幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(36)
其 三十六
「気を落ち着けて、私の言うことをよくよく聞いたその上で、怒るなり何なりどうともお前の好きにすれば良い。詳しく言えばこういう訳。聞けばきっと業も煮えるだろうが、実はもう随分前のこと、私がお坊ちゃまと一緒に次の間で寝ているその上の間で、旦那様とご新造様との寝物語を聞くともなしに、うとうとしながら聞いていたのだが、どうやらご隠居様がお初に御手をお付けなされたとか、お心をおかけなされたみたいだとかで、困ったことが持ち上がったと、ひそひそ話をなさる様子。それから私も他人ごとの要らぬお世話ではあるけれど、お初めの素振り、ご隠居様のご様子にも気をつけて見ていると、何かにつけて、ご隠居様はお歳甲斐も無く、『お初、お初』と、あの子をお呼びつけなさりたがる。お初めは、又、ご隠居様のことと言えば、身に引き受けて忠義顔して働く。ご隠居様のお眼遣いも平常ではなく、お初めの身のこなしも妙にしなしなして、媚びつくだけではなく、ある時には奥のお別房で、見るに見かねることも目に入り、聞いてはいられない声が聞こえたこともある。その中、お初めの着物が変わってくる。帯留めが粋になってくる、帯が上等になってくる、襦袢の襟も以前のような平金では無い綯金の刺繍の入ったのになって来る、頭上の物も安物の洋銀は無くなるという調子で、すべて身の回りが光ってきた。それは、多分、男のお前の眼にもそう見えたことだろう。いい歳をしたご隠居様もご隠居様だが、いかに金持ちに媚びへつらいがちな当世でも、長右衛門の親父とも言いそうなご隠居様を捉えて、慾でお半の形を行くお初もお初。(*お半、長右衛門は歌舞伎、浄瑠璃の登場人物)小面憎くて、腹は立つが、内でこそ言わないが、外では襤褸買いと評判のご隠居様が好いことをなさるだけのこと。それを嫉妬で自分の気分を悪くするのはおかしいと、見ても見ぬ振り、聞いても聞かぬ振りをしていると、一昨日の夜のこと、丁稚の彦をあの別房にお呼びになって、ご隠居様の長い間のひそひそ話。彦という奴はあの通りの猪口才な小児。ご隠居様の命令でもあり、幾らかもらえば、図に乗ってどんなことでもしようという奴。昨日のことも彦が関わっていて、確かにその夜の話から始まったこと。又、その夜、彦めが出た後、お初めがご隠居様に呼ばれて行ったので、要らぬ事かも知れないが、何かと耳を立てて聞けば、ご隠居様の声で、『久も明日限りでおしまいじゃ。お前も安心するが良い。しばらくすれば身の落ち着き所も何とか考えてやるから、そうくさくさするな』と、仰れば、『ああ、私も安心しました。疫病神が追い出されるとは、本当に嬉しゅうございます。ただ、それはそうでも、一つ叶えばまた一つとかで、これから又、旦那様ご夫婦が何と仰ることやら、それが心配でなりません』と言うのを、『ハテ、そうくよくよするな言っているではないか。喜太郎夫婦が何と言おうとたかが俺の倅。俺がこうと言い出せば、彼等が何を言えるものか』と、背中でも撫でながら言われているような様子。さては、旦那様ご夫婦が太宰府に行かれた留守を幸いに、お前を計略に落として、明日、お店を追い出すつもりかと、私は吃驚したけれど、そのことをお前に教える間もなく、昨日の次第。腹が立って、口惜しくて、悲しくて、私の胸はどんなだったか、三年この方、陰に陽に、お前のことだけを思っていた私の胸の苦しさは、その時ご隠居様に口汚く叱られていたお前にも勝るとも劣らない。今日も今日、ほら、これを見て下され。エエ厭な奴、しみたれたなと、厭がられるかも知れないが、何をしようにも差し当たって、お前を不自由にさせてはと思い、お給金やら、予定外の頂き物やら、貯めて置いたのを全部身につけて持って来た十両足らず、少しではあるけれど、私の心ばかりの物として、取っておいてくだされ。愛しいお前に使ってもらえば私の本望、こんな嬉しいことはない。その代わり、私の断りなしに絶対に遠くへ行ってくださるな。私に心当たりもある。お前のことを、これだけ思っている私の気持ちをちっとは可哀想と思ってくれるなら、遣りようは幾らでもあるのだから。……返事の無いのは不承知か、気にくわないとの腹立てか、俯伏したきり黙っているのは、まだお初めを思い切れずに、悔し涙を流しているのでございますか。これほど私が情を立てているのに、エエ情無い、聞き分けの無い」と言いながら、手でもって推し動かせば、これは一体どうしたこと、泡を吹き、歯をくいしばったまま、顔は土色、眼は閉じて、何時の間にか男は呼吸絶えた様子。
「あっ!」と驚き、度を失ったお大は、下司の本性を現し、関わり合いを恐れてか、辺りを見廻し、人がいない様子にようやくホッと息をつくと、出した金子を手早く懐に入れると、どこへともなく逃げ失せて行った。
つづく




