幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(29)
其 二十九
考えれば考えるほど解らないことがある。當八殿の言葉が満更出鱈目だと思えないのは、過般、店と奥とを繋ぐ廊下でばったり出会った時のこと、自分を見るや否や生真面目な顔をして後へ引き返すという挙動があった。その二、三日後、自分が送った文に、今までは二日と置かず、どうにかこうにか返事を寄越したものが、今ではどうしてか、眼で交わす挨拶さえもしないことなど、如何にも何か意味ありげな感じである。ここは一つ、どうしてもお初の思いを確かめておかねば気持ちが治まらない。と言って、あれ程までに言い交わした仲なので、まさか心変わりなどありはしないと思うから、疑って、劫ってこちらの心が浅いように思われてしまうのも恥ずかしい。ええ、どうなるかこのままにして、成り行きを見ようか、放っておこうか。とは思っても我慢ができない。ええ、俺はこれほどまで思いきりの悪い男でもなかったのに、今まではこうまで迷い込んだことなど全く無かったのに、どうして俺はこんなに馬鹿になったのか、と自分で焦れて、自分で苦しみ、夜がいつもよりも長いと感じながら、暁方まで寝ることもできず悩んでいた。
しかも、その翌日のこと、奥の蔵へ物を納める時、運良くお初に出会った。
幸い辺りには人もおらず、好い機会だと、小走りに走り寄り、袖を捉えて、恨みの数々を言おうとするが、今まではこちらの顔を見るなり、向こうの方から笑みを浮かべながら歩み寄って、ひったりと身を寄せ、こちらの顎の下に頭を突っ込むようにして話を聞いていたものが、つんとして振り返り、鋭い眼をしながら、
「何をなさいます久四郎殿、ご用がございます。そこをお放しなさいませ」と、声こそ大きくは立てないけれど、つっけんどんに言う。
「何が気に入らないでそんなにつんつんする。言いたい恨みも沢山あるし、聞きたいことも溜まっている」と、言葉も忙しく言い出すのを、まるで相手にしないように、耳にもかけず
「知りません、知りません。何と、厭らしいこの人は、私を掴まえてどうなさいます。お放しなされ」と、力を入れて袂を払うので、久四郎はカッと逆上せて、放しはするも、
「こ、こ、これ、お初、それは違おう、それでは済まないぞ」と、夢中になって引き据えようとする男の面を平手でぴっしゃり。
「あれ、旦那様が!」と、声を立てられ、ハッと驚いて手を緩めた途端、つるりと逃げて行かれた。
さては、いよいよ心変わりか、おのれ、お初、今更、ただでは置かんぞ。男児一匹、袖にされたままおめおめ引っ込まれようか。枕並べて寝こそしなかったが、末の末まで約束しながら、言葉を反故にしてもいいとは言わせぬ、言わせぬ、言わせないぞ。どこの馬の骨に心を寄せて俺に背を向けたか知らないが、ぬけぬけとこの世に住ませることなどさせるものか、と虚しく一人腹を立てたが、もし、二人の仲を知った誰かが、俺のことを謗り、俺が実情のないものと恨みでもしてあんな態度を取ったのではないのか、となおも未練の迷いも少しは残り、もう一度口を利く機会を捉えて、篤と糺そう、糺してみようと、一日中このことばかりを胸に、その時を待った。しかしながら、いよいよ自分を疎むかして、五日に三度、三日に二度は少しでも楽しく語ることがあった以前に引き換え、遂にその後機会が無く、たまたま顔を見る時はあっても、籠を脱けた禽より速く自分の近くを避けて去ってしまうのだった。
「これは流石に俺に未練も無く、絶対に心変わりをしくさったな、憎い女め」と、歯を食いしばり、涙を呑んで、昨日も寝られず、今日も寝られず、心に熾った火は逆上して肺に祟り、病むということはなかったが、一日一日衰えていく身は痩せて痩せて……。
しかし、お初の敵手が分からないのに、断念め断念め、断念切っても、万一と思う未練はあったので、その年の暑い盛りの魂祭(*盆)の夜のこと、人々が納涼に外に出た後は丁稚が居眠るばかりで、お初一人が蚊遣り火の薄く煙る室の縁側に団扇を使っている様子が、軒に吊した盆提灯の光に透いて、葭戸(*葭簀を張った戸)の向こうに居ると知れたので、久四郎は恐る恐る奥に忍び寄った。
つつく




