幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(5)
其 五
歳以上にませて、小憎らしいほど頭の回転が速く、何事につけてもよく知り得ている玉山ではあるが、流石にまだ子どもだけあって、優しくされる人には馴染みやすく、三度に一度、銭のある時には菓子などをくれる正太郎とは早くも親しくなって、お互いに冗談も言い合うようにもなっていた。正太の方でも玉山を可愛く思えば、玉山の方でも筆屋を好ましく思っているので、筆の催促に行ってこいと師から言われた一言が嬉しくて、門を出るや否や、樒売りの惣六爺のところの黒犬を従者に連れて、四本足と二本足との競走、どちらが早いかと言わんばかりに市中を目指して走って行った。
筆屋の小丁稚が店先の土間で革に毛を包み、すくも(*もみ殻を焼いた灰)を塗して毛の膩を取っていたが、その背中をぽんと叩き、
「乙公、独楽は上手になったか? やっぱり俺より下手だろう。使っていなければ少し貸せやい。上へ放って、紐で受けて十五数えるくらいまでは回して見せるぞ」と、用事は最早そっち退けで、自分が遊びたい独楽の話をしかければ、小机を前にして真鍮の小櫛で筆の毛に何やら作業していた主人の正太は、仕事をしながら奥の間の火鉢の前に坐って何か喋っている婆の話に耳を貸していたが、
「オオ、玉山様か、よく来たよく来た。さあ、こっちへ上がって上がって。幸いに儂が何やかやといつも世話になっている婆様から今もらった萩餅がある。乙吉と二人で喫るが良い。ヤイ乙吉、お前もこっちへ来て一緒に食べい。どれ、儂も一つ意地汚いことをしようかの。婆様有り難う、お蔭で小さいお客さまにもお愛想ができて何よりだ」と、剥げかかった一つ重の蓋を取って差し出すと、婆は笑って、
「お礼を言われるほど旨くできてもいないわ」と、煙管でスパスパ煙草の煙を吐きながら、さも得意そうに目を細めた。
「コレ、お客様さえまだ手をお付けになっていないのに、お前のすくもだらけの手をいきなり突っ込まれて堪るか。仕事と言えばグズグズして直ぐにはしないくせに、食い物と言うと、一番に手を出す賤しい奴め、先ず手の先でも洗って来い」と叱られて、後へ退る乙吉を見て笑いながら、玉山は、
「コレコレ、亭主、お前もなかなか賢い奴じゃ、お師匠様に頼まれた刷毛と筆とは何時造るのか、度々催促しても出来ていないが、今日も大方出来ていそうにないな。だから使いのこの玉山に萩の餅を食わせて誤魔化そうというのだろうが、そうは行かんぞ。しかしまあ、折角くれる物だから、俺は食いたくもないが食ってやろう」と、笑いながら遠慮気も無く食い始めた。
呆気にとられて眼を見張っている婆を見ながら、
「玉山様の賢さには何とも言葉が無い。謝り入ってございます。しかし、ただ今仕掛かっております刷毛さえ出来れば、ご注文の品はすっかり出来上がりますので、今日は出来上がっている分だけお持ち帰りになってくださいませ。刷毛三本も出来次第近日中にお持ちいたします」と、真顔になって亭主が言う言葉の終わるのも待ちかねて、
「ハハハ良いわい、小生の役目はもう済んだ。今からはゆるゆると餅を食って、独楽を廻して遊んで帰る。乙吉、お前は叱られたので食いたそうな顔をしながらもじもじしているな。可哀想に、ここに来い。いくらでも食え、俺が遣る。その代わり俺に独楽を貸せ」と、無理に独楽を借り受けて、裏の物干杭の下でしきりに独りで遊んでいたが、何かしら図に乗ってべちゃべちゃと喋っているさっきの婆の声がするので、何を話しているのかと耳をそばだてた。
つづく