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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(35)

 其 三十五


 見られるのも恥ずかしいこんな所へ、昨日の今日というのに、どうやって知って、誰が訪ねて来てくれたのか。お(はつ)か、いやいや、お初めが来るはずがない。お(だい)か、そうだとしても自分がここに来たということを知るはずはない。たとえ、知ったにしても、何故自分を殊更訪ねて来るのか。日頃、あの肥った大きな身体を振り廻して、いやらしく自分を追い掛け、反吐(へど)が出そうな()()()()()()眼付きでもって、『私に触れて頂戴、直ぐにでも落ちて見せるから』みたいな風にされるのが厭で厭で堪らず、風下にも居ないようにして、彼女(あれ)の影が見えれば、()っと立って逃げ、物を言いかけられそうになれば、突と後ろ向きになるほど()()なくしてやったが、それを今はそのお(かえ)しだと、この俺のこんな(ざま)を『それ見たことか』と笑おうとやって来たのか。エエ、腹立たしい。落ちぶれれば詰まらない奴にまで馬鹿にされる。お初と話をしようとしても、文を渡そうとしても、あいつがいつだって俺の後にくっついてまわるので、どれだけ邪魔になったか。散々困らせ切った上、またぞろここまで来て(たた)るとは、好淫婆(すけべぇばばあ)め、いい加減にしやがれ。会わない、会わないわ。と、独り言を言って、

「居ないと言ってくれ」と言えば、

「もう、いらっしゃいますと、申しました」と言うので、ますます癇癪が起こったけれど、『いやいや、お大とは限らないぞ。他に心当たりの女もいないが、もしかしてどんな人なのかも分からない。京屋を出る時、頼みもしないのに泣き声を立てくさったが、その時は何となく腹立たしく、厭で堪らない奴だったが、もしもお大なら、ムム、京屋の様子も聞くも()し。心に掛かった今朝の夢見も、万一(ひょっとして)本当のことかも知れず、聞き(ただ)すのには格好の人物。エエ、忍耐(がまん)して会ってやろうか』と、

「それなら仕方が無い。会ってやりましょう」と言った。

 やがて入って来たのを見れば、案の定、(うす)に手足を生やしたような()()()殿()であった。


 見るからに虫唾(むしず)が走って、厭で厭で堪らないのをグッと押さえ、大真面目の顔つきで、

『何のご用でいらっしゃった』と言わんばかり、無言の無愛想を示し、むっつりとしていれば、先方(むこう)は畳みが破れ、壁が崩れ、天上の無い、戸や障子にも満足なものの一つも無い(へや)の中の(むご)たらしい様子を見廻して、早くも眼の中を涙ぐませ、

「何から言っていいのやら、思いも寄らないお気の毒なことで」と、後は口の中でもごもごと分からないことを鼻に詰まらせながら言う。

 その気持ちは、こうなった自分を慰めてくれる(こころ)からだと分からないこともないのだが、最初からその鼻声がよくよく(しょう)に合わないというのか、癪に障って堪らず、来たかとも言わず、挨拶もしないでいれば、八寸膳にもすれすれという太い膝を前に進めて、

「いつも、そんな風に私さえ見れば怖い顔をしていなくとも、来たか、とくらい優しいことを言っても誰に済まないということもあるまいに。ほんに、ほんにここへはどうやって尋ねてきたと思っておられる。そんな容易(たやす)い心配ではここには来られないものを。不意に起こった昨日の始末で、お前が直ぐにお店を出られたその(あと)を、丁稚の(ろく)めに少しの(おあし)を握らせてやり、見届けてもらった上、勿体ないながら、ご主人様には嘘を言って今日だけお暇を頂き、やっとのことでここへ尋ねつき、宿の人に心付けをして、ようやく会わせてもらったのに、そう難しい顔ばかりしなくても、お前には分かり切っている私の胸の内を、少しくらい汲んでくれても良さそうなもの。昨日は昨日で、詰まりはあのお初めから起こったこと。今、こんな所に(くすぶ)っておられるのも誰がしたことと思ってか。あの碌でなしの(いけ)畜生(ちくしょう)のお初阿魔(あま)めなんか見て退()けて、私の気持ちを聞いてみようという気持ちは起こらないか。……アア怖い、そんな顔をして睨まなくてもいいものを。碌でなしの(いけ)畜生(ちくしょう)のと言ったのがお気に障ったのなら堪忍して、よう、よう、堪忍して、よう。この通り謝ります。成程、あの子は歳も若いし色も白い。私は婆で、色も赤いし、ハイ、あの子は中肉、私は太っちょ。あの子は骨細の華奢(きゃしゃ)(たち)、私は骨もごつごつした醜女(しこめ)。お気に召さないのは分かったことではあるけれど、見た目よりも心ということもある。あの子はお前をどう思っている。私はお前を何様と思っている。比べてみたら分かるはず。それなのに、まだ狼者(おおかみもの)のあの子の腹の恐ろしいことをお前は知らずにいるが、話をしたらそれも私が(ねた)みや焼きもちから言うのだと思うに決まっているから言わないが、昨日のこともああなるとは、私は一昨日(おととい)からすっかり分かっていた。どうにかしてお前に教えようと思ったが、お前はいつものように私の顔を見ると直ぐに人の大勢いるところへ逃げて行ってしまうので、せかせかと気ばかり揉んでも間に合わず、とうとう、みすみす昨日、あんなことになってしまった。口惜しいとも悲しいとも、余所見(よそみ)していた私の胸は、今思い出してさえドキドキとするくらい。本当にその時はご隠居様の前に出て、何もかも構うことは無い、濁り水の底の泥まで掴み出して、と思ったが……、エ、その訳を聞きたいとェ? いや、言いますまい。(そね)みや(ねた)みで言うのだと思われるのが私には辛い。あの子の悪いことを言ったら、又恐ろしい顔をして、恐ろしい眼で睨まれるに決まっている。それでは余りにも私が可哀想過ぎる。何? 何? きっとェ? 絶対に私を睨み付けない? ……分かりました。それなら仔細を話しましょう」


つづく

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