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幸田露伴「きくの濱松」現代語勝手訳(10)

 其 十


 堂を管理している納所(なっしょ)で書き写してもらった『観音(かんのん)(せん) 第七十一番』の言葉は解らなかったが、凶という一字に疑惑を抱いて、心弱くなっているところに、又傳吉に散々言われ、成程女房を持つことも善し悪しかも知れないと、帰る道すがらも思案に思案して、いっそのこと当分嫁をもらう話は止した方が過失(あやまち)というものがないから、まずは控えた方が得ではないかと思い返していた。酒に火照(ほて)る襟元を冷や冷やと吹く秋の夜風に何となく分別と一緒に身を(ちぢ)ませて、歩みもノロノロとなりながら、ようやく我が家の玄関に至れば、表の大戸は早くも下ろされ、かすかに()だけが中から洩れていた。


「今帰ったぞ乙吉、さぞかし淋しかったろう」と、潜戸(くぐりど)を開けて()と入ると、待ちかねたという顔つきをして、火鉢の(そば)にいた例の(おばこ)頭髪(あたま)のあの老婆が、

「オオ、よくまあ帰っておいでだ。感心感心。一軒の主人はそれでなくては立ち行かんわ。エヘ、エヘ、エヘ、実は過般(このあいだ)の話で、さっきから出掛けて来て待っていたが、余り帰りが遅いので、お前に限ってああいう話もある矢先に家を空けるようなこともあるまいとは思いながらも、イヤ、何といっても若い人のこと、酒でも飲んだところを、碌でなしの友達に誘われでもすれば、元々男の好きな遊蕩(あそび)を厭だと断って帰る訳にも行かないだろうから、今夜はきっとどこかで泊まってくるのだろう。折角持って来た話であるが、こんな調子では仕方が無い、又話を持って帰るしかないと、今丁度帰ろうとしたところだったが、帰ってきたとは偉い偉い。この様子で女房さえ好いのを持ったら身代(しんだい)(*資産)はきっと増えるに違いない。エヘ、エヘ、エヘ」と、乙吉が挨拶しようとするのを(さえぎ)って喋り始めた。


 胸に少し変わった気持ちを抱くようになっていたので、正太郎はよそよそしく聞き流して、碌に受け答えもせず、胡座(あぐら)を組んで微温(ぬる)(ちゃ)を一口飲み、

「ナニ、老婆(おばあ)(さん)、銭が無いので遊べなかっただけさ。考えが卑屈(しみったれ)たので遊ばないという訳では無いわ、アハハハハ」と、打ち消しながら、流石に正面から嫁取りは厭になったとも言いにくく、次の言葉も出ず、黙っていたが、それと知ってか知らずか、婆は相変わらず身を乗り出してきて、

過般(このあいだ)帰ってから吾家(うち)でこの婆の話したことや、お前の言ったことを話したら、吾家(うち)の夫婦とも悦んで、『叔母様、よくまあ正太郎殿を説得なさいました。小生(わたし)もかねてからそう思っていたし、二、三度はそれとなく勧めたこともありましたが、まだその時は納得できないような顔つきでしたのに、当人がそう思うようになったのは何よりのこと、もう(しょう)(さん)もしっかりとした大人になったというもの。吉事は急げとやら、とかく魔がさして考えが変わったりしない内に自分達共々それ相応の口を探して一日も早く目出度いことを見たいもの』との返事。それから婆は心当てにしていた某所(あるところ)の娘を目指して、あの翌日、その家へ出掛けて行くと、惜しいことに先月の末、良い衆に望まれて、もう既に式も済み、明日とか明後日とかに里帰りだと言われガッカリしたが、本当にその娘は容貌(きりょう)も気立ても縫針(ぬいはり)などの手業(てわざ)も好い、好い、好いの娘だったけれど、釣り落とした魚は大きかった……と言ってしようがない。それは諦めて、それより好いのを探したが、さて探すとなると無いもので、悪いのならいくらでもあるけれど、せっかく他人(ひと)に頼まれているのだから、いい加減なことを言って二人をくっつけるのも厭なので、本当に好いのを好いのをと探してみると、容貌(きりょう)の好いのは気立てが悪く、家のためになるようなのはあまりにも容貌(きりょう)が悪すぎ、たまたま容貌(きりょう)も気立ても好いと思えば、悪い兄があり、叔父がありで、とかく『これ』というのが無い。ああ、別に日切りをして急ぐことも無いが、折角ああいう考えを聞けたのだから、一日も早く好いのをと、頻りに吾家(いえ)でも心配する内、ふと、宿下がり(*奉公人が休暇をもらって親元に帰ること)をして、この婆の姪の子に当たるお(はつ)というのが来たので、『秘事は睫毛(まつげ)』の喩え通り、手近にあの子があったものを、彼女(あれ)ならどうかと思いついて」と言う時、正太は腹の中で、今年の春の(ほね)正月(しょうがつ)(*正月二十日のこと。正月用の魚を骨まで食べる)頃、家主(おおや)の家から出掛けた姿を見たあの色白のぼっとりとした十七、八の娘のことか。彼女(あれ)なら確か、眼の下に大きな(あか)黒子(ぼくろ)があったので、棄てた女でもないのに気の毒だなと、その時思った覚えがあると思いながら、なお聞いていれば、

「それから吾家(うち)の夫婦にも帰った後で話してみれば、ほんに年格好といい、身体(がら)といい、気がついてみれば丁度釣り合いそうでもあるという話さ。婆が言っては身贔屓(みびいき)のようではあるが、縫針(ぬいはり)も一通りは出来るし、容貌(きりょう)も左の眼の下に一寸した黒子があるだけで、色は白いし、目鼻立ちはどちらかと言えば先ずは好い方」と言うと、正太は又、腹の中で、

『それそれ、やっぱり彼女(あいつ)だったな。満更(まんざら)悪くは無い女だが』と。


つづく

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