幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(39)
其 三十九
梢を染める夜の雨が窓の外でさらさらと音を立てる他は、何の物音もしないしめやかな刻、珍しく今宵は泊まり客も皆無であることから、宿の夫婦は差し向かいで愉快気に酒を飲んでいた。誰に遠慮することなく談話の声も高く、女房もいける口なので調子よく、亭主と同じくらい笑い興じて、惚れた者同志で会っていた昔のことでも話しているのか、他人には分からないことなどを何やかんや、あれこれ睦まじく語り合っては笑っている様子である。
今は病気もほとんど治っているが、起きて何かをしてみたいとも思わなければ、何をする目的もなく、張り合いを無くして、暇さえあれば単に眠りを貪るのが癖となった久四郎、今日も今日で、暮れるとやがて夜具を引っ担いで、用もないまま床に就いたが、主人夫婦の語らいを聞くともなしに陰で聞いていれば、話は最後に久四郎の身の上に移って、
「まだ寝てはいないだろう。起こしてこい、一杯飲ませてゆっくり事情を尋ねた上で、これから先、どうすればいいのか考えてやろう」と、亭主が言うと、
「アア、それがようございます。来てから突然病気騒ぎで、碌々どんな人なのかを尋ねもしないで、私も今日までは身体に障ってはと、お前さんの指図がないので何も聞かずにおりましたが、呼んできてみましょう。寝込んでもおりますまい。一昨日の夜、私の言った察しが当たるか、お前さんの言ったことが当たるか聞いてみましょう。この頃の様子では、もう気味の悪いことを口走りはしないと思われるくらいに大分落ち着いてきた顔つき。しかしお前さん、待ち構えたようにして、いつもみたいな手ひどい言葉はお掛けなさるなよ。むらむらとでもさせるようなことになったら、とり逆上せて、又、訳の分からないことを言うようになるかも知れないから」と、女房は言い置いて、わざわざ立って久四郎の室の方に近づき、立て付けの悪い、しっくりと合わさっていない襖の隙に口をつけ、
「久さん、久さん、まだ寝てはいないだろう。騒いでいたので寝付かれなかったろうに、起きて来て一盃お飲り。亭主でもあんたに話がある」と呼ぶので、知らん顔も出来ず、帯を締め直して襟元をつくろいながら、
「ヘイ、有り難うございます」と、手代気質のまだ脱けきらない言い回しで、律儀に礼を言いながら、主人夫婦を前に、州浜の形(扇形のような形)に坐った。
「ウム、血色も良くなり、眼も過般のように怪しくどんよりとしておられん。後もう半月も経てば元の好い男児になるだろうが、そうしたら又、女の子が放って置くまい。アハハハハ、まあまあ一つ飲むが好い。お浅、お前の言った通り、艶々として好い男になるのももうすぐだ。お前、明日顔を剃ってやるが好い。髭だけがまだ病人くさくて、残念なことに好い男児に損をさせている」との亭主の冗談に、
「そうそう、明日剃ってあげよう。そうしてその剃刀のついでにお前の顎のも、切れ味がなくなったところで、ごりごり芟切ってあげよう」と、女房も若干酒に酔った返事。久四郎だけが酔ってもおらず、遠慮もあるので、生真面目な顔をしてもじもじとしていたが、世馴れた夫婦の中に挟まれて、二盃、三盃と強いられると、病み上がりの酒の回りは早く、屈託無く話し合う嬉しさもあり、何時しか酔って、何日ぶりかで、今まで凍ったように表情の無かった顔は珍しく紐がほどけて、笑い声さえ洩らすようになった。お浅、巳之助夫婦が何十年と交際っている友より篤く、又、骨肉の兄弟より優しく、自分の身の上を聞いてくれるので、一生言わずにおこうと包んでいたことも愚痴混じりに、ぽつりぽつりと語り始めた。
お初の薄情さ、隠居の酷さ、お大の五月蠅さ、三蔵、五助の面の憎さ、我が身の甲斐の無さ、これらを打ち交ぜて泣き顔半分、恨み顔半分で長々しく一部始終を語り終えれば、主人の巳之助は笑い出して、
「お前も余程の昔男だ。ハハハ、久公、しっかりするんだ。大抵それは当たり前のことだ。少しもとやかく言うことは無い。お初とやら言う女も、その又、京屋のご隠居という誰やら、それやらも、皆普通の男や女だ。世間に沢山いるありふれた男や女だ。珍しくも何ともない。それらを一々薄情だの、酷いだの、五月蠅いだの、面が憎いだのと言うのは、そっくりお前の馬鹿さというものだ。断念なさい。下らない。世間は大抵そんな者が寄り集まってできているものだと思ったら腹も立つまい。詰まりはお前が世間というものをよく知らないから四苦八苦するだけのこと。マア、その女を一晩でもお前が抱いて寝たとでもいうなら、そりゃあ随分と我慢が出来ないこともあるかも知れんが、どうせ慾から隠居なんかの言うことを聞くような面白くない女なんか、二貫か三貫、袂に入れて行けば今夜が今夜、直ぐにでも往来で拾うことが出来るわ。アハハハハ、下らない下らない。女児童の読む草双紙に書いたところで、退屈するような話だ。お前も立派な男児なのに、思いのほか下らない。京屋の身代といっても、鬼が造ったものでもないだろう。根性さえ締めてかかったら、お前が老夫になる時分には案外お前が今の話の隠居の様なことをして、又、他所の世間知らずの好い男に苦労させるかも知れないくらいだ。思い切れ、思い切れ、恨むな泣くな、そんなことに」と、心は親切なのだが、全く同情も表してくれない言葉に、久四郎は差し俯いて黙っているしか出来なかった。ただ、その傍から、
「それはそうでも、そう蹴飛ばすようには言えないものを」と、流石は女、優しくも味方になってくれるらしい口調で、お浅は口を出してきた。
つづく




