幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(32)
其 三十二
今一度、なお一度と未練の文も三度、四度、五度に至った。しかし、ウンともスンとも返事は無く、ますます業を煮やした久四郎、最早今度こそはこれが最後だと、又懲りずに一通、長々しく文をしたためて、無理に与えた。
文を遣るだけのことであるが、先方に受け取ろうという気が無いので、これは思った以上に難しく、危ない場面を渡り、人の眼に触れないようにしなければならない上、受け取らないというのを無理に取らせるのだから、その度ごとに胸を躍らし、肝を冷やした。
京屋の主人の喜太郎夫婦は以前から信心している太宰府の天満宮に参詣するとて、博多の得意先が帰るのを送りがてら、下僕の作平を連れて、三、四日家を空けますと、出掛けた後のことである。
番頭の當八は帳場格子を前にして、嵩高い仕入帳、水上帳、出入帳、判取帳など、それぞれを手に取って、油断なく目を通しながら、それらを作成した久四郎を初め、三蔵、五助等が、いずれも真面目に働いている様子を見ていると、その雰囲気に丁稚等までもがマメに身体を動かすのであった。
主人が不在というので、隠居の喜右衛門は、今年積もって五十六にもなるが、頑丈な体格の赤ら顔で、まだ艶々とした眼の内を光らせ、酒太りの身体をのしのしと重たげに運んで、時折店に立ち出てきて、
「番頭殿、ご苦労。久四郎も三蔵も皆の者も本当にご苦労だが、主人の留守はなお一層気をつけてな」と、愛嬌のある二重顎を動かしながら、和やかに言葉を掛けては奥に入られる。
その日は一日、こともなく、その翌日も又、無事に一日を終えたが、三日目の夕暮時、奥の方から丁稚の彦が何か分からないが狼狽えた顔をして、小走りにやって来て、
「番頭様、ご隠居様が恐ろしいお顔をされて、直ぐに當八を呼んでこいと、厳しい仰りようでございます」と、震え震え言うので、當八は言うに及ばず、久四郎、三蔵、五助も何事かと驚く間もなく、手にしていた筆を耳に掛ながら駆けつけた當八。それを捉えて罵っているとおぼしい隠居の声高く、
『不埒千万、不取締、憎い奴、だらしない、けしからん』と、語気鋭く、種々の罵倒する言葉が漏れ聞こえてきた。
何事が起こったのか分からないが、ああまで番頭殿を叱りつけなければならないようなことは無いはずだと、皆が思っているところへ、やがて當八が、これも同じく怒りをそのまま満面に出した表情で、ツカツカと戻って来るや否や、何時にもないつっけんどんな声で、
「久四郎殿、お蔭でご隠居様に今までに無かったくらい褒められましたわ。お呼びになります。直ぐおいで。ええ、何を愚図愚図している。ご隠居様がお呼びになっておる」と、掴み掛からんばかりに言った。
さては、南無三、俺なのか。お初のことか!? 久四郎は一時にカッと気を上らせたが、逃げて済むべき問題でも無く、無理に心を硬くして、奥と店の僅かの間の、何度となく歩き馴れた板敷きを、踏む足さえしどろになって、霧でかかった架け橋を踏み行くような気持ちで、首を垂れて隠居の前へ。
つづく




