幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(44)
其 四十四
作平のために危うく捕まえられそうになったのを、振り切って逃げ出した久四郎、元の巳之助の所へしか他に行くべき場所も無く、恥を隠して意気地も無く立ち帰った。
顔や姿のただならない態や、小鬢先の怪我、衣類がびしょびしょになっていることなど、数々の不審を問われたが、何とかうまく誤魔化し言い繕った。それを怪しんでさらに糺すのかと思ったが、巳之助夫婦は、ジロリと一瞥しただけで、久四郎の話すことをそのままに聞き流し、傷薬をくれ、衣服を与えてくれた上、何も言わずに、休め、休めとだけ言い捨てて、その夜は事無く皆眠った。明くる日になっても前の日のことは何一つ糺そうとせず、その次の日もまた同じように互いに知らない顔をして済ましていた。
そうされては又、久四郎の胸の苦しさは劫って責め問われる苦しさよりも増し、ただこの前途をどうしようと悶々とするばかりであった。ますます阿呆のようになって、自分でも自分と自分の身体は、気が抜けて、気力というものが全く無くなったのではないかと思うほど、魂を抜かれたようになって日々を送っていた。
「のう、久四郎、そう考えてばかりいても天から福は落ちてこまい。まだ考え方を直して、一から生まれ変わろうという気持ちにはなれないか。どうだ、下らないことばかり考え込んで、いつも同じ筋を腹の中で繰り返していては人間が馬鹿になる。過般から何度も言った通り、古いことは全部忘れて、一稼ぎの一歩を踏み出してみるが好い。犬も歩けば棒に当たる。世間を狭く見るものではないぞ。くさくさするのは男児ではない。心が乱れていると見たので、あの四、五日前、夜更けてお前が帰ってきた時は何も言わずに黙っていたが、お金の内々の噂で俺は知った。小鬢先の傷もただの傷ではあるまい。刀の折れはどこへ置いてきた。余りにも智恵が無いではないか。情の深いのにも程があるというもの。寝返った女に痛い目を遭わせたとして、何が男児か。愚痴も大抵、もう見切り時。悪いことは言わん、俺の考えにつきな。京屋のご主人様が物わかりが早くって、ぴったりと家中に口止めをされていたからこそお前もこうして居られるものの、あの時もしも夜盗だと届け出られて突き出されたらどうする。いくら歳が若いにしろ、俺があれ程言って聞かせたことも忘れてあんなことをするとは、お前も分からなさ過ぎる。京屋様の思っておられる所、俺の言う所を汲んで、決してもう、もうあんなことをしてはならん、気をつけるがいい。お初とかいう女もあの翌日に、相当の手当をやって主人夫婦が隠居の勝手な言い草をどうしても聞き入れず、遂に追い出したという話だ。『このような者を家に置いていては、例え当人の身に不埒なことが露ほども無くても、何かの拍子でどんな騒ぎになって家の名を傷つけるようなことになるかも知れませんので』と言う主人の言葉には隠居も争いかねて、お初を出してしまうと、いやもう碌でもない奴の続きは碌でもないもので、お初の叔母とかいう婆が京屋へ座り込んで強請をかけ、お初は既に相応な手当をもらっているのにもかかわらず、その上に又、一塊、隠居の懐中から奪って行ったそうな。皆こんな風な碌でもない血族の者に思いを掛けたというのは、よくよくお前の不運。しかし相手も京屋から出されているから、少しはお前の腹も癒えるだろう。ここらで忘れてしまうが良い。幸い明日から俺はある大家に頼まれて、何日か旅をするので、お前を荷物持ちに頼もうと思っている。熊本の鉱山(*鉱物の産する山)までの往復りを総勢十人ばかりでするのだ。途中も随分面白いだろうし、又、その旦那に取り入れば、お前の身くらい何とでもなる。太っ腹の懐の広い、中々勝れた器量人で、俺を贔屓にして下さる人だから、お前の身の上もやがては頼んでみるつもり。どうだ、久公、めそめそしなくてもちょっとは豪気なその旦那の気にでも同化れてみるが好い」と、最後の味方である主人の親切に逆らいようも無く、鉱山見の同伴となって行くが、聞いたことと違わず、大江満之助という男の度胸の太さ、根性骨の堅固さ、往復十日余りを費やし、金も千両近く捨てて、とどのつまりは、この山は見込み無しと、一切水の泡にしてしまうにも関わらず、怯む色など鵜の毛ほども無く、大口を開けて気さくに物語り、気さくに飲み、同伴一同にも過分なほどの賞銭を取らせて帰って行ったのには、久四郎もただただ驚くしか無かった。
大江がいよいよ鉱山の仕事に取りかかると決まれば、久四郎の身の上を頼んでみようと考えていた巳之助も、その当てが外れたので、大江には言い出しかねて、しばらく黙っていようと思っていたが、久四郎の身にとっては、今や一日も遊んでいるのが心苦しく、何か仕事を、仕事をと、尋ねていた。そんな折、フト主人の知り合いの卯平次がやって来て、『これこれの事情で筆屋の正太郎の方で人が欲しいそうだ』と、主人に語り、心当たりは無いかと訊いているのを傍で聞いていて、
「その仕事、是非小生に」と、自ら望んで筆屋の方へ赴いたのだが、ばったりとそこで出会ったのはその家の女房顔した奴、今も忘れられないお初であった。
つづく




