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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(28)

 其 二十八


 京屋の番頭の當八と言えば、この家に既に二十余年も勤めている白髪頭の古顔。今は一軒の家を持って、妻も子もある身なので、日々通い勤めて、朝に来て夕には帰るのが常だが、古参の老功ということで、奥への出入りも許されて、時には泊まりもし、内外(うちそと)の相談にも洩れなく預かる京屋にとっては大事な男。今の主人(あるじ)も一目置いているほどである。生まれつき正直一徹の古風者で、狡賢(ずるがしこ)い動きはできない代わりに、物の道理を踏み外す気遣いは無い。止まるべきところに止まっては梃子(てこ)でも動かない気性なので、余りにも目に余ると思えば、主人であっても真正面から責め(いさ)めるのを(はばか)らないくらいである。しかし、用がなく、閑暇(ひま)がある時は丁稚小僧をも相手にもの優しく打ち解けて、暢気(のんき)な浮世話をして、罪にもならない雑談もするので、久四郎を初め、誰もが厳しくやかましい老夫(おやじ)だと思う割には、馴染み合って、遠慮はありながらも(こころ)(やす)くしていた。


 ある日のこと、店の帳面合わせが遅くなって、雨も降り出したので、『番頭殿も今夜はこちらへ泊まればよい』との、お内儀の言葉に、そう仰って下さるならばと、いつものことで別に辞退もせず、奥に呼ばれて主人の前で、お初の酌で酒まで飲ませてもらい、ほくほく悦び、やがて店の方へ引き上げて来た。微酔(ほろよい)の気持ちよさか、舌も軽く色々の雑談を久四郎に話す(うち)、今日、奥の部屋でお初の酌でお酒をいただいたということから、久四郎が耳をそばだてて聞いているとは露にも知らず、

「あの女も一寸綺麗だが、眼の下の黒子(ほくろ)が玉に大疵(おおきず)、可哀想なこと」と言い出せば、

「いかにもその通りでしょうが、動きにも小機転が利いて如才なく、心掛けも好いらしいので、その難点も消えましょう」と久四郎が答えると、

「いやいや、そうではない」と、禿頭を左右に振り、

「如才ないのはお前の言う通りだが、心がけは好いとは思えない。俺が今まで知っている女で小機転が利いたものは大抵不実軽薄な者が多い。彼女(あれ)も亭主を持つまでには、きっと男の二人や三人は持ちそうな奴だ」と言い張った。


 昨日この頃の挙動(そぶり)に疑いを抱いてはいるけれど、今も可愛(いとし)くて、可愛(いとし)くて、珠とも宝とも代えがたく思っている女を悪く言われては好い気はせず、

「へえぇ、それは面白い、番頭殿は何か見たことでもあって、そんな八卦見が言うようなことを言われますか」と、内心を笑いに隠して久四郎が訊けば、

「あるとも、あるとも。しっかりこの眼で見たことがある。どうやら彼女(あいつ)胡麻摺(ごます)りのようだ。と言うのも、この前、奥の離れで……」と、言いかけて、急に口を塞ぎ、

「どっこい、口は(わざわい)(かど)、要らぬ事は言うまい言うまい。ああ、酔ったな」と、言いながら自分で口の端を(つね)って、

「痛い!」と叫んで笑いにしてしまった。


 久四郎はもっと詳しく訊きたかったけれど、それもしかねて、番頭殿は陽気な人だと、同じように自分も笑いで紛らわしながら、やがて床に就いたが、妄念がますます起こってきて、胸のもやもやに、寝ながらも、

『うっかりしたことはたとえ酔っていても言わない番頭殿にしては、お初の評価は余りにも悪い。不実軽薄と彼女(あれ)を見定めたのに何か確証があるらしい口振り。亭主を持つまでには二、三人男を持ちそうだ、とは。ハテ、彼女(あれ)が? あのお初が? あの、三年でも四年でもあなたの心さえ変わって下さらなければ辛抱いたしましょうと言ったあの、あのお初が? 何でそんなことがあるものか。思い思われた俺にさえ、猥らなことも無いままのあのお初が、何で男を二、三人……。番頭殿の酔っての戯言(たわごと)、けしからぬ戯言、不埒な戯言。どうしてあの當八めが何かを知っているものか。しかし、お初のこの頃の挙動(そぶり)にはどうも納得が行かない、疑わしい。といって他に誰がいる? 當八殿はあの通りのお人だから問題外、三蔵か? (どぶ)に落ちた(ゆず)のような脂皰(にきび)だらけの黒い(つら)、あれでもあるまい。五助か? 声変わりしたばかりの小僧上がり。後は残らず丁稚ばかり。下僕(おとこ)の作平か? 鼻は立派だが、年中頭を塵で霜降りにしている和様の蝦蟇(がま)仙人(せんにん)とでもいう奴。向こう三軒両隣、およそここらで眼に立つ男はどう考えても見当たらない。どうしたってそんなことがあろう道理がない。あって堪るものか。が、當八めの言葉では、二、三人も男を持つ、胡麻摺り、奥の離れで何とやらと言いかけて口を閉じたが、何が? 胡麻摺り? ハテ? 胡麻摺りとはチトおかしい。奥の離れ、フン、奥の離れといえばご隠居様の居られる所。奥の離れでどうしたというのだ。ハテナ? 番頭殿が口を塞いで急に自分の口の端を(つね)られたのは、ハテ? 胡麻摺りと? 奥の離れと? よもやご隠居様が!? いや、ご隠居様に限って……。口は禍の門と? ということは言って悪いことに違いないな。ハテ? 奥の離れ、胡麻摺り、口は禍の門と番頭殿が自ら言う。納得できない。ムム、もしや、ご隠居様の? 何? 馬鹿な、そんなことがあるはずも無い。けれども万一、もし、ひょっと、いや何、まさか……』と思い迷う(かたわら)には、五助が歯ぎしりをする音だけが響いて、更けていく夜の静けさを破る。その他は、(けた)(*家などで、柱の上に横に渡して垂木(たるき)を受ける材)を走る鼠の騒ぎもすでに治まって、しんと静まり返った淋し気な夜である。


つづく

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