グライフの話
メイドによってお茶を出され、メリューナはとにかくそれをひとくち飲んだ。お茶はあたたかく、美味しかった。
人間界でもお茶はたくさん飲んだが、魔界のものは少し違う。素材も製法もまるで違うのだから当然だが。メリューナにとっては慣れ親しんだ味だ。
お茶を飲んで少し、ほんの少しだけ落ちついて、メリューナは、ほうっと息をついた。体の奥があたたかくなる。
グライフはお茶を持たせるだけ持たせて、自分では飲まなかった。
「美味いか」
メリューナに尋ねてくるので、メリューナは頷いた。
「はい、とても」
「それは良かった」
肯定したものの、グライフはため息になってしまう。
「このような形で茶を飲むことになろうとは思わなかったが」
それは本題へ入ろうとしているという言葉だった。メリューナはティーカップをテーブルのソーサーに戻した。かちりと陶器が音を立てる。
「グライフ様は、人間ではなかったのですか」
とりあえず一番の謎を口に出した。グライフはあっさり頷く。
「ああ。人間ではないどころか、魔なる者を統括する魔王と呼ばれているな」
「そう、なのですか……。……」
言われてしまってはそうとしか返せない。では王宮での騎士団長という立場はなんだったのだろう。
「ではどうして人間界、それも王宮で騎士団長などをしていたのかと問いたいだろう」
「はい」
すべて……かはわからないが、メリューナの疑問のいくつかについては説明してくれるのだろう。お茶を前にして、グライフは話しだした。
グライフが人間界へ向かったのは、そう昔のことではない。
ただし、魔界の時間の基準で、である。魔界と人間界では時間の流れに相当の差がある。
メリューナもそうあるように、魔なる者は、年齢と見た目が必ずしも比例しない。メリューナとて、人間の若い女性の姿をしているが、もしも人間であったなら、この容姿はとっくに老いているほどの年月を生きている。
人間界にして十年ほど。しかし魔界では一瞬にも近い。半悠久のときを持っている魔界。
そんな微々たる時間なのだから、魔王自らが人間界へ行ってしまっても問題はないらしい。そのあたりは同じ時間感覚を持つメリューナにとっては、すんなり呑み込めた。
ただ、どうして騎士団長なのかはわからなかった。それはそのあと説明された。
「魔界の者も生きるのにはエネルギーを必要とする。例えばお前は淫魔だろう。人間の精気がエネルギーだ。ほかの者も同じだ」
そこからはじまった。魔界の者、というか、もう少し範囲を広げて語れば魔界全体の問題だそうだ。
魔界を維持するのには強大な魔力が必要になる。魔王たるグライフはそれを勿論、持ち合わせているそうだが、魔力を広範囲にいきわたらせ、世界を繋ぎ止めなければならない。
それにはやはり膨大なエネルギーが必要なのであって。その調達に人間界へと向かい、しばらく過ごしていたそうだ(これはやはり『魔なる者』としての時間感覚である)。
手っ取り早くエネルギーを調達するにはやはり人間の多く集まるところが効率的だ。よって、王宮を選んだというわけ。
ただし、人間を殺めてしまうわけにはいかない。魔界と人間界は別々であるべき存在。互いの世界になるべく干渉しないのが理想的だ。
と、いっても魔なる者は人間の精気などからエネルギーで生きる者が非常に多い。関係は切って切れるものではない。
人間から精気を得るのは必要。ただし、得すぎて人間界を崩壊させてはいけない。
そのためにも人間が多いところが理想的なのだ。個人から少しずついただくだけだとしても、人間の数が多ければそれを補うほどの量が手に入る。
グライフはその手段を用いて、騎士団や王宮の人間たちから精気を少しずついただいていたというわけだ。騎士団長になったのはこちらも打算的な話だが、視察など、つい先日あった仕事のように、堂々とたくさんの人間の集まる場所へ行ける、という理由。身分があれば、多少の勝手も通るので。
よって元々達者であった剣の腕と、人間には持ちえぬ半悠久の時間を武器に、騎士団長という地位までのぼりつめた。魔界で魔王であった人物に、ひとの上に立つことなど簡単な話。あっさりとコトは進み、王宮で正体を疑う者もいなかった。
やすやすと大量の精気を得ることができたグライフは、その精気を魔界へ送り込み……それを使って、魔界という世界を維持していた。
「生活としてはこのように順調であったのだがな」
そこで話はひと段落した。ふぅ、とため息をついてグライフはやっとお茶のカップを手に取った。
しかしお茶はすっかり冷めてしまっている。グライフはもう一度ベルを手に取って鳴らした。すぐに先程のメイドが新しいお茶を持ってくる。
メリューナのお茶も取り換えてくれたので、メリューナは少々戸惑いながらお礼を言った。王宮で過ごした、約一ヵ月。メイドという下働きの立場であったので、ひとにお茶を淹れてもらうなどずいぶんなかったことだ。
そして思った。自分はサキュバスとしての力を取り戻し、無事に魔なる者に戻れたらしい。
しかしその自分がどうして魔王の城などというところに連れてこられたのか。それは不明だ。
それも話してくれるのだろうが、ひとまず今はお茶である。メリューナは「いただきます」と改めて言い、お茶をひとくち飲んだ。やはりほかほかとあたたかく美味しかった。
互いにお茶を飲んで、ひと息ついて。話は再開された。
「そこへお前がやってきたわけだ。仮にも夜這いをかけにきたというのに、王太子と間違えたうえに、いきなり『こんばんは』などとな」
「それはもう……よろしいでしょう」
からかいたかっただけであるらしく、グライフはくつくつと笑った。なんとなくいつもの雰囲気に戻ったように感じた。
それはメリューナを安心させてくれた。状況もわからなければ、唐突に元のサキュバスに戻れてしまったという戸惑いもある。
その中でグライフのこの笑みが変わらないこと。それは彼がまったく別の服を着て魔界という場所にいようとも同じらしい。
はじめはからかうような色に、ちょっとむっとしたりもしたものだけど。それは彼なりの親しみからのものだともうわかっているので。かえって安心してしまうのだろう。
「そうだな、ヒナ時代の話はともかく……どうも、あそこで気まぐれに精気を恵んでやったことが問題だったらしいのだな」
「……あれが?」
初めてグライフの部屋へ(間違えてであるが)忍んでいったとき、確かに精気を恵んでもらった。とても美味しかった精気。とても元気になることができた。あれが問題だったというのか。
「俺の持つ精気に宿る力が強すぎたということだ。そのせいでお前の魔力が一時的に出せなくなってしまったというわけだな」
「なるほど……」
確かにそれは納得のいく理由だった。魔王の魔力、精気ともなれば強大であって当たり前。一サキュバスでしかないメリューナには刺激が強すぎたというわけだ。
そして、メリューナが人間のように、眠ったり食事から栄養を得たり、そういう状態になってしまったのも同じだろう。
ただし、それは一時的なものだったらしい。荒療治と言われたが、あのワインを舐めてしまったことで魔力は取り戻せたのだから。
それに関しては安心した。人間になって生きていける自信など持ち合わせていなかったので。
「俺のほうも、人間界でほかの存在に精気を与えるというのはそうそうない出来事だったのでな。少なくとも王宮でおこなったことはない。そのために、取り寄せて飲んでいた薬膳酒……ああ、わかっているだろうが、あのとき言ったように、本当に薬草やハーブでできているわけではないぞ、念のため」
「そう、なのですね」
「人間でいうところのそういった種類の酒、というだけだな。言葉としては。滋養強壮なのは確かだ」
ほんの少しだけ話がそれたが、すぐに戻ってきた。
「まぁ、そのために薬膳酒の摂取が少し足りなかったというわけだな。一度不調が出てしまったのはそれだ。迂闊だった」
メリューナはあのときのことを思い出した。演習場でグライフが倒れたとき。心臓が冷えてたまらなかった。とても恐ろしかった。この方が死んでしまったらどうしようと心配で。
そのときはグライフがただの人間であったためにそう思ったのだが、このひとがいなくなったら嫌だ、と思う今も気持ちは同じだと思う。命に危険はなくとも、不調であったのは確かなのだ。
しかし、それでもグライフは自分に精気を与えてくれていたのだ。その事実に胸が熱くなってしまう。
なんだか、大切にされているような気がしたので。
だってグライフにとって自分は赤の他人なのだ。それどころかお荷物だ。放り出してしまってもかまわないだろうに、面倒を見てくれたうえに、生き長らえさせてくれて。
それは確かに、大切にされている、のだろう。
それがどうしてなのかはわからないが。
「お前が口にしたワインもそうだ。あれは薬膳酒よりも強い力を持つものでな、人間の血が配合されている。お前なら味でわかったかもしれないが」
「はい、血の味が……しました」
あの味を思い出して、ちょっとぞっとした。
魔なる者の中でも、たとえば吸血鬼など、人間の血を糧に生きる種族は存在する。
けれどメリューナはそういう種族ではない。なので、人間の血液を飲んでしまったというのは少々恐ろしい。
「それで、俺の精気で魔力を失ったのと同じだ。強い力で殴られたようなものだな。強制的に魔なる者に引き戻す効果があったというわけだ」
これでメリューナのサキュバス事情についてはひと段落した。すべて理解できてすっきりしたメリューナであった。
魔力がなくなったのは不安であったが、はっきりとした理由のある出来事であったのだ。そしてあのワインを飲んでサキュバスに戻ることができたのは、多分良いことだったのだろう。
……多分。
どうしてサテュロが自分にあれを飲むように仕向けてきた、つまり、サキュバスに戻るよう促してきた理由はわからなかった。なので、手放しでは喜びきれない。
話はそこでひと段落した。メリューナはカップに手を伸ばした。お茶はまだほのかにあたたかい。
テーブルの向こうでもグライフがお茶を口にしていた。
この状況は、それなりに説明を受けた今でもよくはわからない。今までは自分が給仕をしてグライフ一人でお茶を飲んでいたのに、と思う。
王宮では明確な身分の違いというか、そういうものがあったので当然ではあるのだが。
今はここ、魔界では魔王と一サキュバスという関係性になってしまったらしいが、やはり統治されている存在ではないので、敬うべき存在ではあるのだが、配下ではない。
どちらにしても微妙な関係であるのは確かである。