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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(42)

 其 四十二


 壊れかかった物置の横を狐のようにするりと脱けて、水口(みずぐち)へ廻りかけ、聞き耳を立てて中を伺えば、天の采配(さいはい)か、台所には誰も居ない様子であった。人情(なさけ)深い主人(あるじ)夫婦に背くのは済まないと、心の片隅で思いながらも、這い身になってそろりそろりと半ば開いた腰高障子の影を伝って行く。首を差しのばして中を覗ってみると、きちんと片づけられた流しの元の、入口に伏せて干してある手桶が邪魔であるが、それの寄りかかった大水(おおみず)(がめ)の向こうの羽目板にある庖丁挿しには、望みの大出刃(おおでば)()切刃(ぎりば)と共に掛かっており、その上にちょっと引っかけられた小さい(ざる)の目の間から、さも切れ味の良さそうな、心地よく恐ろしいまでの光が放たれて、久四郎の目を射貫いた。胸はいよいよ寒気を覚え、腰はわなわなと震え出した。


「エエ、不甲斐ない、ヘヘヘ、これが馬鹿というものか。これが意気地無しというところか。畜生! 笑え、笑え、笑え蛇め」と、ガタガタしながら伸び上がって、笊を取り下ろし、今や庖丁の柄に手を触れようとする時、お浅の足音がして、

「気味の悪い人だの、久四郎(さん)、久四郎(さん)何処(どこ)にもいないかえ? ついさっきまで居たと思ったのに、どこへ行ったのか影も見えんわ」と、独り言を言いながらこちらに探しに来る様子。

 南無三、見つけられてはと物置の方へ引き返して身を隠そうとする途端、転がし捨ててあった(まき)(わり)(だい)に足を引っかけ、拇指(おやゆび)の爪を(つっ)()がせば、痛さに堪えられず歯を噛みしめ、そのままその場に音もさせないようにして少しの間しゃがんで、眉根に皺を寄せながら片手で傷をしっかりと押さえて、両眼を固く閉じていた。ようやく気持ちを取り戻して眼を明け、傷を(あらた)めると、傷自体はそう大したこともないが、血は思った以上に多く出ていて、薪が薄く削げた物やら柴屑やら、足下近くの塵芥(ちりあくた)は血潮に染みて紅色(くれない)になっているが、その中に(きら)りと光る物を見つけた。不思議なと、よくよく見れば、()き付けなどをする時のために置かれた物だと思われるが、刃もまだ鋭く、錆もそんなに付いていない刀の折れたものであった。人を斬るものの成れの果てがこう落ちぶれて、女房(かか)が気がつかないまま仕舞い忘れた奴に間違いない。幸い籠身(こみ)(* 刀身の(つか)に入った部分)も襤褸(ぼろ)(ぎれ)で手頃に()かれている世話の無さに、久四郎、手に取ってみて莞爾(にっこり)と笑い、天を仰いで又笑い、袂の中の襦袢の袖をめりめりと千切って、クルリと巻いて、懐に入れて又笑い、雲の流れの速い空の(はず)れに四日の月が微かに白く、時折一連(ひとつら)なりの雁が鳴き渡っていく夕間暮れ、久四郎はどこへともなく紛れ去って行った。


 某月某日の夜になって、秋雨が淋しく降り出し、時候も急に寒くなり、道行く人も途絶えがちになった十時近く、表通りの家並みとは打って変わった裏通り、一方は小さな家が(まば)らに野菜を作る畠などが続き、小流れで隔てられたもう一方は、板塀あるいは杉垣あるいは槇の垣などが連なって、少し離れて蔵、物置なども見える好い町家の裏手続き。その物静かな細道を雨も厭わず辿(たど)り辿って、後先(あとさき)を見廻しながら流れを渡り、植え込みの根をあちこち探りつつ、下枝(したえだ)が上がっている地面の隙から忍び入った久四郎、勝手知った場所ではあるが、気持ちが臆しているのか、一足歩いては立ち止まり、二足歩いては立ち止まりして、庭木を鳴らして降る雨の音を頼りに、少しずつ母屋へ紛れ寄りしながら近づいて行くのであった。


つづく

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