幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(43)
其 四十三
「お初という奴に心を喰われてからというもの、一時も忘れることなく、夢にも現実にもいつも当たり前のようにお初のことが頭にあるので、頭の中剃(*髷などを結うため、頭の中央部の髪を剃っている部分)から、足の神泉(*足裏ののツボ)まで知って、知って、知り抜き、障子の外の咳一つにしてもお初本人か他人かの区別はもちろん、嬉しい時にはどんな目遣いをするとか、恥ずかしい時にはどんな風に首を曲げるかとかまで、洩らさず分かっていて、平生真夜中近くには必ず一度用足しに行き、又きちんと雨戸を開けて、どんな寒い夜でも手を洗うということも、寝付かれずにいた幾日もの夜で知っている。おのれ、今宵もおそらくそうするのだろう。笑って笑って、馬鹿だのたわけだのと、言われていたその馬鹿めたわけめのこの俺が、おのれの思いも寄らないところから現れ出て、今宵こそ馬鹿の上にも馬鹿なことを仕掛けてくれよう。泣くな吠えるな、この俺が恨みを復し、仇を報うというほど怜悧らしいことをする者とは思いもしないだろうが、成程、恨みを復そうともせず、仇を報おうともしない代わり、盗まれたか壊されたか、昔に復れない自分の心と同じ目を、今度はおのれの身にもきっと味わわせてやるからな。ヘヘヘ、イヤ、なに小癪な、大袈裟な、そんなことでするのでは無いけれど、枝に残った栗の毬か、虫の入った無花果と同じで、手のつけようもなくなったこの壊れものの俺の身体を、こういう風にして下さった怜悧なお人に叩きつけて、いっそ生命ぐるみあげてしまおうというだけで。ヘヘヘヘ、汚れたものをお取りになれば、お手が汚れるのと同じこと、壊れたものをあげますれば、お気の毒ながら、お身体も一緒に壊れましょうが、ヘヘヘヘ、それは何ともご辞退なさいませんように」と、鉢前に立つ南天の根方に、繁っている葉蘭(*ユリ科の常緑多年草。地面から大柄な葉が立ち並ぶ)を押し分けて隠れている久四郎、筧から溢れ落ちる雨水が生憎と頭に肩に掛かり、肉を切るように冷たいけれど、胸に燃え立つ執着した怒りや憎しみの毒火の威力に打ち忘れて、今や今やと待ち構えていた。
夜半が過ぎたけれど、森々として咳をするものさえ一人も無く、自分が死んでその身が朽ち果て、苔生す地下に横たわって睡ればこんな感じであろうと思われるまでにひっそりとしていて、静かに夜はさらに更けていった。
もしかして、お初はもうこの家には居ないのではないか、ご主人様の両成敗の結果、自分のことでお初を追い出されたか、あるいは、隠居が別の家にお初を囲ったかと、疑いが頻りに頭をよぎったその時、人がこちらへ来る気配がして、障子を開く音が響いた。
『もしかして!』と、固唾を呑んで待っていると、縁側を歩む足音は確かに記憶のある奴で、片手に雪洞(*小型のあんどん)を携えているのだろう、戸の隙間を洩らす数条の光は、黒闇の中を歩みに従って動いてくる。
引きそばめた刀の折れを、又今さらに緊しく把って、思わず高くなる息を辛うじて和めながら、機を窺うこの一刻の長いこと、永遠に続くかと思われるほどであったが、そうこうしているうちに、雨戸の留めをかたりと外す響きがすれば、途端に全身の毛孔が立って、熱い血が頭に衝き上り、今さらのように胴震いまで起こった。そんなこととは知らず、雨の飛沫に潤って、戸道の滑りも好く、するりと一枚戸を引き退ければ、燭光がサッと走ると同時に、久四郎の眼に入ったのは顔仄白く、ぼっと見えたお初の姿。一言の言葉を発する間もなく、すっくと立って、左手で衣裾を掴んで手許に引く拍子に、右足と右手とを共に進めて、力一杯切りつけたが、慌ててしまい、戸の縁の親骨を充分に切りつけてしまった。
「アレーッ」と、叫ぶ声、蹴返す雪洞、ますます慌ててしまって、滅多斬りにしてやれと焦って打ち下ろす刃は、敢え無く折角掴んだ衣裾を切るだけで、倒れかかったお初は必死に振り切り捨てて奥へと逃げる。おのれ、逃がしてなるかと、心は乱れ、分別も無く追い縋ろうと椽へ片足と掛けるが早いか、声が早いか、耳を貫く震え声で、
「ど、ど、どろぼう!!」と、大喝するのは、紛れようもなく主人の叫び。氷の滝を浴びる思いに身体が縮んで力が脱け、一、二歩後へ退る時、日頃から腕自慢の下僕、作平親父のドスの利いた声が背面の方から耳に響いた。これに驚き、我を忘れて逃げ出せば、足音も烈しく追いに来る様子。ようようにして生け垣を押し破り、例の小流れの縁に出たものの、『畜生が!』と言う声の下、砕ける程に肩を撲たれて身体は横様になって流れに落ちたが、その機に下女が明日洗おうとして水に浸して置いていたものか、水底にあった鉄鍋に鬢先を烈しく傷つけた。
つづく




