幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(20)
其 二十
随分遅くはなったけれども、その夜は辛くも傳吉を引き外して、霜かと見間違える白い月の影を踏みながら我が家に帰り着いた正太郎、辺りがひっそりとしているので、少し憚りながら雨戸を軽く叩くと、二つ叩かないうちに「はい」と答えて出迎えたのはお初であった。乙吉はすでに寝たようである。
「友達と出会って、無理矢理飲まされたのでこんなに遅くなった。アア、胸苦しい、水をくれ」と言いながら、火鉢の前にどっかと座り、眼前にきらつく洋燈の下を何気なく見れば、自分が買った覚えもない反物が誰のためなのか、縫いかけてある。台所から汲んできてくれた冷水を一口飲んで、じっとそれを見詰めていると、
「どこで召し上がりましたか、顔まで青くなっていらっしゃるのに、よく帰って来て下さいました。乙吉を寝させてしまってからは、することも無くて、京屋様から頂いたこの双子縞がそのままにしてあったのを出して来て、縞柄がお気にいるかどうか分かりませんが、お召しになられても可笑しくはない縞なので、私が何枚も着るより、あなたの普段の綿入れにと、裁ってしまい、縫いかけておりましたが、ほら、あの通り、紺屋の犬が人にでも噛みつきそうに時々吠えるので何となく恐くてなりませんでした」と、そう言う片手間にも表の戸締まりを済ませて、針箱も縫いかけのものも片付けにかかり、寝床を作ろうとする。正太郎はこれにカラカラと笑い出して、
「子どもではあるまいし、犬が吠えるのが何で怖い、それほど怖いのなら、今度来た時、魚の頭でも与って、これからは吠えないで欲しいと、よく頼んでおくが好い。ほんにたわいも無い、ハハハ。それはそうと、折角お前が貰ったものを俺のにしてくれるのは何だか義理が悪いな。好いわ、その代わりに紬の一つも買ってやろう、と言っただけで、出来るか出来ないか分からないが、まあ当てにせず楽しみにしていろ」と言えば、
「おやおや、それは有り難いこと。それならこれからは幾らでも拵えてあげますので、その代わり私のを拵えて頂きます。まあ、本当に有り難うございます。と、先にこうお礼を言っておきましたから、その時になって知らないでは厭でございますよ」と、お初も笑みを含みながら言うと、
「それは、ちと酷すぎやしないか」と、打ち消し、
「なに結構なことでございます」と言い張って、
「お前は狡猾い」
「いえ、あなたが狡猾い」と、罪のない悶着の末は笑いばかり。
こうしてその後、日々無事に近所で嫉まれるほど仲睦まじい若夫婦の一家、和気藹々と過ごしていたが、好いことばかりは続き難く、倹約しても婚礼の当時にかかった失費や、その後の何やかんや、あるいは、極めて少しのことながら、日々の暮らしも今までより、やや贅沢になりつつあり、ただ一人とはいえ、頭数が増えたことなどに加えて、仕事も一寸暇になって、問屋の数仕事ばかりするようなれば、得る銭も減るようになってきた。元より財産とて無い職人の米櫃はがたつきやすく、一人生活した時の、無ければ素飯に醤油をかけるだけで済ませたのとは違って、正太郎、今年になって初めて所帯の苦しさを覚えた。しかし、不思議にもお初はどこからか足りない分を間に合わせ、『はて? おかしいな』とは思いながらも、別に他所から取ってくるようにも思えないので、大方京屋で働いていた時に貯めていた金を今、幾らか出しているのだろうと思った。気持ちの中では、自分の甲斐性が無くて女房のへそくりを使わせているのを気の毒に思いながらも、いずれ倍にしてやる時も来ると、気を広く持ち、どれくらいの金を何故持っているのかを、改まっては訊きにくく、実際、訊けなかった。だから、どうしてどれくらい持っているかは知る由も無く、ただ何とかしてそれを使い切らせない内に、自分の稼ぐ金を多くしたいと思案に暮れる毎日を送っていたのだが、運命は意に任せず、嘘をつく気で言ったのでは無い『紬を買ってやる』ことも、本当に嘘になって終いそうだった。しかし、お初の真実やかにして、万事自分のためにしてくれる世話は、初めの頃と少しも変わらないので、哀れにも、これだけが憂さを晴らすよすがであった毎日一合の寝酒も、正太郎はこの頃しなくなった。
つづく




