幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(27)
其 二十七
情けある主人夫婦の話を蔭で聞いて以来、将来の楽しみができたこの身、今は余計なことを考えることもないと、久四郎は忠義一筋に働いた。時折お初の顔を見る度、自分さえ首尾よく三、四年も勤め上げれば、あの優しくて可愛らしい奴に良人と呼ばれて、かしずかれ、睦まじく暮らすことができる身なのだと、一人密かに悦び、飯にも茶にも算盤持つにも帳合いするにも、そのことばかりを思い続けていた。
ある時、たまたま、お初と話ができる好い機会があったので、ご主人様ご夫婦がこれこれのお考えだと委細を語り、
「お前の心さえ変わらないでいてくれれば、一日千秋の思いはしても、三、四年はジッと辛抱する。そうすれば、後ろ暗いこともなく、一緒になれるのだ」と話すと、顔を赤らめて恥ずかし気に、
「心が変わる、変わらぬとはこちらが言うこと、三年はおろか、五年、十年でもあなたさえ移り気を出さなければ辛抱するのも辛くはありません。あなたもその気で旦那様のお気にいられるよう、よく勤めてくださいませ。私も気に張りを持って、できるだけ奥様のお心に叶うよう巧く働く覚悟でおります」と、袖の下で、私と握った手を握り返して、耳元に燃えるような唇を触れさせながらのひそひそ話。しかし、折も折、そんな時に丁稚の辨松めが、
「久どん、久どん、広島から来た注文書がないが、どこに置いたと旦那様が尋ねておられます」と、喚き立てたので、チャッと飛び退き、思いを残して奥へと、又表へと見返りながら別れた。
その後、お初が、自分への思いが真剣なのを、
「福が宿ると言いますから、甲子(*十干・十二支の組み合わせからなる六十日の最初の日。縁起の良い日と言われる)の夜に縫いました」と、ささやかであるが、器用に作った財布をくれたり、主人の用事で集金のため、他所に出る前、途中で怪我などしませんようにと、玉子の護符とか何とかいう尊い護符が入ったのを袋に入れて貸してくれるなど、何事につけても気の利いたことをしてくれる。そんな様子なので、自分の身体はいつも美しくて、又、暖かい春の霞の立つ中にくるまれたような心地がして、久四郎はただ毎日を嬉しく送り、又、迎えていた。
しかし、果実の味は日によって変わり、最初に甘かったのが爛れもし、渋いのが甘くもなるのがこの世の常、今更恨むのは愚かというものだが、何時の頃からか、お初の素振りが変わって来た。自分に飽きてしまい、他人に気持ちを移したのか、逢うたびごとに自分を袖にし、よそよそしくするように見え出したのだ。
彼女に限ってそんなことはないはず。無情と思えるのは、自分の僻み眼で、他人に悟られないようにとの気遣いから、ああいう態度を取るのだと、一応も二応も思い返すのだが、どうしても納得が行かないところもある。何とも思い悩み、久四郎は心を千々に砕いていたが、そんなこととは知らず、番頭の當八はある夜、意外なことを話した。
つづく




