幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(25)
其 二十五
卯平次は正太郎に自分が世話をした男の悲しい身の上のことなどを詳しく話して、出来ることなら雇って貰おうと正太郎の家に赴いたのだが、その時思ってもいないことが起きていて、筆屋は上を下への大騒ぎ。何事かと驚いてあわてて走り寄れば、何故かは分からないが、久四郎が何か事をしでかした様子。で、ますます驚き、久四郎を直ぐさま自分の家に連れて帰った。
流石に物馴れた老人のあしらいは卒が無く、先ずは充分に労り慰めて気を落ち着かせ、そうして夜になってから、
「どういう訳であそこの家で乱暴したのか。きっと事情があることだと思うが、その理由を包み隠さず老夫に聞かせてはくれまいか」と、もの柔らかに尋ねた。しかし、男は涙を浮かべるだけで、
「何もかも愚かな自分がやってしまったこと。一々申し上げるまでもありません。もうどうか、その訳はお尋ね下さいますな。ただ、小生が幾重にも悪いのでございます。折角お世話頂いたお家に対して、気が取り逆上せてしまい、前後を忘れ、あのようなことを致しましたのは、何とも今更申し訳がありません。あそこのお初という者にはこれまでずっと恨みを抱いていたとは言え、撲たれ叩かれましたのは皆小生が悪いからのこと。たとえ、どうされようとお恨み申すことはございません。どの様にも筆屋様のお気に済むようになされまして、ご勘弁をしていただきますよう、あなた様のお執りなしをお願いする所存でございます。お上へ突き出されても仕方が無いものをお連れ帰り下さいましたご恩は何とも申し上げようもございません。折角のお志を無にしました上、あなたにまでご迷惑をおかけしました罪は何とも恐れ入りますが、幾重にもご勘弁をお願いいたします。思えばどちらを向いても済まないことばかり致しましたのは、我が身の愚かさからとは言え、のめのめ生き面をお目に掛けることも出来かねるほどの振る舞い。ああ、生きていても生き甲斐の無いこの身、将来何を楽しみに生きるということもありませんが、かといって、まだ死ぬにも死にかねることもあるので惜しからぬ命を惜しんでいる次第。未練な奴とお思いになりましょうが、あのお初めに関わることのお尋ねだけはご免蒙ります。思い出してもむらむらとして、総身の血が頭へ上るような心持ち。頭骨にでも咬みついてやりたくなります」と、最後は声さえ怪しく震わせて話す。卯平次にはますます深い事情があるのだと思えて、聞かずには済ませられなくなり、
「これこれ、若い人とはいえ、一本気にそう言い退けたものではない。なに、正太郎の家を騒がせたくらい、どれ程の罪にもなるものではないわ。ツイ一寸頭を下げて悪かったと謝罪れば、あちらでも無暗に撲ったのは悪かった、済みませんでした、どうか何分ご勘弁をというくらいなことで済んでしまうわさ。しかし、お前があのお初という女房に言い分があるというなら、今日は済んでもそれですっかり片がついたということにはならないではないか。顔をお互いに覚えあった上は、正太郎だけが正しいとは思わない。事を捌くのは老人の役、こうこうと、事情を話してくれたなら、その後は老夫の分別は理のある方に軍配とまでは行かないまでも団扇くらいは挙げて、何とか計らおうではないか。言いにくい所もあるだろうし、話すも無念と思う所もあるだろうが、何にせよ迂闊に人の気持ちを他所へ洩らすようなこともしないから、安心してその訳を俺に言ってくれれば、その中身がどうであっても俺の考えを言ってやろう。言うに及ばぬ、申しませんの一点張りで来られては、第一俺も俺が世話した男が何故あそこを騒がせたのか、その言い訳も出来ない。その辺の道理を考えれば、お初を恨むその因縁くらい話すのを惜しむこともあるまい。死ぬの生きるのなどとそんな難しい大袈裟なことを言うのは悪い考えというものだ。言わないというものを無理矢理聞くということではないが、ぷっつりとお前を見棄てようと思っていないからこそ、無益にせよ、こんな風に口を利いているこの俺に、話さないと言い切るのはチト酷かろう」と、説き諭せば、涙流して聞き入っていた久四郎、少し面を上げ、
「親切なお言葉、骨身に浸み入ります。ありがとうございます。話をすることも辛い身の恥でございますが、話さなければもう済みますまい。実はこういうことでございます。まあ、可笑しいとお蔑みなさらずに概略をお聞きくださいませ」
つづく




