幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(19)
其 十九
「ハハハ、どうだ、俺の言うことに嘘はないだろう。憚りながらお見通しのお眼鏡は恐ろしいものだろう。フン、寄らず触らずという訳か。ただにやにやと笑っているな。ハハハ、それが好いのさ、返事に困った時にはな。ハハハ、だがな正公、その嬉しさも長くは続かないぞ。三月か百日経てば、これまでほとんど女に可愛がれたことのない奴でさえ、何とも思わなくなるものだ。まして、売り物の手強い奴に揉まれたり、未熟な奴を仕込んだりして、それなりに女を見る眼も磨いてきた男には堪えられなくなる。何とも思わなくなるどころか、あべこべに欠点も見つければ、好かないところも沢山見つける。さあ、一つ悪いところが見えてくると、あそこにも、ここにもと、次から次へと繋がって、悪いところばかり見えてくる。することが頓馬に見える、鈍く見える、不親切に見える、表面ばかりに見える、こっちを向いていると額の出たのが眼につく、後ろから見れば襟足の坊主なのが馬鹿臭く見える、身体のことを思って酒を控えろと言ってくれるのを、しおらしいとは知りながら、誰某が酒の意見をしてくれた時は、親切が肝に浸みて涙さえ出そうになったが、同じことでも口の利きようが違えば違うものだと、昔遊郭で出会った女と引き較べて、今の女房を有り難くはないと思う。大体、最初は女房が珍しいので、勿体ないくらいに嬉しく思うけれど、次には慣れて、別段嬉しがらないようになり、又その次にはお互い面白くないところを見つけるようになるのがお決まりの道筋というものだ。『女房と畳みは新しいのに限る』という古い諺も自然と道理だと解るし、女房の方でも『亭主と畳みは新しいものに限る』と、口でこそ言わないが、腹では思っているに違いない。そこで、互いに面白くないから、言い合いもする、喧嘩もする。到底こいつを女房に持ってはいられない、とてもこの人を良人にしてはいられないと、両方の胸に恐ろしい考えが浮かぶことも時には出てくるようになる。その考えが大きくなれば、手も無く離縁となってしまうが、そう行かないまでも、つまり女房という奴は嬉しくも、有り難くも無い膳の上のひね沢庵と同じだと相場が決まってしまう。笑っちゃいけない。『女房というものは、ひね沢庵と同じものだと傳吉が言ったが、成程、本当にひね沢庵だ』と首を傾げてお前が感心するのも直だ。もう眼に見えている。ハハハ、さて、それ、ひね沢庵と相場が決まると、自由さえ利けば男だもの、他所へ出て甘いものを喰わずにはいられない。お前もまるきし野暮な男じゃなし、ずっとひね沢庵では済まないに決まっている。その上、お前は目端が利いて、大体が細かいことにも腹を立てれば悦びもする奴、一つ了簡が逆になって睨んだ日には、諸葛孔明が女になって働いたとしても、欠点を見つけてブツブツ言うだろうに、どうして普通の女で治まるものか。だが、まあ、辛抱して今のを教訓んでやればいい。気に入らなくなって追い出して、二度目のを持つと、又不思議なもので、釣り落とした魚を大きく思う阿呆の考えかも知れないが、先のが好く思えてくるもの。女房を三人、四人持った奴に訊いてみろ、きっと誰でも最初のが好かったと言うから可笑しい。ハハハ、大いに下らないことを一人で喋った。アア酔った、どうだ、時に久し振りだ。一緒に例の所へ行こう。これ、この通りだ、今日は俺が亭主になるわ」と言いかけて、袂から二、三枚、紙幣の大小混じったのを掴み出して見せながら、
「好いではないか、さあ行こう、そんなに吃驚するなよ、何の、一晩ぐらい交際ったくらいでひね沢庵が恐いということもあるまい。ハハハ、困ったというお顔つきだな。何だ、お前だって嫌いなところではなし。待っている奴もいるものを。何も牢屋へ行くような気持ちではないだろう。ハハハ、何をウジウジしている」
つづく