幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(41)
其 四十一
三日ばかり経ち、例のお金という女がやって来て、しばらくお浅と笑い交りに談話をして帰って行った。その後、久四郎はお浅からお金の談話を聞かされたが、その一つ一つを聞いていくほどに、万々一の望みも絶えてしまった。
久四郎が阿呆払いにされたその翌日の夕方に主人夫婦が帰ってきたこと。久四郎に罪はあるとしても、その処置は無慈悲すぎると、主人は隠居を少しは恨んだ様子であったこと。そして、たとえば、ご隠居様が何と仰ったとしても、自分が神詣りで不在なのだから、どんなことをしてでも久四郎のために取りなして、自分の帰りを待つようにすれば良かったものを、その分別が無くてはいけないはずの番頭の身でありながら、そうしなかったとは、主人の気持ちをも推し量らず、同僚としての情愛にも欠けていると、主人が番頭の當八を叱ったということ。三蔵、五助も同僚のために再三取りなすべきであったのに、一言も言わず黙っていたのはこれ又、情の無い根性だと散々叱られたこと。お初も又、お初で、久四郎のためを思って今まで隠していたというなら、文などは他人の眼につかないよう、焼くなり捨てるなりしておくべきだったのに、他人に拾われてしまうとは、何だか言っていることと合わず、人情というものはそんなものではないはずだと、不快感を示されたということ。よしんば、久四郎に罪があって追い出されたにせよ、彼には親も無く、兄弟も、身内も無く、京屋を自分の家とも親の家とも思ってこれまで育ってきたのは誰しも知っているのに、その行く先がどうなろうとも考えず、どこに落ち着くのだろうと大体でもその行く先を誰一人として聞いておかなかったとは店の者も奥に居る者も皆、揃いに揃って人情無しの奴ばかりと、一同を主人夫婦が罵ったことなど、以上、いくらかのことは久四郎にとっては、溜飲の下がる思いがするご主人様の有り難い話であるが、お初の腹の中では、疫病神同様の久四郎が居なくなって、確かにこの上もない悦びと思ったのか、元気よく楽しげに日を送っているという。又、隠居がお初に手をつけたことは、隠居の素振りやお初の動静に主人夫婦を初め、誰しも今は承知ているけれど、年も老った親のことでもあり、又、お初も特に危ない食わせ物という訳でもないとの含みもあって、主人夫婦も見て見ない振り、知って知らずの風をしていれば、誰も一言も悪く言わないとのこと。自然、お初が増長して、この頃は高慢な鼻をさらに高くし、望むままに買ってもらえる挿頭や、衣装の美しく上等な物を、頭に戴き、身に纏うなどして、喜々として憚ることなく済ましていること。乳母のお大が何かにつけてお初と口論したことから、隠居のご機嫌を損ね、この四、五日前に追い出されたこと。そんなことは聞くにも堪えられなかったが、その場は久四郎もお浅の手前、苦笑いをして意を隠し、
「つくづく思い断ちました。面白気も無いあんな女を今まで何かと思いましたのは全くの迷いでございました。いや、もう怒りもいたしませんし、恨みも更々いたしません。未練気なしに思い捨てて、当家のお考えにお縋りさせていただきく思っております。この先の身の立て方、どうかよろしくお願いいたします」と言って退けたけれど、思えば思えば、よくも俺を欺いてどれだけの思いをさせて疲れさせてくれたか。烈火で焼いて水に落とせば鉄さえ性を失って鍛冶滓と成り果てるものを、正直一途で、他のことは夢にも知らず、安らかにただその日を送っていたこの俺を散々迷わせ、悦ばせておいた上、冷水どころか、氷のような冷たいところへ蹴落として、よくも俺の魂の安らかさを奪いくさったな。居るにも居られず、起きるにも起きられず、大地に倒れてのたうち廻るより他ないような目に俺を遭わせて、四苦八苦させ、それでおのれは舌を出して『馬鹿な奴』と言って笑いくさるか。ああ、俺は馬鹿に違いない。真に俺はたわけに違いない。いかにも馬鹿に違いはないが、馬鹿にせよたわけにせよ、怜悧な人にこうまで慰み者にされて、笑われるための馬鹿に生まれてきたわけではない。可笑しければ沢山笑ってくれ、陰で指さししてでも、舌を吐き出してでも笑うが好い。焼きを入れ損なった鉄のように、鍛冶滓となってしまったこの久四郎の不幸は、定めし怜悧な人から見たら可笑しくて可笑しくてなるまい。沢山笑うがいい。笑うがいい。ただ、笑ってしまったら、お慈悲じゃ、心で叱っても止めてもどうにもならない心の悩ましさを、何にも知らずにいた昔に復してくれ、戻してくれ。宝を盗めば一両取っても罪になるが、馬鹿は馬鹿だけに千両にも万両にも代えることが出来ないこの心というものを盗み取った人は罪にならないで怜悧と呼ばれ、盗まれた者は間抜けと言われ、阿呆と言われて、好い慰み者になってしまう。だが、それを今、口惜しいとも恨めしいとも思わない。ただ慰んで笑ってしまった上は返してくれても好いこの心を昔の通りにしてくれないのが恨めしい。アア、宝を盗めば罰せられ、心を盗めばお怜悧なお人、物わかりのよいお人、栄えるお人、楽しげに日を送られるお人、智恵の罠に他人をかけ、幼い時からご恩になったご主人様とも離れさせて、そうしておいて後で馬鹿な奴だとお笑い下さるお人、美しい精いものを頭に戴き、身に纏って喜々として澄ましておられるお人、アーアッ、畜生ッ! 鼬め! 笑え、笑え! 笑う蛇め、ヘヘヘヘヘ、どういたしまして、馬鹿がお怜悧なお人を畜生だの蛇だのと言えたことではございません。沢山お笑い下さいませ。ウフ、ウヘ、ヘヘヘヘヘ、成程おかしい愚痴な奴ではございまする。ウフ、ウフ、あの熱病者の乾き裂れそうな喉やら口やらから吐き出される火のような最期の気息、あるいは、刈られた草が三日目になっても未練たらしく持っている緑のように、そうした未練がましさが死にかかった心に残っていたその時、よろよろと地を這い出る念慮の可笑しさを笑って下さいまし。執念の深い馬鹿ではございます。ウフ、ウフ、フフフフフ、さよう、さよう、細い、薄い、お器用な煙のような舌を閃々とお出しになってお笑いなさいまし。畜生! 笑う蛇め! いえ、怪しからんことを、どういたしまして、馬鹿のくせに大それた事を申しました。
「久四郎様、どうかおしか? 何かぐずぐず言っておいでか? 他の物音か? 何だか微かに怪しな笑うような声が聞こえるではないか」と言いながら、お浅が久四郎の引き退いた室に入れば、エエ、不気味な、今まで居たと思われたのに煙となってしまったか、影も形もそこにはない。
つづく




