら知識すらないといえた。メリューナ本人には『知識がどうやらたりないようだ』くらいの認識しかなかったが、とりあえず。
「まずは少しかわいげを学んだほうがいいな。ベッドの上で出逢うなり『こんばんは』などと言わぬようにな」
グライフは、くつくつと笑う。密着しているので、その胸が動くのが伝わってきた。
笑われたのもそうであるし、昨夜の自分の醜態について言われるのもどうも恥ずかしい。どうやらたいそう間違っていたようだし。
「か、かわいげ、とは」
馬鹿のように聞いてしまったが、もうグライフは散々思い知ったようだ。メリューナの無知さについて。
そこを笑うことなく、代わりにするっと手がすべった。メリューナの腰を撫でる。
このようなところを撫でられるのは初めてであったが、女性の体、それもサキュバスという淫魔の体である。ぞくっとするような感覚が体に走った。
しかしなにも声が出ない。反応も思いつかない。ただ、よくわからない感触と感覚に、じっとしているしかなかった。
嫌だと思う気持ちはないが、反対に、積極的にどうこうしたいだとか、あるいはされたいだとか。そういう気持ちも浮かんでこない。
「こういうときはだな、身を寄せるのだ。こうして」
腰からまた手が移動した。メリューナの手を掴む。自分の体に回すようにさせた。
戸惑いはしたが、困りはしない。メリューナは導かれるままにグライフの背中に腕を回す。抱きしめるように力を入れた。
「そうだ。そういうふうに」
より密着したので顔は見えないが、グライフの満足げな声がした。これは間違っていなかったらしい。
ほっとすると同時、なんだか緊張を感じてしまった。ひとの体の感触もそうだし、ほのかに伝わってくる体温もそうだし、そしてグライフのものだろう、なにかの香りもする。
不快ではないが、メリューナの鼓動を速めるような感覚ばかりだった。
サキュバスとはいえ、いきものに違いはない。こういうふうに触れ合えば、人間と同じ、ではないが、似たような感覚を感じて当然だ。
意識しないうちに、腕に力をこめて抱きついていた。あたたかさがもっと強くなる。あまり厚着をする季節ではないのではっきり伝わってきた。
思わず息が零れていた。ほぅ、と息をつく。
「なかなかいいじゃないか。そういう反応が『かわいげ』だ」
今度の言葉も満足げだった。
向こうからもメリューナの体を抱いてくれていた。腰から背中を引き寄せられて、軽く力をこめて抱きしめられている。妙に落ちつくような感覚だった。
グライフはなかなかの長身ゆえに、椅子に座った姿勢でも簡単にメリューナを抱きしめられてしまうらしい。体勢に無理はほとんどいらなかった。
その手がやがて動いた。再び腰を撫でる。メリューナの体にも再び震えが起こった。
ここを撫でられると妙な感覚がする。ただ体に触れられているだけなのに。
確かに触れられることは慣れないけれど。それでかしら。メリューナは呑気にそう思った。
藍色のワンピースの上から腰をさすり、上のほうへ撫で上げ、背中の背骨を、するっと辿られたときには思わず声が出ていた。
「ひゃ……!?」
ひっくり返ったメリューナの声。それには苦笑が返ってきた。抱きしめられているので、顔のすぐ横で。
顔は直接見えないけれど、きっと苦笑の表情が浮かんでいる。
「おいおい、色気のないことだ」
「だ、だって、変な感じがしまして……」
メリューナの返答には、今度違うような言葉が返ってきた。
「変な感じとは、どのようなものだ」
色気がないと苦笑されたのだから、またヒナだの劣等生だの言われると思ったメリューナであったので、きょとんとしてしまう。そこを追及されるとは。
そんなメリューナをグライフは促してくる。
「馬鹿ではないのだろう? 表す言葉くらいあると思うが」
馬鹿ではない、は、グライフの言葉なら一応褒め言葉のようだ。手放しでは喜べないが。
「え、ええと……」
メリューナは思考を巡らせる。この感覚を言葉にするなら……。
「背筋が震えるようなといいますか、そこから体の芯が痺れるような」
考え、考え、言った。口に出したそれは、まぁまぁ的確であったと思う。
だが、及第点ではなかったようだ。
「まぁ……間違ってはいないが。色っぽい回答ではないな」
そう言われてしまった。
色っぽい回答。それがメリューナにはよくわからない。
「ではどう言ったら……」
馬鹿正直に質問してしまったが、一応これは教授である。教師に質問するようなもの。グライフは今度、揶揄することはなかった。
「そうだな……。例えば言葉でなくともかまわん。吐息を零すだとか、そういうものでもいい」
「はぁ」
気の抜けた声を出してしまう。
吐息。メリューナにとっては深呼吸のようなものが浮かんでしまったのだ。
でもそれとは違うのだろうということは流石に察した。そんな『吐息』をついてしまったら呆れられてしまうだろう。
「うっとりとしたような……。綺麗なものを見たときに出るようなもの、感嘆に近いか」
なるほど。そういう意味の。
メリューナは納得して、早速実践してみた。自分からグライフの胸に顔を寄せ、先程の感覚を頭に描いて、息をついた。
「……はぁ……っ」
吐息は自分で思っていたものよりずっと甘くなった。尾を引くような、それこそ『うっとり』といった表現がぴったりくるような。
メリューナ本人はまるで理解していなかったが、それは甘ったるくて官能的な声であった。
もはや、腰を撫でた程度で出るようなものではないほどの。
それに反応したように、グライフの体がびくりと震えた。メリューナのほうが驚いてしまう。思わず顔をあげていたくらいだ。
グライフは細い目を丸くしていた。
「……なんだ。素質はあるのだな。教えればできるものじゃないか」
それははっきり褒め言葉であったので、メリューナはまた驚いた。
「え、……あ、ありがとうございます……?」
でもすぐに嬉しくなった。成功したのだ。及第点だ。
ひとつ覚えることができた。単純にそのことが嬉しい。勿論、褒められたこともだ。
「触れられたときには、こういう声で反応するといい。男を煽るのに効果的だ」
メリューナは、ぱっと顔を輝かせてしまった。
「はい! わかりました!」
しかしグライフはそのメリューナの言葉には、一転してまた苦笑になってしまう。
「勉強を教えてもらったような子供のような返事をするんじゃない」
「あ、す、すみません……」
メリューナも一転して、しゅんとしてしまう。
返事が場違いすぎたらしい。また呆れられてしまった。自分はまだまだのようだ。
「まぁいい。ヒナだからな、おいおい」
グライフは独り言のような声で言い、そして不意にメリューナの体を押し離した。急に離されてメリューナはちょっとよろけて、でも今度は倒れることなくちゃんと立った。
「さ、『お勉強』はおしまいだ。俺はまだ仕事がある。帰れ」
終わりは呆気ないものだった。メリューナが数秒、ぼうっとしてしまうような。
「あ、……はい。ありがとうございました。おいとまいたします」
しかし、グライフがこれでおしまいだというなら、メリューナからも「もっと」と言う理由もない。おとなしく一歩引いて、お辞儀をして言った。
「ああ。おやすみ」
しかし言われた言葉には違う意味で驚いてしまう。
「おやすみ」なんて今まで言われたことがない。
勿論、どんな言葉かは知っている。人間同士が眠る前にする挨拶だ。
けれど自分に向けられることは一度もなかったので驚いてしまったのである。
「あ、……はい。おやすみ、……なさいませ」
驚きつつも、ここで『挨拶も出来ない』と思われるわけにはいかない。メリューナは自分でもそう言い、言ってから『丁寧な言葉遣いではこうするものだ』と思い至って付け加えた。
それは間違っていなかったようで、グライフは特になにも言わなかった。デスクに向き直ってペンを手に取る。
メリューナは、そろそろとデスクを離れた。そして部屋のドアへ向かい、ドアノブを掴んで開けて、音がしないようにそうっと開けて、閉めて、おいとました。
部屋を出てから、はぁっとため息をついてしまう。今度はさっきのようなものではなく、純粋な、緊張からのため息であった。
やれやれ、大変だったわ。
心の中で言う。胸元をそっと握った。
ワンピースのことを聞いて、出来れば返してもらって自室に帰るだけのつもりだったのに、なんだか妙なことになってしまった。
サキュバスとしての反応の教授など。こんなことを教わるとは思わなかった。
だいぶ緊張したし、初めての経験であったし、そして初めて感じる感覚や感触であった。
……どうも気疲れしてしまったわ。
そんなことを思ったメリューナは、やはり呑気で『ヒナ』なのであった。
自身の胸の高揚はまだ、そのような原因で起こっているとしか思えなかったのだ。
早く帰って休みましょう。一晩じっとしていれば疲れも回復するわ。
そう思って、自室へ向かって歩き出した。
でも、サキュバスとしての理想的な姿や反応なんかを教えてもらえば、この後役に立つかもしれない。
ある意味前向きなことを考えた。
魔力が戻って、魔界に戻れて、またサキュバスとしての生活に戻れたら。
獲物を襲い、精気を得るのがずっと楽になるだろう。そうすれば、サキュバスとしてだって上手く仕事ができるはず。
そういう意味ではグライフに感謝しなくてはいけない、と思った。
そして思った。
教えてくれるというなら、ちょっと真面目に取り組んでみましょう、と。
そんなことを思ったメリューナは、何度も繰り返すがやはりサキュバスのヒナに違いないのであった。