幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(18)
其 十八
悪意のある男とは思わないが、考えてみれば少しも有益になる友とは言えない奴だと、過般から気がついていた傳吉である。そんな男に出会って、正太郎は少しも嬉しいとは思わず、それこそ、妻を持った後、初めて会うので、もしや今日は嬲られやしないかという恐れもあった。こいつの舌頭にかかってはとても適わない。近寄らないで、厭なことを耳に入れないだけ徳というものと、何気なく挨拶してそのまま別れようとしたのだが、
「何、そんなにこそこそと帰りを急がなくても良いではないか。昨夕、岩床にできた源兵衛(*不明。賭場のようなものか?)に一寸手を出したら、好い運が出たので、憚りながら今日はお前に奢ってもらおうとは言わない。どこかそこいらで一杯飲ろう。ヤ、過般は目出度かったな。その時俺も顔を出すのだったが、角樽の一つも担ぎ込みたいと思っていたので、それが出来なかったから、つい行きそびれた。無い時は堪忍してくれ。ハハハ。それはそうと、ナニは滅法美しいそうだな。奢ってやっても好いぜ、こん畜生め、甘いことをしくさった」と、悪ふざけにふざけて、背中を一つドンを叩くなどして、退引させないような巧い調子で、近辺の煮売家に誘い込もうとする。元来気弱な正太郎、一言二言は他の日にしようと断りを入れたが、結局断り切れず、振り切って逃げることもしかねて、連れられて入り、浅蜊の「ぬた」や鰊の煮浸しやらで飲み始めた。
酒を飲む人間の意地ほど汚いものはない。敵の陣中でも大いに乱酔し、死人の枕元でも大いに浮かれ出す。猪口を持ったが最後、尻を浮かせて今にも帰ろうとしながらも、酌をされれば後には退かないので、下戸は飲酒家を『物もらいと同じだ』と罵るが、それも無理はない。台所での下女の泣き言、子どもの寝損い、細君の眉の皺、みんなそれなりに「上戸」であっても、人間であるからして分からないでもなく、察しないでもない。しかし、飲酒家と言うのは、眼の前に尻の重い徳利のある限り、自分の尻も軽くしかねて、根が生えたか、腰が抜けたかと嘲られると気遣いながらも、びちびち、だらだらと、後を引き、居びたって、縁を舐め、悪丁寧に、皆それぞれの癖を出すまで飲むものである。
正太郎も飲める口ではあるが、最初は早く切り上げて帰ろうと考え、受ける猪口には七分と注がせず、擬す時は満々と注ぐようにして、相手さえ酔わせれば引き離せると考え、そう心掛けたが、一杯一杯、又一杯と、いつしか人を大胆にさせる魔水が腸に浸み渡るに及んでは、世間話を肴に悠然と尻を落ち着けて飲み交わし、耳に入ってくる傳吉の面白い嘘混じりの滑稽話に、大口開いて笑う声さえ高くなるのであった。
「どうだ、正様、女房を持って面白いか? ナニ? これと言って面白いことも無いと? ハハハ、嘘をつけ、『その当座』と言ってな、人間一生で一番面白くて嬉しくて、何となくほやりほやりした心持ちで、微酔の面を始終春風に吹かれているような思いをする時だ。面白くないなんてあるものか。しらを切っても駄目だ、俺だって覚えがある。朝も頑張って早く起き、他人さえ見ていなければ、水を汲んでやろうかとこっちが優しく思ってやれば、向こうも汁の実の大根を少し余らせて、卸しにして花鰹を上に掛け、膳に花を添えてそれに応えるというものだ。少しのことでも、それが他人には言えない嬉しさで、奴さんがほろほろと恐縮する。女房は又、その奴さんのご機嫌に共悦びをするといった調子。朝から晩までそんな気持ちで心を一杯にして、箒を奪い合って座敷を掃く、生まれてもしない子どもの話をする、糸を買ってくれば、野郎が馬鹿な面をして手に懸けて糸巻きに巻かせる。髪結いが来れば、女が突然に丸髪に結わして、後で恥ずかしそうに、そっと『似合いましたか?』なんぞと言う。たわいもない下らない飯事をして、げたげたにやにや笑い通して日を送る奴さ。たまたま外へ出ると言っても、今までとは違って、横からも縦からも気をつけてくれるから、下帯も裸になって恥をかかないようなのを締め、足袋もこはぜが取れかかってぶらぶらしたのを穿いては出ないようになる。そればかりか、出口まで送るついでに、襦袢の襟の飛び出して僧正遍昭の衣みたいになったようなのを、袖口から手を突っ込んでちゃんと直してくれる。肩の雲脂に気をつけて払ってくれる。そして、『早くお帰りなさって』と吐す。帰ればそこらを片付けておいて、猫の子なら喉を鳴らしそうに悦びくさる。こんなこと、独り者の時分、帰ってみれば火鉢の灰は冷たくなっている、小僧は犬と遊んでいる、という頃にあったか。ナニ正公、俺様の言う通りだろう。ハハハ、それ見ろ、お前も身なりが小綺麗になったし、年中耳の中の不潔い男だったが、今日は綺麗に光っている。イヨ、こん畜生め、顎も剃ってあるな。ハハハ、醜態を見ろ、女房なんぞを持ちくさって、薄ら綺麗になりおった、どうだ、家を出る時、早く帰ってきてと言われただろうが、ハハハ、畜生め、帰りたいか」
つづく