幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(4)
其 四
玉山の一言に又吃驚して、その指さす所を検めると、成程、そう言われれば自分が描いたものではない小鳥が二、三羽描き添えてある。しかし、それは、ここに恰も自分も同じものを描き添えようと前から腹案していたもので、その筆使いも拙くはなく、全体の画を損ねず、従って眼に障ることもなかったため、言われるまで気づかなかったのである。
思えば、不思議によくもその位置からその題目までピタリと符合させたもの。もちろん、この図の遠近左右を細かく吟味して、その光景、風情を詳しく看て取れば、ここに小鳥の二、三羽が無くてはならないことにはなるが、まだ完成半ばの図を点検し、ここにこれがあるべきだと悟った上で描き中てたとしたら本当に行く末恐ろしく、又、この図を一瞥して考える暇もなく直ちに、これがここにあると面白かろうと感じて描いたものならば、いよいよもって既に画三昧の霊性がその身に入っているとしか考えられない。筆こそ今はまだ幼いところも残るが、画道の神秘は会得していると言わざるを得ず、空恐ろしいものがある。
いずれにしても、この子の将来、他のことに関してはいざ知らず、絵画の技においては、恐らく自分も想像できないくらいにまでに達するかも知れない。贔屓の欲目からかも知れないが、自分の手許に連れてきてからは、一日一日上達して、今では既に世間に名を知られた画人の何人かを凌ぐほどの技量は備わっていると思われ、これから先何年か研鑽を積めば、どんな不思議な領域にまで到達するのやら。
ただ、画道においても学問が無くては不利なことも多いと、諭しに諭して読書を勧め、又、詩文も学べといつも勧めるが、書物には見向きもしない。書物を嫌うことだけが将来の気がかりとなっているが、画の技だけは自らの興味を衰えさせることが無いため、自分の助言はほとんど無意味だろうと感心するやら諦めるやらして、小言も遂にどこへやら。ただ、
「これからは悪さをするな」と軽く言っただけで、その日はこと無く済ませたのだった。
金仙寺からそれ程遠くない小倉の町に、中山堂という筆や墨を商う舗がある。主人の正蔵というのが去年の夏、流行病に罹り、薬も間に合わずにこの世から奪られ、その女房もそれ以降、気落ちしたせいか、柳の散る頃に終に無常の風に誘われて冥土に行ってしまった。ただ一人残った倅の正太郎というのが今の主人となったのだが、歳は二十五の遊び盛り。家におさまった女房はいないが、幸い商売の道には賢く、筆造りに関しては親爺の正蔵にも優るくらいと言われるほどで、両親が亡くなったと言え、住み慣れた家に『売り家』と書かれた不吉な紙札を斜めに貼るようなことも無かった。商売の額は同じであっても、食い扶持が減った分だけ、劫って気楽に暮らしていたのである。しかし、正太は歳も若く、誰も注意を与える者がいないため、腕は好いけれども自然と何事につけても手抜かりが多くなりがちであった。食事にしても、特にお仕着せの物は好まず、好きな酒に酔って一夜半夜を他所で遊んで過ごすことも無きにしも非ずであった。そんな暮らしぶりではあったが、自分の好みの筆を造らせようという者は居て、それはいずれも文人墨客の類いであったが、算盤尽くめの人とは多少違い、一日二日約束を違えても強いて責めることもしないばかりか、別に金儲けを第一としない一風変わった気性の正太を愛する傾向さえあった。
そんな状態なので、正太は一ヶ月にいくら利益があって、いくら金が出て行ったのかもよく分かっておらず、朝夕の煮炊きのことを兼ね、小さい店の手助けまでする小僧一人と二人で暮らしていた。別段驕っているという訳ではないが、金があれば棒手振(*天秤棒を担いで物を売る商人)にとってはお得意様で、金持ちがられ、又、金が無ければ無いで、沢庵で三度四度も済ましながら平気な顔をしているという調子である。
画僧栽松も又この男を愛していて、前月から刷毛二つと筆四、五本を頼んでおいたので、玉山を走らせて二、三度催促をしたが、いつもあと少し待ってくださいと、埒が明かない。ある日、今日こそはと、又、玉山を町へ遣わしたのだが……。
つづく