メイドの初仕事
「メリューナと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
自身に与えられたものと同じ、黒いワンピースに白いエプロンのメイドたち。ずらりと並んだメイドの彼女らの前でメリューナはそう名乗ってお辞儀をした。
全員ではないが、彼女らがこの王宮のメイドたちだそうだ。すっかり日ものぼっているので、既に仕事に出ている者も多く、全員は集まらないのだとまず聞かされていた。
例の待機室へ行ったメリューナは、年配の女性のメイドに引き渡された。男性の使用人とは使われ方、つまり与えられる仕事が違うらしい。
メリューナを連れてきた彼女は、メイド長だそうだ。この王宮のメイドたちを統括する立場で、つまりこれからはメリューナの上司ということになるだろう。
優しそうな雰囲気ではあるが、体型からするからに、どっしりとしている彼女。ミラと名乗った彼女によって、メリューナは簡単に紹介された。
「グライフ=ヴェーラー様のご親戚だそうです。グライフ様に一時預かりされているのだとか」
グライフ、という名が出たところで、並んでいたメイドたちが、少し顔を見合わせた。なにやら色めきだつ、ともいえるような表情を交わす。
メリューナには当たり前のようにその意味はわからなかった。人気のある方なのかしら、くらいしか想像ができない。
「メリューナさんはずっとこちらにいらっしゃるわけではないですが、皆、色々と親切にしてやるのですよ」
はい、はい、といい返事が返ってくる。歓迎されている……かは、わからないが、受け入れてはもらえそうではある空気に、メリューナは、ほっとした。とりあえず、邪魔にされることはなさそうだ。
小狡い思考ではあるが、グライフが人気のある立場なのだとしたら、その身内であるという設定の自分も、少なくとも酷い目にあわされたりとか、そういうことはなさそうだ。そのようにも思った。
「メリューナさんも、わからないことがあればわたくしや彼女たちに聞くのですよ」
ミラはそう言ってくれたが、それは優しさからではなかった。
「ミスをなさったら、王家の方々に迷惑がかかることもあるのですからね。そう重要なことは申しつけませんが、心していただかないと」
メリューナに釘を刺すような言葉だった。
そうだ、ここは王宮。王族が住む屋敷なのだ。
一時的なメイドなのだから、王家の方々と直接接したり、そういう重要な仕事を与えられることはないだろう。自分はグライフ付きのメイドということにされているし。
「は、はい。気をつけます」
殊勝に返事をしたメリューナであった。
そのあとはメイドたちが順繰りに名前を名乗ってくれ、そして今日の仕事の話になった。
ここにいるのは騎士団人員付きのメイドの一部だそうだ。なので騎士であるグライフ付きのメイドということになったメリューナはこちらへ寄越されたのである。
昨夜のメリューナに知る由はなかったが、メリューナの忍び込んだ場所は、騎士団のメンバーが寝起きしている私室の集まるエリアであった。最初から王太子の住むエリアへ入っていけなかった時点で既に、劣等生なのであった。
そして今日与えられたのはメイドの仕事の基本ともいえる、王宮の清掃であった。私室の掃除はおこなうが、まずは公共のエリアからだそうだ。つまり、廊下や窓、そして手洗いなど。
いきなりお掃除をして来いとグライフの私室へ放り込まれても、どう手を付けていいかわからなかっただろうことは予想できたし、『皆でおこなう清掃』を申しつけられたことで、メリューナはちょっとほっとした。
掃除の仕方などわからないし、皆でおこなうとなれば教えてもらえるだろう。そうでなくても、周りの子たちを見て、同じように動けばいいのである。
そう思って、メリューナには「こちらよ」と言われるがままに、ついていった。
メリューナは指示されるがままに何人かのメイドたちに連れて行かれて、掃除用具を持ち出し、言いつけられた持ち場である廊下に着いた。
「メリューナさんは、おうちでお掃除などして?」
一人のメイド、このエリアの中ではチームリーダーともいえる立場だろう。長い黒髪を流したメイドが言った。
質問に、メリューナはここまで考えてきた自分の設定に頭を巡らせる。
グライフの遠い姪ということになっている。そして一応、貴族のはしくれであるという設定にもなっている。よって、答えはこうだろう。
「え、ええ……おうちのお掃除はあまりしないのですけど、自室や使う場所くらいはお掃除します」
勿論嘘であった。サキュバスが掃除などするわけはないではないか。
でも別にいいだろう。掃除のやり方は教えてもらえるのだろうし、「やり方を知らない」ととがめられることはないはず。自分でしゃべる設定に矛盾ができないように気をつければいいのだ。
「そうですのね。ではなんとなくはおわかりになるかしら。この廊下の清掃は、まず上のほうの窓を拭いて、そこからカーテンを、そして最後に床を……」
彼女が簡単に手順を説明してくれて、メリューナは拭き布を与えられて窓を拭くことになった。
瓶に入った液体も与えられて、これを布につけて拭くのだと教えられた。瓶の液体は、下のほうに粉のようなものが沈殿していて、これは重曹で、一応溶かしているのだが下に溜まりがちなのでたまに振って使うようにと言われる。
そう言われても、重曹がなんなのかだとか、どうしてそれで拭けば窓が綺麗になるのか、ちっともわからなかったが、特に重大な問題でもないだろう。メリューナは、にこっと笑って「かしこまりました。ありがとうございます」と言っておく。
そしておのおの散ったメイドたちに混ざって、窓を拭きはじめた。はじめは勝手がわからず、おそるおそるになる。
ガラスがすぐに割れてしまうのではないかとは思わなかったが、かといって、どのくらい力をこめたら危険なのかもわからない。はじめはそっとしておくに限る。
そろそろとガラスに布を滑らせていたが、そこへ誰かがやってきた。
「そんなふうに撫でててもくもりは落ちないよ! こうして、きゅっきゅっとやらないと」
彼女は明るい声で言って、「こう!」と、実践してみせてくれる。明るい茶色の髪をうしろでまとめている、見るからに快活そうな子だ。
「ありがとう。あまり慣れていなくって」
「貴族の娘さんなんでしょう。それはそうよね」
お礼を言ったメリューナに彼女は、にこっと笑った。そして「私はエマ。よろしくね」と名乗ってくれた。気さくに声をかけてくれたことにメリューナは嬉しくなる。
「さっきご紹介されましたが、メリューナです。どうぞよろし……」
「ああ、いいのよそんなかしこまらなくて」
エマという彼女は、手を振ってそれを制した。「手を止めてると叱られるから」と窓を拭く仕事には戻ったけれど、そのあと隣で色々と話してくれた。
「メイド長のミラさんはおしゃべりをしてると怖いんだけど、ここのリーダー、黒髪のひとなんだけど、ソフィさんはそんなに厳しくないからね。そりゃサボったら怒られるけど」
「そうなの」
興味もあったし、この屋敷での知識は仕入れておくに限る。メリューナは渡りに船とばかりに、エマの話に耳を傾けた。エマは見た目通りにおしゃべりなようで、メリューナは相槌を打つことが多かったというのに、自分から色々と話してくれた。
この王宮のこと、メイドたちのこと、毎日の仕事……。
次から次へ、窓を拭きながら廊下を進んでいくうちに、ふとエマが言った。
「メリューナさんは、グライフ様のご親戚なのよね?」
設定について聞かれたので、メリューナは頷いておく。
「ええ。少し遠縁なので、あまり行き来があるというほどではないのですが」
慎重に答えた。グライフのことについて聞かれては困る。彼のことなどほとんど知らない。
むしろ昨夜飛び込んでいった自分よりも、ここで働いているエマのほうが彼のことを知っているくらいだろう。それ以上の知識がないと露見してしまっては大変だ。
「そうなのね」
そんな立場のメリューナが、一体どうしていきなりグライフに預けられたのかというのは謎であろうが、普通の人間なら、初対面の相手にそうずけずけと質問しないもの。メリューナはそう踏んだのであるが、そのとおりになった。エマはそんなに不躾な子ではないようだ。それに助けられた形になる。
「でも羨ましいな。グライフ様がおじさまだなんて。騎士団長様のご親戚だなんて鼻が高いでしょう」
……えっ。
流石に声に出すのは踏みとどまったが、窓を拭く手が滑りそうになるくらいには驚いた。
騎士団長? グライフが?
表に出さないようにとすぐ気を引き締めたが、心臓がどきどきするのはどうしようもなかった。
そんなことは聞いていなかった。失礼かもしれないが、一騎士としてしか思っていなかったのだ。
そもそも、サキュバスであるメリューナに人間の身分を気にする気持ちはないのであったし。
いや、あるにはある。美味しい精気を得るには身分の高い人間を狙ったほうが良いので。
けれど、昨夜のメリューナはグライフをターゲットにやってきたのではないのだ。あくまでも王太子を狙ったところを間違えて入ってしまったにすぎない。
なので、彼の身分など考えもしなかった。
けれど、考えてみれば確かにそうである。居室は最初から豪華だったと思っていた。人間の暮らしには詳しくないメリューナが「これが王太子の部屋ね」と納得してしまうくらいには。
それはつまり、身分のある人間だから良い部屋に住んでいたということだろう。ここまでそれに思い至らなかった自分を後悔する。そのくらい知っていなければいけなかったのに。
「そうですね。自慢の叔父です」
数秒空いてはしまったが、なんとか、にこっと笑ってそう言えたメリューナは、なかなか上手くやれたといえるであろう。
「騎士の家系でもないのに一代で身を挙げて、弱冠二十七歳にして異例の騎士団長就任ですものね。私たちから見ても勿論、羨望の的なのよ」
一代で立身。
二十七歳。
メリューナにとっては重要な情報ばかりであった。
ここでやっと、グライフの身内だと紹介されたときの、メイドたちのざわめきを理解する。そういう、いわば『仕事のできる男』『身分ある男』の身内なのである。それはエマが言ったように羨ましがられるだろう。
なるほど。なるべく驕ったところを見せないようにしないと。
メリューナはそう心に言い聞かせておいた。
エマとおしゃべりをしていたほうが長いかもしれなかったが、一応窓拭きも終わって、そのあとは床を掃いたり磨いたりした。それで午前中はおしまい。使用人たちの部屋で昼食となった。
食事はあまり気が進まなかった。メリューナはサキュバスなので、精気のほかは、いくら食べ物を食べてもなんの栄養にもならないのだ。
けれど、幸い毒ではない。害はないのだ。
気は進まないけれど、食べなければ怪しまれるに決まっている。少食であるとか言っておこう、とメリューナは決めて、食事を受け取って、見よう見まねで食べた。
ナイフとフォークの使い方は、人間の世界を見てきて長いので見知っていた。そして人間の食べ物も、単なる好奇心からであったが、少し口にしてみたことがあった。なので、有名な料理くらいはわかっているといえるだろう。
口にした料理は豚肉のソテーにボイル野菜、そしてパンやスープなどといった、質素なものであったが、仮にも王宮の食事である。食材の質が良いらしく、美味しかった。
そう、美味しかったのである。特にメリューナの栄養にはならないものなのに。
これなら食事の時間もそう苦ではなさそうね。
初めての『人間としての食事』はするりと済んでしまって、メリューナは安堵したものである。