幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(47)
其 四十七
昨夜の大酒に眼の中を赤くして、しかも朝の九時過ぎという時刻に帰って来た正太郎、我が家へ入る足もしどろとなって、ゆらゆらと揺らぎ込んで火鉢の傍にどたりばたりと倒れたまま仰向きになれば、久四郎のあの一件以来、そうでなくても恐れを抱いているお初は、昨夜帰って来なかったことでなお一層恐ろしくなって、魂も身に添わないくらいであったのを、正太郎のこの有り様を見て、さらに恐ろしさを増した。恐る恐る傍に寄り、
「お帰りなさいませ」も口の内で言って、小掻巻と枕を取り出し、
「あなた、それではお頭が下がって、具合がお悪いでしょう」と、枕をさせに掛かるが、
「エエ、打棄っておけ、構うな構うな、貴様の世話は受けたくないわ、触るな醜婦め、枕がしたければ自分でする。余計なお世話だ、可笑しくもない」と、頭から突っ慳貪な言葉。返そうにも言葉も出ず、そのまま無言で後へ退るが早いか、
「乙吉、乙吉」と、何やかや働いている小僧をわざわざ呼んで、
「枕を持って来い、掻巻を掛けてくれ」との意地の悪いやり方。
二つ三つ咳払いをして、痰を吐こうとするらしいので、唾壺を持って行けば、眼を閉じたままの知らん顔で、手近の手拭いで早くも拭き取ってしまう。
カッカッと咽喉の乾いた音をさせるのに気づいて、酔い覚めの水を持って行けば、
「エエ、水は厭だ、湯が欲しい」と言う。湯を持って行けば、
「エエ、忌々しい、熱すぎる」と言う。水を点して行けば、
「エエ、トンチキめ、気味の悪い微温さだわ」などと言う。そっと言えば、ガツンと言うし、正太郎が口悪く言うのをはぐらかすと、お初が言いたいことを先回りして言う。何とも彼とも手のつけようが無いので、なまじ逆らってはと、沈黙っていれば、ガバと跳ね起きて、
「ヤイ、不精者め、人が帰ってきたのに、朝飯を食わせることもしないのか、腹が減ったわい。腹が減っているわい。ひもじくて死にそうだわヤイ。この怠け者めが、おのれが食ってしまったからと言って俺の腹が膨れるものか。篦棒め、トンチキめ、他所で寝てくればくたびれているわ。可愛がられて帰って来たのだ。美味いものでも食わされないと、身体が元には復らないわ。何をうろうろしている、この田舎者めが、冷えた味噌汁を温められて、それで飯が食えるか。おっとドッコイ、昨夜の肴を煮て出すなよ。コレ、教えてやる、よく聞いておけ、可愛がられてお帰りの時はだな、簡易いところで湯豆腐に熱燗、その後が淡泊とした水雑炊、おのれの気が利いていれば、葱の心をぱらりと行こうというところだ。思いやりの心が深ければお好みは、先ずこんな事と決まっているとは知らねえか。この田舎者め、気をつけくされ。アア、腹が減って死にそうだ。早く調理ろ、愚図つくな。オイ、朝の飯を昼に食わせるなよ」と、散々毒口を叩いた末、嘘か真か、横になって眠る様子。ようやく雑炊が出来たのに、もしもしと、揺り起こせば、
「折角、面白い夢を見ていたのに、何が口惜しくて起こしくさった。クソ、忌々しい。貴様等と一緒に生きているこの世界の中には無い好い思いをしていたところを半分で壊されてしまった」と、起きると直ぐに欠伸交じりに又毒口を吐いて、
「そうそう、行かなくてはいけないところがあった」と、ツイと立ち上がって帯を締め直し、折角こしらえた雑炊も無益にさせて、どこかへと出て行ってしまった。
つづく




