植え込みにて、小隊長と
翌朝、ベッドで目覚めてメリューナは額を押さえた。頭はすっきりしていたのにそういう仕草をしてしまったのは、頭が違う意味でくらくらするからである。
まただ。
また『眠って』しまった。
サキュバスとして、体を休めるだけの『眠り』ではない。
人間の体であったら、じっと休んでいるだけの『眠り』とは違う。
一日が終われば、疲れて眠たくなる。その感覚もメリューナにとっては初めて感じるものであった。
そしていつものように部屋のベッドに入り、布団に包まれれば、ふわふわと意識は不明瞭になって、抗おうとしてもそのうち抗えなくなって、眠りに落ちてしまう。
そうして朝まで目覚めないのだ。
明らかに異常な事態であった。
実のところ、『眠って』しまうのは昨日だけではない。しばらく前からのことだ。
初めて経験したときは、なにが起こったのかわからなかった。気を失ったかと思った。
しかし翌日も経験して、理解した。これは人間の眠りをおこなっているのだと。
理解したことでますますわからなくなってしまったけれど。
魔力が使えないのは不思議だった。それにプラスして、これである。
まさか、私は本当に人間になってしまったのでは。
思ったことはメリューナを恐怖させた。
人間になれたらいいなぁ、なんて思ったことはある。
しかしそれは戯れの思考でしかなかった。そんなことができるはずはなかった。
その戯れに考えたことが現実になってしまったかもしれないのだ。それは純粋な恐怖だった。
人間になってしまうのが嫌というよりも、自分が自分でなくなってしまうような恐ろしさ。
劣等生だとしても、サキュバスとして生まれ、短くはない時間を生きてきたのだ。それなりに自分の種族に執着はある。
ここへきて人間の振りをして過ごしていて、幸い、疑われることはなかった。今だって、メリューナが人間ではないなどと、疑っている人間はいないはずだ。そのような気配は感じない。
おまけにメイドとしてはなかなか優秀とまで評価されてしまっていた。なかなか物覚えがいいですね、とメイド長に少し前に褒められていた。それは嬉しいやら、あまり喜び切れないやらであったけれど。
だって魔力を取り戻して魔界へ帰る予定だったのだ。そしてその魔力もすぐに戻るだろうと思っていた。それは楽観だったのかもしれないけれど。
いや、実際に楽観だったのだろう。一ヵ月が経とうとしても一向に戻ってこないのだから。
メリューナはなんとなく想像しながら、背中に力を込めた。肩甲骨のあたりに意識を集中させる。
しかしなにも起こらない。ここへ来て以来、グライフを襲おうと部屋に忍び込んでからのあれそれ以来だが、そのときとまるで変わらなかった。
黒い翼は出てこない。ツノも出てこない。それは魔力が未だに失われた状態であることを意味していた。
はぁ、とため息をついた。どうにもならなかった。このままメイドとしての生活を続けるしかない。『一時預かり』ということにさせてもらっているのが、いつまで通用するかわからないにしても。
自分の行く先が不安定過ぎて、メリューナの心まで不安定になっていた。
そしてもうひとつ。
悩んでいてもなにも変わらないのだから仕方がない。とりあえず目の前の仕事に取りかからないと。
そう思って起き出し、メイド服に着替え、そしてメイド寮の食堂へ向かった。
普段と同じような食事を受け取る。今日はオムレツにサラダ、野菜スープにパンがひとつ。
フォークを取り上げて、オムレツを割った。上にかけられたケチャップと、焼けた卵の香りが、ふわっと漂う。
その香りに誘われたように、ぐぅっと音が聞こえた。メリューナはそれがなにかわからなかった。どこからしたのかもわからない。思わずきょろきょろとしてしまった。
それを隣に座っていたメイドの子がくすくすと笑った。
「今朝はお腹が空いてらっしゃるのね」
「え?」
きょとんとしてしまったメリューナ。そしてその子が言ったことが答えだった。
「お腹が鳴るくらいぺこぺこだったんでしょう」
お腹が鳴る? つまり、お腹が空いていた?
しかし言われてみれば確かにお腹のあたりが心許ない。メリューナは初めて知った。これは『お腹が空いている』という状態なのだろうと。
そしてそれはまた、示していた。メリューナの体がどういうわけか、サキュバスではなくなる……いや、はっきり言ってしまえばそれだけでなく、人間になる、そうでないにしても人間に近くなっているということを。
「そ、そうみたい」
なんとか答えた。取り繕ったのは明らかだと自分で思ったが、隣の子はそう気にした様子も見せない。
「それならちゃんと食べないとね。今日はお庭のお掃除だから体を使うわよ」
「……ええ、そうね」
それでおしまいになり、その子は自分の食事に戻ってしまった。メリューナも戸惑いつつ、しかしおろおろしているわけにはいかないので、卵をフォークですくって口へ運んだ。
……美味しかった。今まで感じたことのない意味で。
今までも食べ物を食べればしっかりと味は感じていた。そしてそれも『美味しい』と表せるものだった。
けれど今の『美味しい』は、まるで違う。栄養を取れて、お腹を満たせる快感。その感覚だ。
そう感じたのは、今まで精気を得たときに感じていた、エネルギー不足が満たされるときの快感と似ていたからである。それは如実に示していた。
自分はこの食べ物から栄養を得ているのである。人間のように。
メリューナの疑惑がまたひとつ、裏付けられてしまった。
メリューナは呆然としつつも食事を進め、そして綺麗に食べてしまった。
お腹は心地良く満たされていた。ただ、心の中だけは不安にざわざわとしてしまって気持ちが悪かったけれど。
このことをグライフに報告しようかと思った。グライフはサキュバスの事情などわかりはしないだろうが、メリューナの正体や状況を知る唯一の人間である。彼に話さずして、誰に相談するというのだろうか。
だがそれはしばらく叶いそうになかった。
グライフは今日から三日ほど王宮を空ける予定になっていたのだ。騎士団長としての仕事が入っていた。
隣の領へ視察に行くのだ。いくつかの小隊を率いて。
戦いに行くのではないと聞いたときは、ほっとしたものだ。グライフが戦いに行って、なにかの手違いで死んでしまうことがあったら嫌だったので。そしてそんな不安を抱いたことに、メリューナはやはり不思議に思ったものだ。
今日は庭の清掃。葉っぱを掃いたり、樹木に水をやったり、やることはたくさんある。よって、メイドたちのグループも、複数駆り出されていた。
そこへ声が聞こえてきた。
「全員、整列!」
グライフの声だ。メリューナは、どきりとした。きっとこれから出発するのだろう。
ためらった。持ち場を離れてはまた叱られてしまうだろう。けれど気になる。
メリューナはきょろきょろとあたりを見回した。そして置いてあったじょうろに目を留めた。
一瞬だけ考えて、それを手に取る。手に取り、傾け、中を覗いて首をかしげる、……振りをした。
「あの、すみません。こちらのじょうろ、穴が空きかけているようです。ほかのものと取り換えてきてよろしいでしょうか」
当たり前のように嘘だった。けれどちょうどそこにいたリーダーのソフィはなにも疑わなかったらしい。
「あら、それはいけないわ。そうしてちょうだい」
「はい、行ってまいります」
持ち場を離れる許可をあっさりと得て、メリューナはじょうろを持ってその場をあとにした。ちょっとだけ振り返る。ソフィはもう別のほうを向いていた。
おまけに好都合。ほかのメイドになにか声をかけたところらしい。
メリューナはほっとして、小走りで庭を離れた。向かうのは勿論道具置き場ではない。演習場だ。出立前に、視察メンバーはそこへ集合しているようだ。
「皆! 今回の仕事は視察だが、単なる見学かなにかと思ってもらっていては困る。我々の存在を畏怖し、一揆などを起こそうなどという気にさせないように、威厳と、また国を護る騎士としての誇りをもって……」
グライフは騎士たちの前に立ち、何事か話をしていた。
今日はしっかりと騎士の正装である鎧を身にまとっていた。勿論、その場にいる誰よりも重厚で豪華なものを、である。男性らしさと強靭さを感じさせられて、格好良かった。
彼のその姿に新鮮さを感じながら、メリューナはそれの様子をよく見るべく、演習場のはしの植え込みにそっと身を隠した。
グライフの話はよくあるものだったかもしれないが、良く通る声は威厳に溢れていた。よって、騎士たちは真剣なまなざしでそれを聞き、たまに掛け声で答えていた。
やがて出立前の話や打ち合わせなどは済んだらしい。馬が何頭か引かれてきた。
当たり前のように、騎士団長のグライフが乗るのだろう。そして小隊長など、上に立つ騎士がほかの馬に乗るのかもしれなかった。
その支度を見ていたメリューナ。不意にその肩に、ぽん、となにかが乗った。
メリューナはびくっと身を跳ねさせてしまった。まさか、メイドの誰かにサボりが見つかったのでは。
心臓を冷やしつつ振り返ったメリューナであったが、違う意味で驚いてしまった。そこにいたのは、まるで違う人物であったので。
「ラントユンカ様!?」
金色の巻き毛をした小隊長、ラントユンカがそこに立っていた。彼は鎧をつけていない。
「いけないな。お仕事を放り出しているのかい」
メリューナはぎくりとした。的確に言い当てられてしまったので。どきどきと心臓を冷やしながら、首を垂れるしかなかった。
「申し訳ございません」
素直に謝ったメリューナ。メイド長に報告されて、叱られても仕方がない。しかしラントユンカは「顔をあげておくれ」と言った。
メリューナが言われた通りに、そろそろと顔を上げると彼は何故か笑みを浮かべていた。にこにことしている。
グライフ様とまったく違う印象だわ。
メリューナはこんなときなのに、新鮮に感じてしまった。
「いけないことだけど、気持ちはわかるよ。グライフ様が心配なんだろう」
それも的確だった。メリューナはやはり頷いた。
「は、はい。視察だとうかがっておりましたが、やはり……」
「そうだよね」
ラントユンカはそのまま肯定してくれて、そして演習場に視線をやった。彼が平服であることからなんとなくそうではないかと思っていたが、その通りのことを彼は言う。
「僕は今回、留守預かりを命じられているけどね。視察といっても危険がまるでないわけではない。下手をすれば、別の領や国なんかの良からぬ輩が待ち受けていることもありうる」
「そんな、……」
まるでメリューナを脅すような事実であったので、メリューナは恐ろしくなってしまった。やはり危険なことなのだ。騎士としての本来の仕事は。
「しかしグライフ様はあのとおり、お強くて、また優秀な騎士団長であられる。隊の皆、傷を負ったとしても全員、命を落とさずに帰ってきているよ」
「そう、なのですね」
ほっとした。それならグライフを信頼していて大丈夫だろう。不安な気持ちはなくならないが、ずいぶん薄くなった。むしろラントユンカにそう聞けて良かった、とまで思ってしまう。
「ただ、……」
「ただ?」
だがラントユンカはそこで顔を曇らせた。メリューナは不穏な空気を感じてしまう。
ラントユンカは少々言い淀んだようだったけれど、「きみがグライフ様付きで、またお身内だから言うのだよ」とくぎを刺したものの言ってくれた。
「最近、グライフ様はお体の具合でもよろしくないのかもしれない」
その声にははっきりと心配が滲んでいた。メリューナは一瞬で理解する。少し前。演習場で倒れたときのことだ。
あのあと、『薬膳酒』が効いたのか、それともお医者や薬のためか、回復したようであった。少なくとも、メリューナは彼の体調が悪いとは感じられなかった。けれどラントユンカは違うらしい。
「なんだかね。お風邪などを召しているようではないのだけど、どこか……ぱっきりしておられないというか。ああ、態度がではないよ。普段なら隙を見せたりするお方ではないのに、それが、ね……ああ、やはりこのようなことは言うべきでなかったかな。すまない」
途中から独り言のようになった。しかしそれはすぐに、ぱっと切り替わる。メリューナを安心させるような笑みを浮かべてくれた。
「しかし大丈夫だよ。騎士として、そして騎士団長として、お体の無理を押されるような方ではない。それで不備があろうものなら傷つくのは従う騎士たちだからね。それは以前からよくご自身でおっしゃられている」
フォローのようだったが、事実ではあるのだろう。メリューナは頷くしかなかった。
「私も、……無理をされる方ではないと信じております」
ラントユンカはメリューナの答えに、ほっとしたようだ。あちらも頷いてくれた。
「うん。安心して待っていていいと思うよ」
そこへ、がさっと草を踏む音が聞こえた。また誰かがやってきたらしい。
今度こそメイドの誰かだろうか。メリューナの心臓が、またひやっとしてしまう。
しかし今回も幸いなことに、ソフィでもメイド長でもなかった。
「あ、こんなとこにいた! ソフィさんが、帰りが遅いって……あら!」
メリューナを探しに来たらしいエマであった。メリューナを見付け、ほっとしたような顔をしつつも、ちょっと怒るような声を出したのだが、すぐにそれは引っ込んだ。メリューナと話をしていた人物のために違いない。
「ああ、すまないね。僕が話に付き合わせてしまったんだよ」
ラントユンカは、にこやかに言った。メリューナは驚いてしまう。覗き見をしていてサボっていたのは自分であったのに、こんなことを言ってくれるとは思わなかった。
「そっ、そうだったのですね。すみません、お話の邪魔を……」
エマの声ははじめはひっくり返り、そしてそのあとはしどろもどろになった。密かに想いを寄せているラントユンカがこれほど近くにいるのだ。メイドの身としてはなかなか近付けない立場だろうに。
「いいや。もう終わるところだったから。では、メリューナさん。そろそろお互いお仕事に戻ろうか」
「は、はい!」
それでコトは済んでしまった。メリューナは解放してもらえることに、ほっとした。
そのあとラントユンカは丁寧にエマにも声をかけた。
「ミラさんに叱られそうになったら、僕が捕まえていたのだと言ってあげておくれ。エマさん」
自分に話しかけられ、おまけに名前まで呼ばれて。エマは、ぱっと顔を赤くした。やはりしどろもどろで答える。
「は、はい。そのように」
「ではね」
それでラントユンカは先に去っていった。メリューナは、ぼうっとその後ろ姿を見送ってしまったが、ぼうっとしていたのはメリューナばかりではなかった。
「お、お話してしまったわ……おまけに私の名前まで……」
赤く染まった頬を手で包み、ほうっとため息をつく。そんなエマは実にかわいらしかった。まさに恋をしている乙女である。
「ごめんなさい、わざわざ探しに来てくれて……」
メリューナは言ったが、エマは突然、きりっと顔を引き締めて首を振った。
「いえ! ラントユンカ様とお話ができて、むしろラッキーだったわ!」
「そ、そう。それなら良かったけれど……」
メリューナはたじたじとしてしまう。喜ばれて、サボりを叱られることもなかったが、どうにも気まずい。
「さ、戻ろう。ラントユンカ様がお気を使ってくださったのを、無にしないようにしないと」
「そうね」
連れ立って持ち場に戻る間、エマはまた、ラントユンカのことばかり話していた。それほど話せたのが嬉しかったのだろう。かわいらしいものである。
恋というもの。
良いものであることは知っている。そして好く相手の前ではこのようになるのが若い女性だとも知っている。
けれど実感としては、メリューナはまるで知らなかったといっていい。
例えば。
メリューナはちょっと考えてみた。一番身近な男性のことをだ。それは勿論、グライフ。
恋をしているとは思わない。けれど、彼と触れ合うたびに胸の高揚は強くなっていっている気はした。
はじめは緊張であっただろうに、それとはだんだん変わっていっている。そのことがわからないほど鈍くはない。
その胸の高揚も気持ちや感情の変化も、なにか、特別なことのようにメリューナは思う。『特別』の正体はわからないにしても。
ただ、エマのように言葉を交わすだけで頬を染めてしまったり、しどろもどろになってしまったりすることはない。だから恋とは違うのだろう。メリューナはそう結論付けた。
それは完全に正解ではなかったのだけど。メリューナが知っているよりも遥かに多く、『恋』の気持ちは存在する。そのひとつでないと、どうしていえよう。
そのようなことを考えている間に、持ち場に着いていた。リーダーのソフィは「あら、やっと戻ってきたわ」と言った。少々呆れ顔で。
「どこまで行っていたのです」
質問されて、メリューナは、ぱっと思考を切り替えた。持っていたじょうろを持ち上げてみせる。
「申し訳ございません。庭師の方がお使いだったのか、残っているものが無かったのです。それでお借りできないか探していたら……」
ソフィはそれを信じてくれたらしい。呆れ顔であったが、出てきた言葉は咎めるようなことではなかった。
「まぁ。無いなら無いで良かったのよ」
「メリューナは真面目だから、それでですよ」
おまけにエマもフォローを入れるようなことを言ってくれた。それでこの件はおしまいになった。
「まぁ、そうね……まぁそういうことなら良いわ。続きに戻りましょう」
「はい!」
エマと二人で良い返事をして、庭の掃除に戻った。掃除は昼休みを入れて、ほぼ一日かかってしまった。
メリューナは直接見送ることは出来なかったが、騎士団はとっくに出発してしまったようだ。これから約三日。グライフは帰ってこない。
なんだか胸がすかすかするような気持ちを感じた。心配だけでなく、なんだか別の感情も混ざっているようだ、とメリューナはもどかしく思う。
そして思った。心から思った。
グライフ様が無事でお戻りになりますように、と。




