幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(38)
其 三十八
誰しも惜しむ命を捨てて死のうとさえするのに、死のうとしても又、死にきれない身の情けなさに、自分自身ほとほと厭になり、もうどうにでもなれという気持ちがありつつも、済まない済まないと思いながら、宿の夫婦のしてくれるままになっていた。
なおもこの世に生きて、業苦を受けなければ前世の罪が消えないというのか、病は日を追うごとに軽くなり、あっても嬉しくもない生命をとりとめ、虫の息ではあるが、昨日も今日も照る日の光り、月の光を変わることなく見て過ごした。
「久公、どうだ、少しは好くなったか。病気は大抵気分次第で良くもなれば悪くもなるものだ。ちっぽけな根性でくよくよするものではない。何をするにも資本の身体を粗末にしては始まらない。エエ、コレ、礼など言うには及ばんわ。人間は相身互いだ。どうかして又、俺がお前にどこで厄介になるかも知れんからな。マア、気を大きく持って身体を労ってやり、良くなったら、その上で、又何か相談にも乗ってあげよう。貧乏をしていて金はないが、思いやりはあるつもりだ。俺のところへ来たのも縁、悪くはしないから精々飲むもの、食べるものを飲み食いして、身体に力を出さなくてはいけない。何か色々と事情があるみたいだが、何事も強いものには負ける世の中と、そう割り切っておけばいいだけだ。その内、自分が強いものになりさえすれば好いのだから、別段焦ることもない。俺も前には女のことで丁度今のお前のような姿になったこともあったが、いやその時は頼れるものは世間に無し、西を向いても東を向いても恨みのある者ばっかりで、いっそ死にたい、死んでしまいたいと泣き面になって苦しんだが、今になってみれば夢のようで、何と馬鹿馬鹿しいことか。彼様思ったけれど、生きてみれば生きられる機会もあったのに、何をどう迷ったかして、あちこちを恨み廻ったかと、自分で自分の愚痴を可笑しく思えるくらいだ。なぁに、世間は廻り燈籠、憎いのも百日か二百日経ってしまえば終わってしまうわ。逆に、可愛のも嬉しいのも又、百日か二百日で済んでしまう。全身の筋骨が疼くほど腹の立つことも、少し遠ざかってみればそれ程でもないから可笑しい。まあまあ嘘は言わない。俺の言う通りにして、ゆっくりと養生するが好い。アア、気がつかなんだ。長話をして根気を使わせて悪かったな」と、優しく慰めてくれる主人の親切。骨身に浸みて嬉しく悲しく、立ち去っていく後ろ影を、涙を落として見守った。
力こそ脱け、肉こそ落ち、又、根気こそ乏しくなったとはいえ、十日過ぎ、二十日と経つにつれ、杖に頼らなくても路も歩け、草履を履いても躓かないようになった。今まで阿呆のようになっていた時は、気持ちをしっかり持つこともできなかったが、身体が徐々に快復すると共に、何かにつけて再び、お初を恨む気持ちがふつふつと火のように燃え上がり、我が身を儚む愚痴は、じくじくした地面を水が浸すように湧いてきた。恩はあっても恨みなどはない京屋の主人夫婦、報すに報されないほどの情をもらった宿の主人夫婦への義理は弁えないでもないけれど、他人には言えない胸の内には、迷いの黒雲ばかりを蓄えるのであった。
つづく




