幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(31)
其 三十一
ある時、絶好の機会を捉えたので、逃げようとするお初の袖を把って、袂に恨みの文を差し入れた。けれども、読んだのか捨てたのかは分からない。返事はもちろん文では返らず、眼付きにも現れない。
馬鹿者だと笑うなら笑え、最早許しがたいと拳を固め、毎夜毎夜、男泣きに泣くようになってからは、算盤を手にしても計算間違いをしてしまい、それを直そうという気持ちにもならず、三五十五が、強い者の手に掛かれば十八にもなり、二十にもなる不道理な恨めしいこの世の中で、真面目に働いたとしても、アーア、何の楽しみがあるものか。生きていても面白くないこの我が身、苦労して見栄を張り、真面目だとか、賢いだとか、人が好いだとか、訳が分かるだとか言われたいとは、今はもう思わない。怠け者の、馬鹿の、鈍いのと言われても、ただそれだけのことと思うだけ。ご主人様がお叱りになれば、黙って叱られておきましょう。仕事仲間が謗るなら、頭を低くして謗られましょう、飯も強いて食いたくも無ければ、湯茶も強いて飲みたくもない。爪が長くなろうが、髪が汚れようが、今にして思えば鋏を持ったり、石鹸を使ったりする人が詰まらない無益をするように見えて、自分は手さえも動かす気にもならない。できることなら、底の深い、光の無い、風の音もしない、人の来ない、極々静かな小さい谷間のような所へ、この身が今、そっくり引き取られて、それきりすやすやと眠り死んでしまい、そして片端からづくづくと雪が解けるように消えてしまいたいような気持ちである。ああ、すべてが詰まらない、厭だ、と長太息をつき、自分の心を自分の心に映して、世を味気なく思っていた。『辛い思いをしている身に寄り添う影みたいなものが恋しいという感情である』などと人が言うのはあながち嘘ではなく、思い棄てようとしてみても、どうしても思いは離れない。
嘲笑うように鳴く朝の鴉に疲れ切った夢を破られ、夕暮れを告げる遠寺の鐘の音に、ぼんやりしている胸を拍たれながら、一日一日、死にきれない思いでいるのだった。
精神が穏やかであれば、おかしく感じることは何一つ無いのだが、精神が乱れていると、不思議に感じることが多く出てくるもので、久四郎の身の回りには、不思議なことが多くなった。その第一は、番頭の當八が何か分からないが、意味ありげな眼付きをして自分を蔑むように睨んでいるように思われること。その第二には、お初の衣装が前々からこざっぱりしているのは分かっているが、この頃は取り分け色も品も上等な物を着ているように見えること。これは殊更に心惹かれる疑いであった。その第三は主人の内儀がお初を初め、皆を前々よりも一層優しくあしらう様に思える中で、ただ自分だけは今まで通りなのではと思えること。この三つが主であるが、その他の小さい不思議なことは一々言うにも仕方がないことであるが、これらはすべて自分の邪推からそう思えてしまうのではと、自ら一つ一つ思い消して、その大方のことに関しては思い返してみると、そういうものかもしれないと、それなりに納得できたのだが、ただ一つだけ、お初めの衣装が綺麗になったという不思議だけはどうしても分からず、胸に残るのであった。
つづく




