幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(34)
其 三十四
昨日まで、いや、今日の今日まで頼みきっていた京屋から追い出されて、帰るにも家は無し、行こうにも的も無い身となってしまった久四郎、さし当たってどうすることもできずにいた。
元はと言えば身から出した錆に、他人を恨むことも出来ないけれど、宿無しとまで成り下がったのは誰のせいだ? 詰まりはあのお初めのせいだ、と思うにつけ何につけ、一々お初が恨めしく、今夜はどこで眠ることになるのか、明日からどうやって暮らして行けばいいのかと、さまざまに屈託した胸のむしゃくしゃするその中を、縦横十字に躍っているのは、憎いとも可愛いとも今では自分でも分からないお初という悪魔であった。
畜生、外道め、犬め、猫め、あれ程までにこの久四郎に約束をしながら、心変わりして、俺を地獄へ突き落としくさったこの恨みはどこに向かうか覚えておれ。絶対におめおめとこの世で生かしておくものか。このまま死んだとしても、一念は火の玉となっても頭の上を繞って離れまい。きっと苦しい目に遭わせてやらねば永久、末代まで心が済まぬわと、歯を食いしばって京屋の方を振り返ったが、その途端、雪のように白い手を合わせて、
『久様許して、私の本心からしたことではございません』と、どこでか、お初が言うような気がして、燃え立った火炎は一瞬にして消え、美しい黒髪が白い額に映り合い、露を湛えた眼が涼しく、紅こそ点さないが天然の花よりも紅い蕾のような唇の陰に、玉を含んだような二枚の前歯が微かに覗くお初が面影として眼前に立つ。
「エエ、未だこの俺を悩ませるか」と、自分で自分の心を叱り、思わず声を立ててしまい、人が聞いてはいなかったかと、辺りを見廻して、ホッと息をつき、夢路を辿るようにして歩くともなく足を運んでいると、やがて小倉の市街の外れに出た。
持ち合わせは、端銭があると言えばある、無いと言えば無いというくらいのもので、怪しい安宿を求め、その夜は野宿こそしなかったが、たとえ星の瞬きに身の愚かさを蔑まされるような気持にならないにせよ、青空の下で寝て、どうして好い夢にありつくことなど出来ようか。あれやこれや思いを巡らすと寝られないばかりか、足の関節に冷や汗ばかりかく有り様であった。
夜明け方に少しまどろんだ夢の中に、乳母のお大がありありとあの赤犬の八を引き連れて、大層親切に問い慰めてくれ、その話の末に『お初殿はご隠居様の御手がついて』と言うその言葉を半分も聞かないうちに、不意に怒りが生じ、「おのれ、お初」と、突っ立った我が身から紫色の火炎がパッとはしり出したかと思うと、「アッ!」と叫んで、苦しくなって目覚めれば、破れ障子から風がからかうようにヒュゥという音を立てているのが寂しく聞こえるばかりであった。
木賃宿同様の安い宿屋に腰を据えた久四郎、再びこの場所から出て行って、何をどうするという気持ちも起こらず、翌朝もそのまま起きずに垢臭い蒲団の中で眠るでもなく、起きるでもなく、のっそりとし、他人に話をするでもなく、燻りかえり、溜息ばかり漏らしていたが、不思議、不思議、よく分からないことだが、
「あなたを尋ねて、お女中が見えました」と、宿の少女が取り次ぎに来た。
つづく




