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薬膳酒は口に苦し

「ああ、ご苦労。助かった」

 グライフの部屋へ入り、紙袋を渡す。グライフは起きていた。部屋でくつろぐときのゆったりした服を着ている。少しは具合が良くなったのだろうか。

 しかしあまりあれこれ聞くのも。思ったメリューナはそれを言うのはやめておいた。

「グラスを用意してきてくれ。栓抜きも」

「はい」

 グライフの指示。メリューナは頷いて、再び外へ出た。すぐに要求されたものを取ってくる。盆に乗せた、新しいグラスと栓抜き。

「おつぎいたしますか?」

 メリューナは尋ねた。グライフが手にしていたものはどうやらワインかなにかのようだったので。

 テーブルについたグライフ。手元には先程の紙袋が置いてあった。先程のお使いは、瓶の飲み物だったのだ。

「いや、かまわん」

 グライフはしれっと言い、ぽん、と栓を抜いた。自分でグラスに瓶の中身を注ぐ。ととっと、水の流れる音が響いた。赤い液体がグラスに満ちていく。

「あの、……」

 メリューナはためらったが口に出し、けれどそこで止まってしまった。

 ご不調のときに、ワインなど召し上がってよろしいのですか。

 そう訊きたかった。

 けれどメイドの分際では出過ぎたことだろう。

 とはいえ、この状況では謎すぎる。

 メリューナが疑問に思うことなどわかっていた、とばかりに、グライフは飲み物を注ぎ終わり、瓶をテーブルに置いた。

「これは薬膳酒だ」

 やくぜんしゅ。

 メリューナは知らない言葉だった。首をかしげてしまう。

 その前でグライフはグラスを持ち上げ、色を確かめるようにしばらく眺めて、そして口を付けた。

 赤い液体を口に含む。ゆっくりと飲み下した。

「お酒では、ないのですか」

 グライフがひと段落したと見て取って、メリューナは質問した。グライフは椅子に座った姿勢からメリューナをちょっと見上げる。その顔には何故か笑みが浮かんでいた。

「酒だ。ただ、普通の酒ではない。そうだな、ハーブや薬草、そういうものが入っていて、滋養強壮に効果がある」

「……そうなのですね」

 その説明でメリューナは理解した。ハーブや薬草というなら、薬に近いようなものなのだろう。滋養強壮と言っていたし。

 よって現在のグライフがそれを口にしたのも合点が行く。体調が悪いのならば、むしろ飲んで当然なのかもしれない。

 そしてだからこそ、この薬膳酒とやらをメリューナに取りに行かせたのかもしれなかった。

「少々、切らしていてな。取り寄せていたのだが」

 グライフはグラスの中身を少しずつ口にしながら、呟くように言った。メリューナに聞かせる、というより独り言のようなものだった。

 なのでメリューナもあまり返事などをする気にはならなかった。あれこれ質問ばかりするものではないので。

 グライフはどうやら、この薬膳酒というものを日常的に飲んでいるらしい。今まで気がつかなかったのは、見た目がワインであるからだろう。

 グライフは常から酒を嗜む。酒豪ではないが弱くはないし、好むほうだ。

 食事の世話をしたことはなかったが、食の場ではワインなどを口にするらしいし、自室でもときたまメリューナに酒瓶を持たせることもあった。今までのそれらも、もしかしたら似たようなものだったのかもしれない。

 一杯を飲み干してしまい、グライフは、ふぅ、と息をついた。満足げであった。すぐに効果が現れるはずはないだろうが、常用しているものなら摂取できて、安心したということかもしれない。

「お前は酒など飲まないのか」

 もう一杯飲むのだろう。やはり自身でグラスに瓶の中身を注ぐ。何気ない調子でメリューナに質問を寄越した。

「はい。飲んでも毒ではないと思いますが……」

「毒でも薬でもないのなら、飲む必要もないものな」

 グライフはメリューナの返事をそのように言い、くつくつと笑った。すっかり常の様子であった。

 メリューナは笑われたというのに、ほっとしてしまう。これで良くなってくれればいい、と安堵の気持ちで思う。

 そして、なんだか不思議に感じた。

 どうして自分はグライフの不調にあれほど戸惑ってしまったのだろうか。

 勿論、仕えている身なのだ。それを別にしても恩人だ。心配するのは当然だ。

 だが、これほど人間のことを心配に思ったことはなかったし、死んでほしくない……縁起でもない話ではあるが……と思ったのは初めてだったのだ。

 ふと、なんの関係もないことを思い出した。

 先日、グライフに精気を与えてもらったとき。流れ込んできた精気から感じられた、あたたかな温度。あれは美味しい以上に何故かとても心地良かった。

 ……どうしてあれを心地良く感じたのだろうか。胸の高揚も同じで、息は少し苦しいものの、不快とは真逆であった。

 そしてそれをどうして脈絡もなく思い出したのか。

 メリューナは内心首をひねる。

 そこへグライフが声をかけてきた。グラスを掲げる。

「どうだ、飲んでみるか。毒ではないのだろう」

 楽しそうに言われて、メリューナは、きょとんとしていた。

 酒というものがあり、人間は酒を好むことを知っていて、そして酒の給仕もできるようになったのに、自分が飲むという発想はまるでなかったもので。

 しかしすぐに興味が沸いた。自分で言ったように毒にはならない。そして口にしたことのないものだ。

 人間があれほど好むのだ。美味しいのかもしれない。事実、目の前のグライフも美味しそうにこれを口にしていたし。

「では……少し試させてくださいませ」

「ああ」

 メリューナがそう答えると、グライフは、ついっとグラスを寄越した。それはそのまま自分の飲みさしを飲め、という態度であったので、メリューナはちょっと驚いた。

 新しいグラスでも持ってきて、少し注がせてもらおうと思ったのだが。

 そしてためらった。同じグラスから飲み物を飲むことなど今までなかったので。

「やめておくか?」

 メリューナのためらいを、単に「酒を飲むのをためらっている」と取ったらしい。グライフは促すようにグラスを揺らす。ちゃぷ、と赤い液体が揺れた。

 グラスを取って参ります、と言おうかと思ったけれど、やめておいた。ここで断ってもグライフならメリューナにそれを許さないであろうから。

 ひとくち飲むだけだ。別に構わないだろう。そう思うことにしておいて、少々恐れ多かったが、メリューナは、そろっとグラスを受け取った。

 片手で持って、もう片方の手を添えて、しばらく赤い液体を見つめた。そしてそっと口を付けて、グラスを傾けたのだが。

「……けほっ!」

 勢いよく咳き込んでしまった。口にした液体はそれはもう、苦いものであったので。

 グライフはそれを見て笑った。失礼にも、声をあげてだ。

 メリューナは、こほこほと咳をする。喉の奥に苦みが絡みつく。酒とはこれほど苦いものなのだろうか。

 それともこれが薬膳酒というものだからなのか。それはあるかもしれない。薬草の中には苦いものもあるのだから。

 しかしグライフは美味しそうに飲んでいたのだから、このような味とは思わなかった。恨めし気にグライフを見る。その視線はまた笑われた。

「ははは、苦かったろう」

「……酷いです」

 メリューナは不満をそのまま口に出した。だがそんなものが効くグライフではない。

「毒ではないのだからいいではないか」

「毒のようなものでした。とても苦くて」

「失敬な。体に良いのだぞ」

 メリューナがそっとテーブルに戻したグラス。それを取り上げ、グライフは自分で飲んだ。

 その様子を見て、なにか、不意に心臓が跳ね上がった。

 先程自分が口にしてむせた、苦い液体。それを今、グライフが口にしている。

 赤い液体が吸い込まれるくちびるに、何故か目が吸い寄せられてしまった。どきどきと鼓動が速くなる。

 メリューナのその反応に気付いたのかそうでなかったのか。グライフはこちらを見る。

「仕方がないな。口直しでもさせてやろう」

 どうも変な顔をしていたようだ。それを不満だと取られたらしい。

 口直しとは。

 メリューナは思ったが、グライフは、ことりとグラスをテーブルに置いた。そしてこちらへ手を伸ばす。メリューナの腕に触れた。

 それだけでメリューナは理解した。なにか、いつも指南されているような恋人同士のようなことだ。

 いや、『口直し』と言った。それはつまり、口の中をリセットするようなものを。

 想像して、メリューナは期待してしまう。くちづけが連想されたので。そしてそれは自身が精気を得られるということであった。

 よって、拒否する理由はないどころか、むしろ歓迎であった。メリューナは一歩踏み出して、グライフに近付く。

 しかしグライフは椅子に座った姿勢である。そのままではくちづけなど出来ない。

 ちょっと考えて、メリューナは体を落とした。床に膝をつく。こうすれば顔が近付くだろう。メイド服のスカートが、ふわっと床に広がった。

 メリューナのその反応には、満足げに目が細められた。

「ずいぶん上達したじゃないか。どういう体勢を取ればいいのかお前のほうから動けるようになったとはな」

「ありがとうございます……?」

 褒められたのでお礼を言っておく。初めの頃は散々な言われようであったのに今ではこれなのだから、着実に誘惑や恋人同士のことの手腕は身についていっているようだ。それはそれで嬉しいことである。

 しかしそこでメリューナは、ふと思った。

 誘惑などの手段。身に着くのは喜ばしい。

 けれど、これを発揮できるのはいつなのだろう。

 なにしろ、魔力が戻る気配は一向にないのだから。毎日のように、魔力を使おうと少し試してみていたのだがまったく変わらず、最近ではもう、試すのもニ、三日に一度程度になってしまっていた。

 このまま魔力が戻らなければ、魔界にも戻れない。それはつまり、元の生活には戻れないということだ。この生活は一時的なもののはずなのに。

 けれど魔力が戻らなければここにいるしかないのである。そしてグライフに精気を恵んでもらいながらこの生活を続けるのであろうか。それも先がないような気がする。

 本当はもっと、別の方法を探さなければいけないのかもしれない。魔力を取り戻せるような、サキュバスの生活に戻れるような。

 けれどやはり……そんな方法など、思いつくはずもないのであった。

「考え事か?」

 そっとあごになにかが触れた。グライフの手だ。今は部屋着なので手袋もなく、素肌であった。

 その感触はあたたかく、心地良かった。

 なんだかここから精気が入ってくるよう。

 メリューナは何故かそんな錯覚を覚えてしまった。

「……いえ」

 考え事、をしてしまったのは本当であったが、はい、などと答えるのは失礼だろう。よって、メリューナは否定の返事をした。その返事はグライフにとっては満足なものだったらしい。

「男を焦らす手腕まで実践するとはな。なかなか覚えがいい」

 言いながらメリューナの頬を包み込む。優しく撫でられた。それも心地が良く、メリューナの吐息が勝手に零れた。

 甘いそれは、グライフを刺激したらしい。そう焦らすこともなく、顔が近付けられた。メリューナは当たり前のように目を閉じる。

 触れ合ったくちびるから、甘くて美味しい精気が流れ込んでくるはずだった。

 はずだった、のに。

「ごほっ……!?」

 メリューナはこの場に似合わぬ息を吐き出していた。

 顔を逸らして咳き込んでしまう。それは先程とまったく同じであった。

「……なんだ」

 グライフは不満げな顔になる。当たり前だろう、くちづけをしておいてこのような反応をされたら。

 こほこほ、と咳き込むのをなんとか抑え込み、口元を押さえ、メリューナは言った。

「す、すみません……あの、苦い味が……」

「……苦いだと?」

 グライフは一瞬、黙った。そして確かめるように言う。

「はい。さっきのお酒のような……」

 正確には少し違う味だとは思った。けれど一番近いと思ったのはそれだったので、メリューナはそう言った。

 グライフはしばらく動かなかった。メリューナをじっと見つめたままだ。

 メリューナも動けなかった。味わった味があまりに苦くて。そしてそれに驚いてしまって。

 単に味だけでない。今までくちづけは美味しいものだったのに、どうして今だけ。そういう点も。

 しばらく沈黙が流れた。それを破ったのはグライフの小さな笑いだった。

「……はは、酒の味がくちびるについていたんだろう」

 笑いと共に言われた。

 けれどそれは正しくなかっただろう。そしてグライフも、正しいと思って言ったのではないだろう。そういう表情と言い方であった。

 正しくないとは思ったが、そこで違うと言うことは出来ない。では何故だと聞かれても、答えはわからないのだから。

「そう、かも、……しれません」

 おずおずと肯定した。そんなはずはないと思いながら。

「そうだろう。どこまでも酒が飲めぬ子供だな。……さて。俺は念のためもう少し休んでおこう。下がれ」

 そうしてそのままメリューナは部屋から出されてしまった。グラスや栓抜きなどを片付けようと思ったのだが、それも止められた。「まだ使うだろうから」などと言われてしまって。

 半ば追い出されるようなものであった。

 一連の出来事がよくわからず、また謎すぎて、メリューナは首をかしげた。

 それでも部屋の前に立ちつくしていてもなにも変わらないし、なにかがわかるわけでもない。

 大人しくメイド寮へ帰ろうと、廊下を歩きだした。

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