幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(46)
其 四十六
饂飩を茹でる釜の湯煙が軽く上がって、渦巻く店の中、土間の床几(*折りたたみ式の腰掛け)に腰を掛けて並んだ三人の男、一人は五十くらいの角面の老夫、その右に居るのは鼻が低くて唇の厚い四十がらみの品の無さそうな男、左には赤黒い顔の、頑丈な体格だが別に毒の無さそうなこれも四十に近い奴。いずれも饂飩を一、二杯食いさして、一杯何銭の盛切酒の筒茶碗を片手に、周りを気にせず声高に世間話をしている。おそらく近くに住む者達で、市中へ何かを売りに来ての帰りなのだろう。
寒さと胸の鬱陶しさとで我が身をここに飛び込ませた正太郎も、饂飩一椀と酒一杯に身体も少しばかり暖かくなり、同じように腰掛けながら、腹の加減か酒が能く浸みて、
「ああ、好い酒だ、もう一杯」と、亭主を相手に一つ二つ話をして、後は聞くともなしに三人連れの雑話を聞きながらグビリグビリと飲んでいた。
中央の老夫が偉そうな口振りで、
「兵六殿の言っておいでのように、本当に貸すのも借りるのも悪い。俺と源右衛門との仲違いも、詰まりは四俵の豆を抵当に相応の銭を用立ててやったことから起こったこと。約束の日が来ても源右衛門は返済してくれない。豆はその時、丁度値が上がって売り時だったので、俺が打売った。抵当に取ったものを打売ろうとどうしようと、金を返さないからこっちの勝手、おかしくはあるまい。それを、その四、五日が過ぎた頃、源右衛門の奴、豆の値がよくなっていると知って、金を持って品物を取り返しに来た。俺が売ってしまったというと、サア、苦情を言い出して、『何故一言も挨拶無しに売った、あれを売れとは最初から頼んでなどなかったぞ。値が好いからと、勝手に売ったのはお前の慾が過ぎている。品物を返せ、戻せ、借りた銭は返す、戻す、直ぐあの品物を返せ、返せ、返さなければ今の相場に見合った金で返せ』と、言いくさるではないか。そこで、俺もムッとして、こんな風に言ってやった。源右衛門は腹を立てたが、それが道理というものだもの、口も利けずに帰り居った。まぁ、聞きなさい。こんなことだ。『これは面白いことを仰る。ちょっと訳が分かりませんな。成程、最初から売ってくれとはお頼みなさらなかったのは間違いないが、ご用立てしたお金の返済期日が来てもご返済が無いから品物を売ったというだけのこと。これに何の不思議もありますまい。そのための抵当というものではございませんか。それほど大事な大豆なら、最初から抵当なんかにはなさらないのが好かった。つまり、値を上手く売ったのは我の耳で持って、情報を取ったからで、あんたの世話によってではない。又、いい値で売れたからそんなことを言い掛けるが、もし、今当時より値が下がっていたなら、売っても元金になろうはずもない。その時、あんたに向かって、元金に照らしてみたら、現今の値では丁度これだけ不足になるから、その分として何銭何厘入れて欲しいと我から言ったら、あんたは、はいわかりましたと金を寄越すか、怪しいものだ。あんたの言葉に従えば、一円二十何銭というものを我からあんたに遣らねばらならないが、どこの国に金を貸して利息を取られるという法がある。馬鹿馬鹿しくて話にもならん。金を借りた上に利息を取ろうなどとは、あんたも余程虫が良すぎる』と、こう突弾いたので、仕方なしに帰りおったが、どうだ、俺の言うことが道理ではないか。ところが、臭い身は自分では気づかないと言う通り、その後は何かにつけて俺のことを悪く言いくさる。イヤハヤ、貸し借りはしないに越したことはない」と言うと、傍らから品のない顔の男が話の尾を継いで、
「貸し借りもそうなら、嫁取りも婿取りもその通りで同じこと。何でも迂闊にしないことだわ。聞いたか? 俺の弟めが嫁をもらってから放蕩になったことを。仕事もよくすれば、人間も堅気な、そのくせ男振りも我とは違って、村の娘ッ子が騒ぐほどで、まあ今の者には珍しいと村長様のご隠居などにも大の贔屓にされていたくらいだった。それで、堅い上にもなお身を堅めてと、嫁を持たせて遣ったところ、夫婦仲もよし、嫁も怜悧で、これでますます安心と我等初め、頼もしく思っておった。驚いたのはその嫁が来てから丁度九ヶ月で、色の冴えた目鼻立ちの整然とした好い男の児を生んだのだが、いくらしんどい目をしたにしても余りに早く出来たよな、と陰で囁かれるくらいなので、弟にすればなおのこと。大方『お土産』だろうと強く嫁を責めたそうな。けれども嫁は無実な疑いを受けたものだと、何としても剛情を張る。不思議なのは日の経つにつれ、その児が弟に面差しが似て来るので、嫁はいよいよ自分に暗いことは無いと言うが、弟はどう日数を数えてみてもおかしいと納得しない。月足らずだということもあるぞと、我が言っても納得しない。と言って、嫁を出そうとしても、嫁は絶対に無実だと言って出て行かない。で、遂に自棄酒の暴れ飲みを始め、手当たり次第、近所の娘や後家を摘まむという、全く滅茶苦茶な事になってしまいましたわ」と、自分の弟の恥も忘れて語るのを聞いて、
「アア、世の中には似たことがあるもの。女というのは得てしてそんなものか」と、自分の身の上に引き較べて思い寄せれば、酒も不味くなって、その店もふらりと出て行った正太郎。夜も更けたが、家に帰るのも面白くない。帰り道を横に外れて、我が女房よりも古い馴染みの彼奴の所へ行ってみるかと、足は悪所(*遊郭)へ。
つづく




