幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(33)
其 三十三
久四郎が恐る恐る座につき、少し首を上げるのを見るや否や、隠居の喜右衛門は雷のような声を浴びせかけ、
「ヤイ、久四郎、よくもよくも、おのれは優しくして遣った恩に狎れきったか、家の乱れも構わず、お初に対って不義を言いかけたな。仮にも當八殿の次席に坐る身ではないか。他の者がそういうことをするのを見れば、陰でもって内々不心得を諭して思い止まらせもすべき年功の身分でいながら、おのれが先に立っての不埒は何事だ。大たわけめ。おのれは誰が拾い上げて、手紙も書ければ算盤も弾けるように眼鼻を明けてくれたと思う。こんなことをするような、その恩知らずな考えでは、一人で男児に成り済ましたようにも思っているだろうが、白雲頭に青っ洟をつっ垂らしてうろうろしおった餓鬼の頃の惨めな様を教えてやろうか。親は無し、兄弟は無し、請け負ってやろうという親類さえも無い奴を、可哀想に思えばこそ、連れて来て、手も伸ばし、足も伸ばし、今日の今日までして遣ったというのに、主人に目隠しをして、家の内で不埒をしようなどとは言語に絶えた不届者め。愛想もほとほと尽き果てた。言い訳を言うな。証拠がある。何をぐだぐだ言おうとも、今更取り上げることはないぞ。この文が物を言う。のう、當八殿、悪いことはできません。丁稚の彦めが封のままの此文を拾って、宛名が読めただけに、お初の名を呼びながら、丁度老夫が昨夕から疝癪(*胸や腹などがさしこんで痛む病気)気味だったので、お初に猪目へ灸をしてもらっているところへ、何の気も無く持って来たのを、背後から来たなら気がつかなかっただろうが、前から手にしてやって来たので、直ぐに久四郎の筆跡らしいと眼に止まり、ちょっと見せいと、手に取ってみれば、いよいよそれに違いない。不思議に思ってお初を振り返ってみると、早くも顔の色を変えて小さくなっているではないか。てっきり主人の目を掠めて懇ろにしているのか、不届者と、灸をし終わってから一つ一つ糺していくと、『旦那様のお目に入りました以上、言わないでおくつもりではおりましたが、申し上げなければ身の証も立ちませんので、何もかも打ち明けて申し上げます。実は久四郎殿に色々のことを言いかけられましたのは、随分と前からのこと。旦那様のお眼を盗んで、空恐ろしい、まあ怪しからないことと、一言口にして、明るみに出すことも、又、ご新造様にそっと申し上げることも知らないではありませんでしたが、久四郎殿も御家のためには心正しくお勤めされておられ、将来もある方でございます。又、私などよりも古くからこちらにおられる方だと思うにつけ、詰まらないことでお暇にでもなられてはと心配し、悩んで、お返事などはもとよりせず、胸一つに納めたきり、大抵はお文も封のまま焼き捨て、なるべくは御奥ばかりに居て袂や懐中に恐ろしい御文も入れられないようにと心掛けておりました。その文はどうして落ちていたのか分かりませんが、私が申しますことに嘘が無いのはそれを開いてご覧になれば、大抵の様子はお分かりになりましょう』と白状。何を賢女みたいな小賢しいことを言うと思いながら封を開けてみれば、これ、このざまじゃ。番頭殿、読んで見て、笑わっしゃい。女の素気ないのを恨みながら、脅し半分に愚痴半分の百万陀羅(*同じことを繰り返して何度も言うこと)。成程、お初の言葉の通り。ああ、若い女には似ず、考えが深い。見上げたものだとお初を思うにつけ、それに引き換え、久四郎めが愚にもつかない不埒の数々、呆れて物も言われんわ。サア、久四郎、したいと思っても言い訳は何ともできないだろうが。頭を垂れたきりでおるのはもう観念したということか。たわけた奴め。おのれのようなたわけは、小倉で少しは人にも知られた京屋の店には片時も置けんわ。おのれのために店が世間の笑いものになる。主人の顔に泥を塗る奴。出て行け! 出て行け! たった今出て行ってしまえ!」と口調も鋭く、番頭の當八がその傍で取りなそうとするけれども聞かず、
「若い中にはありがちな女郎買いなどしたくらいの過失なら、又勘弁の仕様もあるが、家を乱そうとするこの不始末、決して許せん。番頭殿止めてくださるな、喜太郎夫婦が帰ったら、老夫が追い出したと言いましょう。エエ、何をうじうじそこにおる、三蔵、五助、このたわけを戸外の方に掴み出せ」との厳しい言葉に、久四郎ははらはらと涙を落として、
「申し上げようもございませんこの身の不心得、何と仰られても恐れ入るほかございません。幼少からお掛けいただいた海山のご恩を碌にお報しも出来ずにこの不始末。ご立腹はその通りでございましょうが、恩知らずとはお情けの無いお言葉。神様仏様よりも有り難く思っておりますご主人様に見放されては、この久四郎めがこの世に住む甲斐は最早ございません。お暇を受けて、行こうとする先は死ぬより他はありませんけれども、居れば居るだけご立腹も深くなります道理。離れにくい此家様を残念ながら後にいたします。お丈夫ではいらっしゃいますがもうお歳でもございます。これからは寒さに向かいますのでご持病のご養生をなされまして、どうぞお健やかにお暮らしくださいませ。それでは、お暇いたします。當八殿長い間お世話になりました。旦那様、ご内儀様にも何卒よろしく願います。三蔵殿、五助殿、皆様お世話になりました。さようなら」と言うには言っても心は惑い、なかなか立ち上がらないのを、隠居はその声にますます酷さを加えて、にべもなく、
「おのれに身体の世話を焼かれてたまるか。無益なことを言わずにとっとと出て行け!」と言えば、ようやく頭を上げて立つ時、奥に忍び泣きの声が聞こえた。それは、遂に優しい言葉一つ掛けたことはないけれど、三年以来このかたこの自分に真心を通わせてくれた乳母のお大と思われる。お初はどこに姿を潜めているのか、影さえも見せない。やむなく、憚りながら虚しく奥を覗いただけで、室の中から通じた出口を出て、履物を履いて、萎々と五、六歩行けば、背後でひそひそ何か囁き合って、自分を笑うのか、笑い声さえさせるのは正しく三蔵と五助。
「おのれ、先々月のこと、朝早く悪所(*遊里)から帰って来て、青い息をついて、一両と二分今無いので……と、俺に縋って立て替えさせたのも、まだ返しもしない横着者めが、自分のことは棚に上げて、この俺の身の上を気の毒とも思わないばかりか、好い様だと笑いくさるか、ええ!」と、思わず拳を握ってよろよろと歩いていると、後ろから駆け寄ってきて足に纏わって尾を振り振り無心にじゃれつくのは京屋で飼われている赤犬の八と言う、小さい時から、取り分け自分に馴れた犬であった。
「ああ情けない世の中で、自分を思ってくれるのはこの犬だけになってしまったか。エエ、脇の下を通る風が冷たい。オオ、八、脚を踏んだか、堪忍してくれ」
つづく




