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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(26)

 其 二十六


 忠義も一徹になれば、そんな人間は馬鹿に見え、神信心(かみしんじん)も一途となれば狂人のようにも見える。その上、自分のことなら臭いものに蓋をしても、他人(ひと)のことなら(にしき)の裏を(あらた)めてでも悪いところを探そうとする世の中。恋の虜になって悶え苦しむ者ほど気の毒なことはないのに、他目(よそめ)からは馬鹿馬鹿しく見られて、当人の真の涙も他人(ひと)には南京(なんきん)(たま)すだれくらいにしか見えず、生きるの死ぬのと泣き(わめ)いたり、すすり泣いたりする声も、笑い話にされ、(あざけ)りの声に埋められてしまいがちなものである。久四郎の身の上も、聞けば愚かに可笑気(おかしげ)であるが、その身になってみて思いやれば、哀れで悲しいところもある。


 久四郎、元は小倉で生まれたが、父母(ちちはは)には顔も覚えられない頃に棄てられ、叔母一人の手で育てられた。丁稚奉公から京屋に勤め勤めて、今は立派な男一人前。やがては暖簾(のれん)分けもして貰おうかというまでになったが、ふと、例のお初が小間使いとして京屋の奥に来てからというもの、心が乱れ初め、気持ちが抑えきれなくなった。一目見た時から、若い者同士、何となく上気して、互いに顔を赤らめたのがそもそも発端で、こちらが優しい(こころ)(いだ)けば、あちらも()()なくはしない素振りの目遣(めづか)い。それが勘違いではないと感じられることから、愛着の思いは段々深くなり、一日の(うち)、すれ違いばかりで顔を見ないことがあると、何だか物足らない気がし、あるいは又、その人が他の男と睦まじげに何か話をしているのを見ては、何の関係もないと自分でも分かっているのに、面白くない気持ちがするようになった。遂にはほんの些細なことにも、あれやこれや思いが巡って、夜いつまで経っても寝られないという状態となり、生命(いのち)かけてもこの思いを何時(いつ)か遂げようとまで思い、心はますます物狂おしくなって行った。そして迷った末、『何時まで言わずにおこうか、いや、とにかく、この胸の思いを告げずに済ますことなど出来ない』と、ようよう気持ちを定めたものの、心は(ひる)み、何度も何度も感情(こころ)(みち)を行きつ戻りつしていたのだった。揚げ句、虎の尾を踏む思いで、それとなく(ほの)めかせば、はっきりとは答えないけれども、厭ではない様子なので、いよいよ心が躍っていた矢先のこと、ふと、奥の間の(ちゃ)座敷(ざしき)で、主人(あるじ)夫婦が雑談の中で、お初の噂をしていたのが鋭く耳に留まった。


 こちらが聞いているのも知らないで、万事気の届くお初の起居(たちい)動作(ふるまい)の賢さを褒め合い、男では久四郎、女ではお初、揃いも揃って好い若者を表と奥に置きあてた、と主人(あるじ)が言えば、どちらも丁度似合わしい年格好、首尾よく互いに勤め上げて、久四郎が小さくても一軒の店を出すようになったら、お初を(めあ)わせてやったらと、内儀が言い出したので、ハッと驚き、そのまま店に駆け戻り、こうまでとは思ってもいなかったご主人のお情け。そして、もしかして、内儀は自分の胸の内を知っていてああ言っているのではないか。そうであれば、恥ずかしいとも有り難いとも、どういう風に言えばいいのか分からないほどと、奥座敷の方に向かって蔭ながら伏し拝んだ。そして、涙に暮れながらも、嬉しいような恥ずかしいような、腹の奥のむず痒いような不思議な気持ちがして、まずは悦び、又、楽しみながら、それからというものは、そのためということでもないが、主家の用事もひとしお身に()みて、ほんの少しのことでもご主人のためによかれと、口も手も思い切り働かせて勤めた。だが、少しばかり善いことがあっても、悪いことの方がずっと沢山あるのがこの世の中というもの。この悦びが次第に歎きとなるのであった。


つづく

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