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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(30)

 其 三十


 庭前の松の葉越しに月が鮮やかで、蒔絵(まきえ)を見るように美しい。それをジッと眺めているお初。ふと振り返って、久四郎の影を見るや、()と立って避けようとするが、この時すでに遅く、そうはさせまいと、捉えて下に引き据えた久四郎の面差しの恐ろしさ。眼眦(まなじり)は裂けたようで、()く息は炎をも()くかと思われるばかりで、鷹に捕らわれた雀の身のお初は、わななき(ふる)えながらただ俯伏(うつぶ)せて(すく)んでいたが、(とら)えた男も震え声で、

「打ちも叩きもしないのにそんなに恐がることも無い。過般(このあいだ)からの挙動(そぶり)といい、今また私の影を見るなり、直ぐに逃げ出そうとする(さま)といい、どう考えても私を袖にして、他に心を移したのに違いあるまい。これ、お初殿、それでは済むまい、済ませはしない。お前の心が変わったのなら、もうそれまでとは言いながら、それでは(あんま)(むご)すぎよう。重ねに重ねて堅い約束をしたからには、ただでは置かぬと、刃物を振り廻して邪険に出ることも知らないではないが、私の気持ちはそうではない。ただ、どこまでもどこまでもお前を愛しいと思っている。心変わりのした女め、勝手にしやがれと思い捨ててしまうのが男児(おとこ)らしいとは千も承知、万も承知だが、本心を言えばそうはできない。永劫末代思い切れない。たとえお前がどうあってもこの一念は捨てきれないから、その気でいろ。男の顔を潰した女め、憎い奴めと、情け無い程意気地の無い奴だと自分でも思うけれど、又、ええ、もう思い切ってと断念(あきら)めないでもないけれど、思っても断念(あきら)めても、何の因果か思い切りも断念(あきら)めもできないこの身。いっそ身でも投げて死のうか、首でも吊ろうかとまで思う今日この頃の胸の苦しさ。少しは想像してくれても良さそうなもの。こういうことを聞くのさえ、ええ、五月蠅(うるさ)いと厭がるかも知れないが、最初からお前が()()なくしてくれたなら思い切りもしただろうものを、なまじ優しくしてくれただけに、その言葉が耳に(のこ)り、その顔つきが目に(のこ)って、思い切ろうにも思い切れず、死のうにも死にきれないこの毎日の四苦八苦。詰まるところ、この恨みはどこに行くとお前は思っている。夜も碌々寝られず、三蔵殿や五助殿の(いびき)の声、歯軋(はぎし)りの響きを毎夜毎夜聞き明かして心も(くら)く、ざわざわして落ち着かず、生きる楽しみもない日を送れば、今日が何日かも忘れて、皆に耄碌(もうろく)したかと(なぶ)られ、笑われたことも一度や二度ではない。自分が顔を洗う時に思わず見て取る水鏡にさえ、ああ痩せたなぁと自分で気づくほどのこの(やつ)れがお前の眼には見えないか。ええ情けない。これほど言うのに彼方(あちら)を向いて聞かない振りをしてくれるとは」と、愚痴の涙をほろりほろりと溢して口説くけれど、お初はただ誰でもいいから来てくれないか、この状態から一時も早く逃げ出したいと思うばかりの眼付きをしていたが、その時五助が戸外(おもて)の方から物音をさせて帰って来る様子を見て取り、

「五助殿、ちょっと来て下され。ご用がございます」と声高に呼べば、女の頼みに返事よく、何事かと言いながらこちらにくる気配を察し、久四郎は庭の方へ()と下りたって裸足になり、木陰にしばらく身を隠した。


 お初の(つれ)()さに、いよいよ恨みを昂じさせ、その後、久四郎は暇あるごとに満身の恨みを数え挙げ、自分でさえも身の毛立つほどの恐ろしい(ふみ)を作って、お初に手渡そうとその機会を狙っていた。


つづく

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