カラスとワインと血の味と
騎士団が留守の間、幸い王宮は平和だった。元々インフェール王国は平和な国なのだ。現在はほかの国とも対立しておらず、良好な関係を築いているようだ。
その証拠に、王宮にやってくるお客も穏やかな来訪ばかりだった。
管轄領の領主、そこに暮らす貴族、それらの使いの者。そのような人々。
メリューナはメイドとしての仕事に慣れてからは、たまにそれらの方々をちらりと拝見するような場に行くこともあった。
直接のご挨拶や給仕などとんでもないけれど。そういうものはメイドの中でも歴や実力のある者、たとえばメイドチームのリーダーのソフィくらいの立場にならなければさせてもらえないのだと、エマが言っていた。
よって、メリューナたちに言いつけられることも、なにか必要なちょっとしたものを持っていく、だとか、あるいはお迎えのために玄関やお部屋に並んでいろだとか……その程度だった。
しかしその中で一度、メリューナは王族の方、そう、その中でも本来の目的であった『王太子』を近くで目にできた。
グライフと間違えてしまった、例の王太子である。彼の容姿について聞いており、絵画を見、その知識程度であったので、特徴の似ていたグライフを、この方が王太子なのだと間違えてしまったわけであるが。
そのとおり、黒髪に琥珀色の瞳を持ち、そして年頃もグライフと同じくらいであった。言葉で表す特徴だけなら同じといえなくもない。
けれど血族でもなんでもないのだ。実際に目にした『フィデリオ』という名の王太子は、まるで似てはいなかった。
特徴の伝聞や絵画だけでは不十分だったのである。メリューナは今更、自分のサキュバスとしての仕事がどんなに甘かったかどうかを思い知った。
一度、下見に忍び込むなりして、ターゲットをしっかり確認していればよかったのだ。そうすれば今のような事態にもなっていなかったかもしれない。と、今となってはどうしようもないことを悔やんでしまう。
しかしそれは人間の生活や仕事を体験して、そういう下調べや準備というものの大切さをよく知ったからかもしれない。
仕事をするには準備がいる。それはなんであってもそうだ。
掃除であれば道具の用意。水を汲んだり、例えば窓を磨くなら、ほこりを落ちやすくするべく事前に軽くはたきで払ったり。
そういう小さなことが必要で、上手く遂行するコツなのであった。
そういう意味では人間の振りの生活も悪くはないとメリューナは思うのだけど……当たり前のように、呑気にいい経験だった、なんて言える状況ではない。
それでもやはり日々を続けるしかない……と、思われた。
が、メリューナの状況は不意なことからがらりと変わってしまった。
それはグライフが留守の間。私室を掃除しておくためにお邪魔した、そのときの出来事であった。
「お邪魔いたします」
部屋の主は不在であるけれど、メリューナはきちんとそう言い、中に入ってからもお辞儀をした。掃除道具の入ったかごを手にして奥へ進む。
今日は一人での仕事だった。もうすっかり慣れたのだ。グライフ付きのメイドとして、日常の彼の部屋の掃除くらいなら一人で任されている。
それに今はグライフが不在。部屋が汚れることも特にない。よって、日々の軽い掃除だけで済む。一人であろうと、一時間もあれば終わってしまうだろう。
さて、どこから手をつけようかしら。少しだけ部屋を見回したけれど、掃除の手順はもう理解している。
上から下へとおこなうのだ。つまり、カーテンを軽く振るってはたきをかけて、次は棚の上。その次は机。そして最後に床を掃く……という具合。
そうしないと先に掃除したところへほかの場所のほこりが落ちてしまって、まるで意味がなくなってしまうのだ、と教えられた。メリューナは最初、なんと効率的なことかと感心してしまったことだ。
なのでまずはカーテン。つい先日、カーテンは取り換えたところだった。定期的に洗って替えるのだ。よって、今のものはほとんど汚れていないはず。振るったって特にほこりは落ちないだろう。
なので気持ち程度に振るって、はたきで撫でるだけにした。それで次に窓に取りかかろうとした。こちらも軽く拭く程度でいい。
しかしそのとき、窓の外をなにかがよぎった。メリューナはちょっと目を細めてしまう。黒いそれがなんだか目に刺さるように鋭かったので。そんなはずはないのだけど。
その黒いものは窓の外を舞い、ついっと旋回して、向かいの棟の張り出した窓にとまった。
メリューナはそれで、黒いものの正体を知る。どうやらカラスだ。ずいぶん大きくて、立派な体をしている。そして真っ赤な瞳をしていた。ぎょろっとしていて恐ろしい。
メリューナはすぐに気がついた。
これはただのカラスではない。なにか、魔なる存在だ。
単なる使い魔の生き物かもしれない。しかし、もしかすると魔なる者がカラスに姿を変えているのかもしれなかった。
メリューナはサキュバスとして、魔界に暮らす者として、そういう存在には慣れ切っていたし、よく目にしてもいた。
ただ、人間界で目にするのがおかしい、というわけではない。人間の精気などを吸って生きているのは淫魔だけではない。そういう目的で人間界に忍び込んでいたり、もしくはなにかしら……悪戯をするだの、なにか用があるだのでやってくる魔なる者はそれなりにいるもので、こちらの世界で会うことは珍しくないのだ。
その類の者であることを、メリューナはすぐに理解したのである。
そのカラスは窓の向こうからこちらをじっと見つめていた。
明らかにメリューナを見ているような眼をしていた。
メリューナはちょっとたじろいでしまう。
自分の正体がわかってしまっただろうか。自分がこのカラスが魔なる存在であると気付いたのだから、向こうから気付いても不思議はない。
しかし今のメリューナは魔力を失っているのである。悔しいことだが、そのために魔なる者として認識されない可能性もあった。
が、カラスはどうやらメリューナの正体を理解しているらしい。ただ凝視してくるだけであったが、その瞳には確信のような色が宿っていた。
メリューナはおどおどとしてしまう。このような眼で見られる理由がわからない。
魔なる者がどうしてここに。
そう思われているだけかもしれなかった。けれどそれにしては、カラスの眼差しは強すぎた。
なんだか居心地が悪くて、メリューナは窓をあとにしようとカーテンに手をかけた。メリューナが去ろうとするのをカラスは知ったらしい。
不意に、カァ、と鳴いた。それは窓を閉めていても、それが向こうの窓からであっても、はっきりと耳に届くほど大きく、鋭いものだった。メリューナがつい、びくりとしてしまうほどに。
思わず再びそちらを見てしまって、そしてメリューナは目を丸くしてしまった。
カラスがついっと首を振ったので。それはまるで、なにかを示しているような首の動きだった。明らかに意図的な。
……右のほう?
カラスが示していたのはそちららしい。窓の外になにかあるのだろうか。メリューナは思い、カラスがいるのにはためらわれたが、窓を開けた。
が、そのときカラスは不意に羽を広げた。ばさっと羽ばたき、飛び去ってしまう。来たときのように、鋭い飛び方で、すぐに見えなくなった。
それを見送って、メリューナは数秒、ぼうっとしてしまう。あの魔なる存在はなにを伝えたかったというのか。
とにかく、右のほうになにかがあるらしい。メリューナは窓から顔を出し、右のほうを見た。
けれど、特になにもおかしなものはなかった。裏庭が見える。庭師が樹木の手入れをしているのが見えた。しかしそれだけ。
特になにもなかったことに首をひねりながら、メリューナは顔を引っ込めて窓を閉めた。そうしてから部屋の右のほうへ行ってみる。
外でなければ中だろう。あのカラスに部屋の中が見えているわけはないし、部屋の中を示しているとしたら奇妙なことであるが。
右のほうには棚があった。本などが入っている、重厚なものだ。メリューナは棚を開けて、中を見た。
普通の本しかない。読むことはないが、普段、掃除の一環としてこのあたりは触っている。なじみがないこともない場所。
では別のところ。思ってメリューナは、棚の下のほうを見た。そこにもものが収納できるようになっている。
ただしここは、普段鍵がかかっている。掃除をしたり、グライフの部屋を訪ねたりしたときに、鍵がかかっていると知った。
どうしてですか、などと、特に質問したことはないけれど。わざわざ鍵を開ける必要もなければ、中のものに興味もない。そこになにが入っていようとメリューナにはなんの関係もないのだし。なので、なにか重要書類などが入っているのだろう、くらいに思って触りもしなかった。
しかし今はそれがなんだか気になった。確かに『右』のほうに存在していたことも手伝って。
手をかけて、メリューナは驚いた。
鍵がかかっていない。
どうして。かけ忘れたのか。
ためらった。鍵が開いているとはいえ、覗き見になるだろう。掃除で触りました、という言い訳も苦しい。それに単純にお行儀が悪いことだ。
しかし興味が勝った。メリューナは、ごくりと唾を飲む。そっと棚の取っ手に手をかけて、引いた。
普段空けないだけあって、ぎし、と少しだけきしむ音を立てて扉は開いた。
その中にあったのは、瓶だった。細長い瓶、中身は液体。半分ほど入っている。
メリューナはなんだか拍子抜けしてしまった。それは見るからにただの瓶であったので。赤い液体が入っている。
きっとワインかなにかの酒類だろう。グライフが晩酌などをする、それだ。
きっと良いものであるとか、誰かからの贈り物であるとかで、大切にしていたのだろう。それでいつもしっかりしまっていたのかもしれない。
瓶を取り出す。半分ほどになっているので、それほど重くなかった。
明るい場所へ出すと、それは綺麗な赤い色をしていた。
綺麗な赤色、だったけれど。
メリューナの体が何故か、ふるっと震えた。それはなにから感じたのか。不明であったが、体の芯がぞくりとするような、ちょっとぞっとするような美しさだった。
しかしただの瓶、酒らしきものだ。なにを恐れることがあるのか。
そういえば、グライフはいつも薬膳酒を取り寄せている、と言っていた。これもきっとそれだろう。ハーブなどが入っているから、これほど綺麗な色になっているのかもしれない。メリューナは自分にそう言い聞かせた。
そして、ためらったが栓に手をかけた。薬膳酒、には興味があったので。
あのとき飲んだものは大変苦かった。もう二度と味わいたくないくらいに。
しかしあのときは油断していてしっかり口に含んでしまったからだ。メリューナはそう自分に再び言い聞かせる。この好奇心に対する言い訳だ。
これはあのときとは違うもののようだし、苦いとは限らない。それに苦かろうとも、少し舐めるくらいなら問題ないだろう。
そういえば、あのとき苦かったのは薬膳酒だけではない。グライフが「口直しをしてやろう」と言ってしてくれたくちづけ。あれも大変苦かったのだ。
あちらのほうが原因不明であったが。
グライフが言った通り、本当にくちびるに薬膳酒がついていたから、だけであろうはずがない。あのくちづけは明らかにおかしかった。
あれ以来、特に精気を恵んでもらってはいなかった。なので、あのときだけが特殊だったのかはわかりやしないけれど……。
思いながら、栓の開いた瓶を持ち上げ、慎重に傾け……手のひらにほんの少しだけ出した。
量にするならほんの数滴。勝手に飲む、うちにも入らない。そんな言い訳をする。
ちょっと味を見たいだけ。
頭の中で言い、メリューナは顔を近付けた。手のひらのくぼみに溜まったそれは、やはり綺麗な赤色をしていた。
顔を近付けたとき。ふわっと香りがした。
しかしメリューナはそれに顔をしかめてしまう。確かに酒のにおいであった。
が、それだけではない。なんだか、生臭いような。そんな香りがしたのである。
やめておいたほうがいい。なんだかただの薬膳酒ではないような気がする。
思ったものの、もう目の前にあるのだ。それにひと舐めするだけだ。
思ったメリューナは、そっと顔を近付けて、慎重に、ぺろっとその液体を舐めた。
……苦くない。
まず、それに驚いた。酒の味だ。酒、ではあるらしい。酒精の味がきちんとする。
けれどすぐに思い知る。苦くはないが、そして酒の一種ではあるらしいが、これは明らかにおかしい飲み物。心臓が一気に冷えた。
『それ』の味は知らない。しかし、魔なる者としての本能や経験が告げている。
これにはきっと、血が混ざっている。それもおそらく、動物のものではなく……人間の血液が、である。
不意に、ぐらっと目の前が揺れた。めまいのように頭がぐらぐらして、メリューナの手から力が抜けた。瓶ががたん、と落ちる。
床に近いところだったので、割れはしなかった。けれどごろっと床に転がって、一気に中身が床にあふれ出す。
どんどん床のじゅうたんに広がっていく、赤い液体。そこから生臭い香りが一気に漂った。
そのにおいがメリューナの鼻か、それとももっと奥かを強く刺激した。もうめまいどころではなかった。意識が一気に遠くなる。
体のかしぐ感覚が最後であった。
メリューナの意識はふっつり途切れて、意識しないままに、床に倒れ込んでいた。