幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(23)
其 二十三
「馬鹿め、いかれ男め、乞食野郎め」と、その男が帰った後も、口小言をたらたら言いながら、そこら辺りを掃いたり、拭いたりしていたお桂婆であるが、そのお桂婆から『お初は徳蔵の方へ逃げて行った』と聞いて、迎えにやられた乙吉がお初と一緒に帰って来た。見ると、お初は顔色はまだ悪いけれど、ようやく胸の動悸も収まったと見えて、
「ああ、恐ろしかった」と、口では言うが、今はただ、我が夫がこの状況をどう思っているかを考えると、ただただそれを心配するらしく、そんな女気からか、眼を潤ませながら身を小さくして、正太郎が言い出す言葉を怖々に待っている様子。その身に実際、罪が有るのか無いのか解らないが、それは置いても、萎れた姿はいかにも哀れであった。
正太郎は、不意の騒ぎに、もちろん好い気持ちはしないが、よくよく事情を聞き、それが道理に適ったものかどうか糺した上で、どうするかを決めようと考えた。もしも、あんな男に後ろ暗いことでもしていて、何か言われる筋でもある女なら、『合わせものは、離れもの』の言葉通り、後刻とも言わず、今すぐにでも離縁状を書いてやる方法もあると、腹の中で思いを強く固めた。しかし、遊蕩もし、難しい色のやり取りもした男だけのことはある。自分達夫婦とお桂を合わせて三人、火鉢の傍のいつもの場所に坐り、微温茶を一杯啜り終えてから、表面はさりげない顔で、優しい口調でもって、こう切り出した。
「お初、一体今の男は、あれは何奴、どういう訳で、見るなりお前はそのまま逃げた。どれ程貧乏神のような恐ろしい姿をしている男にせよ、それを見ただけで直ぐに声まで上げて逃げ隠れをするというのは何か理由が無くてはなるまい。男も一寸店頭に来て、殊更俺に使われようという身でありながら、お前を見ると、目の色を変えてお前を追ったのは、やはり理由が無くてはおかしい。よくよくの理由があればこそ、ああまで前後の見境も無くなるというものだ。普通は、たとえ、どのようなことがあるとしても、理不尽なことをしようとしてもできることではない。昼日中、しかも市中で馬鹿な騒ぎが起こっては町内の皆へも済まないし、第一小さいながらも店は店、あんなことがあったと人の評判になって、口の端に上り、噂になっては店の疵になるのはもとより、痩せても枯れても男一匹の俺の外聞、面目も廃るというもの。しかし、今度のところは次第によっては、俺は世間に何と噂されようと我慢しないでもないが、あんな奴が二度と現れて堪るものか。一体全体、あれはどういう訳の男か包み隠さず話すがよい。正直に言え、隠し立てをすれば劫ってお前のためにもならない。今まであったことをどんなことでも隠さず話せ。隠し立てをして小器用に口を利いて、もしそれが嘘だと分かった時には、たとえそれに理があっても俺を欺いたということになり、次の言葉を言わせんぞ。いいか、二度と言わんぞ。恐がることは少しもいらない。ただ、ありのままに一部始終を言えばいいのだ」
正太郎の話に、しかし、お初は涙ぐむだけで、畳みの塵をひねるばかりで、直ぐに答えられずにいた。
そこに横からしゃしゃり出てきたお桂婆が、それを引き取るように、
「エヘエヘエヘ」と、おかしくもないのに例の笑い声をさせ、
「何の、あの馬鹿野郎のいかれた奴めに理由も談話もあるものですか、あんまり馬鹿馬鹿しい話で、話をしたところで、嘘のような呆れて物も言われないようなこと。マア、お聞きなさい。今の世の宗玄とでも言いたい奴のあの馬鹿めには、お初も婆もどれだけ心配させられたことか分かりません。本当に広い世間には馬鹿もいればとち狂ったような男もいるもの。彼奴は京屋で手代(*商家での番頭と丁稚の中間身分)をしていた久四郎という野郎ですが、親は無く、兄弟親類も無いというので、京屋の旦那さまにもご隠居さまにも不憫がられて、いつかは一廉の男にしてやろうとまで思いをかけてくださっていたのだけれど、ご恩をも汲まず、根が馬鹿なので、つけ上がり、ある時お初に悪戯をしかけて、つけ回し、恨みがましいことばかりして五月蠅くていた。けれど、お初は生来堅い気質で、ご奉公を大切にとだけ心掛けていた者だから、返事もせずにやり過ごしていたが、素気なくされても、馬鹿は馬鹿だけに執念深く、どういう訳でか、他に女はいないみたいに恐ろしい脅しまでかけて厭らしいことを言うので、堪らなくなって、お初は婆にこれまでの仔細を打ち明け、『京屋様のご主人の有り難いのは山々だけれど、こういう訳で恐ろしいからお暇を願って帰りたい』と言ったことも一度や二度ではなかった。しかし、その辛い中に揉まれるのが辛抱というもの、奉公というもの。ああ、優しくしてくださるご主人様を捨て、お暇願おうとは後の報いも恐ろしい。お前の心さえ固くさえあれば、その内、男も恥じて改心するだろうと諭して泣く泣く京屋様へ帰らせたのはその度ごとのこと。そんな訳でお初は、あの馬鹿めになるだけ顔を見られないように奥にばかり居て、少しの間もご新造様のお傍を離れないようにしていたのだが、なおも懲りずに隙を覗い、伝手をもって、『言うことを聞かないと、生命を取るぞ』というような身震いの出るほど恐ろしい文を何度となく古風に寄越した。しかし、悪いことは露われるもので、その手紙をご隠居さまがお拾いになり、もっての外だとご立腹で、年頃のことだから身銭を使って外所でする程度の醜行なら大目にも見るが、番頭の次にも坐って家の締まりもしようというまで仕立て上げてやった身でありながら、家の内を淫猥にしようとは考え違いにも程がある、今更口惜しいが、俺の眼を節穴のたわけ主人にしおった憎い奴め、許さん、追い出す、出て行ってしまえと、誰が何と言ってもお聞き入れなく、追い出してしまわれた。しかし、そんな理由で追い出されたけれど、自分が悪いとは思わず、お初を恨んで、その後も京屋様の周りをうろつき、夜盗に間違えられて、下僕の作平という者に用心棒で酷く殴られたこともあったそうな。そんなたわけがどうかしてか、今日ここに現れたので、お初は逃げ出す、馬鹿めはどうするつもりだったか知らないが、半狂乱になって追い掛けたらしい。思えば思えば、どこまでもお初に苦労を掛ける疫病神の死に損ない。ぶち殺しても足りない奴、犬にでも喰わせて殺して欲しいいかれ男め!」と、腹立たしげに話した。
つづく




