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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(22)

 其 二十二


 お初が奥へ逃げ込む様子がただ事では無いと見た正太郎、「これは!」と、驚くその間にも、今来た病人臭い男は唇まで真っ青にして、ブルブルと身を震わせながら、ひょろひょろとお初を追い(すが)る。しかし、気が動転してか、足元(もろ)く、よろよろとなって物に(つまづ)き、あえなくがっくりと膝を折って倒れてしまった。

「おのれ、狼藉者(ろうぜきもの)!」と、背に跨がって取り押さえる主人(あるじ)を助けて、何が何やら分からないけれども、乙吉までが(しん)(ばり)(ぼう)でもって、ところ構わず打ち叩いた。男は恨みの眼の中に湯玉(ゆだま)のような涙をたぎらせて、歯を食いしばり、奥の方を見るばかり。声も立てることも出来ず、お初が早くもどこかへ身を隠してしまった様子に力抜けてか、抵抗もしない。

 正太郎は近くにあった細紐で男を後ろ手に縛ったまま引き据えると、乙吉を制し(とど)めて、

「おのれ、何を狂った、(つら)を見せろ、何の恨みがあって非常識にも土足で他人(ひと)(うち)に踏み込む。名前を言え、どこの奴だ。お初に何か言いたいことがあるのか、言え、聞いてくれるわ。早く(ぬか)せ」と、言葉鋭く問い(ただ)すが、男は(こうべ)を垂れるだけで返事もせずに泣き入るだけである。雨に降られた脱毛(とや)(とり)が濡れ(すく)んでいるのと変わらない、見る眼にも痛ましい状態だが、そんなことも気の毒とも思わない向こう三軒両隣の若い者どもは、騒動がすでに終わっているにもかかわらず、棒などを持ち、役にも立たない捻り鉢巻きをして、裏口表口に立ちながら中の様子を窺っている。


(しょう)(さん)、そんなやつは物も言わせず、警察に突き出してしまえば好いんだ」と、言う者もあれば、

「いや、(きず)(あと)が残らないように思い切り(なぐ)って、追っ払ってやった方が身に浸みて懲りるだろう」と、言う者もあり、

「それも正気でしたことで無いなら、チト可哀想なところもあるわな」と(なだ)める者もいれば、

「あの面を見て見ろ、とても碌な人間じゃない。一癖ある奴に決まっている。袋叩きが一番だ」と煽動(あお)る者もいて、騒然(わやわや)と他人のことをさも自分のことのように言う手合いが無益(むだ)な世話を焼いていると、その後ろの方から、人を掻き分けして現れたお桂婆、誰も彼もを押しのけて、裏口から入ると直ぐに、皺だらけの顔をより皺だらけにして、お歯黒の薄剥げた向歯(むこうば)()(あら)わし、

「この大戯(おおたわ)けめ、まだ付き纏うか、猫でも少し気の利いたのなら、もう掃き溜めの隅に入って死んでしまっている時分だに。(ごう)つくばりめ、まだ死なないか。お前の肉を食い裂いても飽き足らないほどこっちにこそ恨みがあるのに、お初に向かって何をする気だ、この疫病神め、とち狂ったか、この大阿呆の死に損ないめ」と、毒罵を浴びせながら手を挙げて、無茶苦茶に打ち叩けば、男は口こそ開かないが、毒炎を内に(みなぎ)らせているかのような怖い眼をして、瞬きもせずに婆を睨んだ


 そんな最中(さなか)、何も知らずにやって来た卯平次、これを見て大いに驚き、仔細を尋ねるが、正太郎も分からず、ただこの男が乱暴をしたというだけであって、なぜお初、お桂がこの男を恐れ、又、怒るのかも分からない。しかし、ともかく、自分が世話をした男だからひとまず連れて帰ろうと、半狂乱になって食ってかかっているお桂をようよう引き退()けて、連れ帰った。

 後は、嵐が去った後の(なぎ)のようにシンとして、鼻緒が切れた下駄だけが(へや)の隅に寂しく飛び散っているだけであった。


つづく

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