幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(37)
其 三十七
うっとりとして、夢のように眼を開いて見れば、宿の主人夫婦を首として、人々が自分を取り巻いて、
「やれ気がついたか、もうしめたものだ」と、喜びさざめいている様子。
さては自らの憤怒に身を攻められ、自分のことが分からないようになった瞬間、意識を失ったのかと、ようやく悟りはしたけれど、まだ身体の中が平常の状態と違って、言葉も発することもできなかった。そのままじっとして、なされるがままにしていると、医者と思われる男がやって来て、もったいぶった仕草で脈など測ったりして帰て行き、その後、生姜の香のきつい熱い薬を飲まされたが、しばらくすると、二十里も歩いて疲れ切ったようなへとへと感が強くなり、意識が朦朧となって、再びこんこんと眠りに入った。
暖かな暮らしをする者に冷たい情を持つ者もいれば、寒い暮らしをする者に暖かい情を持つ者もいる。
縁というものであるにしろ、久四郎が偶然に泊まった宿の主人の巳之助という者は、貧乏はしているものの、物分かりがいい上に、少しは男を売りたがるところもあって、久四郎の身の上を早くも合点し、
「大店の番頭か手代かは分からないけれど、おそらくそういった者が、女のことか金のいざこざで過ちを犯して、いわゆる世間にありがちな、どうにもこうにも動きが取れなくなった人に違いない。見たところ根性も悪では無さそうな眼つき口つき、可哀想だが病気といっても死にはすまい。介抱しておいてやれ。なあ女房」と、同じような気質の人間をどこから引っ張ってきたのか、普通の生活を送ってきたとは思えない女房に言えば、いぼじり巻(簡単に束ねて巻いてピンで留めただけの髪)にした頭髪の乱れを歯の粗い櫛で邪険に引っ掻きながら、
「そうそう。ほんに気の毒な。いい男なのに追い出すのは無慈悲だもの。お前さんが一晩どこかに泊まったことと思えば済むこと。十日や二十日は無銭で置いても知れたものさ。私等はどうせ金を溜めようという気など無いのだから、薬も飲ませ、美味い物も私が沢山喰わせてやって、艶々した好い色気の男に仕立ててやるから今にご覧だ」と、そんな風に応えるのも又、風流ではある。
亭主は聞いてニコつきながら、
「ハハハ、そうやってお前がからかえば好い、男の好いのは得をするな」
「ヘン、おふざけで無いよ。青二才でもあるまいし、好い男と言ったのがお癪に障ったかね」
「ハハハ、そうじゃないが、美味い物は俺にも喰わせてもらいたいからだ」
熱病というものはお医者様仲間ではどんな風に言うのか知らないが、とかく人間が不幸せな時に掴む物。憐れ久四郎、恋と恨みの二つに攻められた上、熱病にまで攻められて、身も心もほとほとその苦しさに堪えかね、助けるお役目の神様にさえ、『早く死なせて』と、真に祈る程までになった。
つづく




