名無しの案山子
見慣れぬ景色が流れていく、曇り気味の車窓を横目で眺める。小気味良いリズムを刻んで揺れる車両の中で、ちらりと隣の座席に目をやった。
先程までは体ごと窓の方に向けて、移り行く景色を興奮気味に眺めていた娘は、長い移動時間に疲れてしまったのか、気持ちよさげに寝ている。しばらくは何をしても起きなさそうだ。熟睡のし過ぎで船を漕ぎ、前のめりに倒れかかっている体勢を直してやり、再び視線を風景に戻した。
ここに来るのは何年振りになるだろうか。私が居なかった間にずいぶん土地開発の進んだ町にはかつての面影はもう無く、無機質で似通った高層ビルの立ち並ぶ場所へと様変わりしてしまった。新しい街は整然として綺麗で、つまらなく感じた。
今年5歳になったばかりの幼い娘には、緑に囲まれた一軒家の密集する町を、私の故郷をついぞ見せることは叶わなかったようだ。もう少し早く来ておけばよかったという少しの後悔が胸をよぎったが、今さら過ぎたことを思っても仕方がない。選ばなかった道について思い悩んで、くよくよするのは嫌いだった。突如浮かんだ後悔の気持ちを、頭を振って追い出した。
外は相変わらず雪模様だった。ちらちらと降り続ける雪を眺めていると、なんだかしんみりした気持ちになる。そういえばあの日も、こんな雪の日だった気がする。愛娘のあどけない寝顔を見つつ、私は自分の人生に大きな分かれ目を作り出した、つい先日の出来事について思いを巡らすのであった。
「ねぇ、どうしてそこに立っているの?」
「さぁ、生まれた時から立っていますからねぇ。」
「いつから立っているの?」
「君が生まれる前からでしょうか。」
「何をしているの?」
「何もしていません、ただ立っているんですよ。」
「寂しくないの?」
「寂しくないといえば、嘘になりますね。」
「なら、私と友達になる?」
「それはいい考えですね、是非。」
「また、来るね。」
「えぇ、いつでもどうぞ。」
❁ ❁ ❁
夫が死んだ。ほんの3日前のことだった。横断歩道で赤信号に突っ込んできた車に撥ねられたそうだ。運転手は居眠りをしていたらしい。雪が降る曇ったフロントガラスには、白いコートを着た夫の姿は映らなかったのだろうか。私と娘を残し、少しの保険金を残して、夫はこの世を去ってしまった。親戚は私のことを「未亡人」として哀れんだ。いろんな人が同情から、私たち母娘に声を掛けてくれた。冷たい空気の漂う葬式の会場で娘は泣いたが、私は何故か涙を零すことは無かった。夫を愛していなかったわけではない。夫は生きている間私を心底大事にしてくれたし、私だって夫が好きだった。それでも、いざ失ってみるとあっけないもので、葬儀会社の手で綺麗になった夫の死に顔を見ながら「ああ、こんなものか。」程度にしか感じなかったのだ。私は情が乏しい人間なのかもしれない。幸い式の参列者は、私は悲しみのあまり涙が枯れ果てたものと思ったらしく、誰も咎める物はいなかった。後で鏡を見て気付いたが、やつれて隈の目立つ顔はいかにもそんな風に見えたのかもしれない。いざ夫を失うと、隣町から嫁いできて親戚との付き合いもそこそこだった私は頼る先もなく、仕方がないので実家に身を寄せることにしたのだった。電話を掛けて事情を説明した時の母の哀しそうな声が耳に残っている。母は夫を失った当事者である私よりも悲しんでいた。そしてその声には、若くして夫を亡くした私への憐みが僅かに、しかし確かに含まれていた。その声に耐えられなくなった私は、返事もろくにせずに受話器を置いて電話ボックスを出た。娘を抱いて駅へと走り、金額を確認もせずに滅茶苦茶に券売機のボタンを押す。合っているかどうかはわからないが、ボタンの表示を見るのも億劫だった。確か一番右端のを押したはずだし、足りなかったら乗り越し清算で何とかしよう。駅のホームに着いて、丁度来た普通電車に乗る。平日の昼過ぎに都心から遠ざかるほうへと向かう電車には、あまり人が乗っていなかった。空いている席に娘を座らせ、私も隣に腰掛けた。
「あれから何年が経ちましたか?」
「私がこんなになるくらいの時間かな。」
「大きくなりましたね。」
「君は古くなったね。」
「何か話すことがあって来たのでしょう?」
「隣の街に嫁ぐことになった。」
「それはおめでとうございます。」
「寂しくないの?」
「寂しくないといえば、嘘になるでしょうね。」
「友達を置いて行ってあげようか。」
「それはありがとうございます。」
「また、来るね。」
「いいえ、もう来なくて結構ですよ。」
❁ ❁ ❁
誰かにこの気持ちを相談したかった。胸が痛いのは夫を失ったからではなく、周りの他人から向けられる憐憫の目のせいであることを打ち明けたかった。こんなことを言ったら「薄情な人」なんてさらに非難の目が加わることは疑いないのだけれど。
電車が終点に近づいていく。残りの停車駅が減っていく。ただでさえ乗客の少なかった車内にはもう人は数えるほどしかおらず、運転手もなんだかもう眠そうで。こんな辺鄙な路線を運行するのは、すごく退屈な仕事なんだろうか。知り合いでもない運転手に、少しだけ同情を覚えた。
目的地が近い。娘を少しだけ乱暴に揺すり起こし、電車を降りる。夢見心地の所をいきなり起こされた娘は不機嫌そうだ。寝ぼけ眼を擦る手を引いて、駅のホームに降り立った。隣にいる娘が目を見張るのが、視界の端に移る。娘は都会生まれの都会育ち、れっきとした都会っ子だった。四六時中込み合っている人の群れの中の駅しか見たことのない娘にとって、数えるほどしか人の降りない寂れた無人駅はもはや別の場所だろう。「お母さん、ここはどこ?」戸惑う気持ちを、きょろきょろと辺りを見回す目が訴えて来る。娘の問いにはあえて答えず、駅員の居ない改札を通り抜けた。見渡す限りの田畑を抜けて、あぜ道を通る。またしても現れた知らない景色に、娘は私のコートの端を強く握って引っ張った。これまで知っている場所にしかあまり行くことが無く、遠出も初めての娘は、不安そうにこちらを見つめている。喋る気分になれなかったので、申し訳ないとは思いつつも黙って手を引いた。母の常ならぬ様子を見て、娘は疑問を残しつつも素直についてきてくれる。娘は私よりも何倍も聡明だった。
辺りを見回すと、子供のころの記憶と寸分違わぬ風景がそこにある。いくら都市開発が進んでも、ほとんど田んぼと農家しかないこの田舎まではその手は及ばなかったらしい。むしろ、開発のしようがないでもいうべきか。電車に乗って以来初めての見知った景色に少しの安堵を覚えて、勝手知ったる道をかつての友人の方へ歩いていく。
❁ ❁ ❁
友人は、案山子だった。いや、案山子が友人だった。
田舎の小さな集落には、小さな分校が一つしかなかった。クラス分けなんてあるはずもなく、それどころか全学年が一つの教室で勉強していた。クラスの人数は十人。私はその中で最年少、唯一の一年生だった。子供たちは顔なじみで、村の人たちも全員知り合いだった。
私はクラスになじめなかった。新入生として入って来た時には既に、クラスの子たちは友達を作っていたからだ。その輪の中に割り込んでいけるほど、私は社交的ではなかった。校長兼担任の先生は、いつも一人でいる私のことを何かと気遣ってくれ、時々話しかけてくれた。先生の憐みがこもった目が忘れられない。その時から他人の目が嫌いになった。
村の中での濃密な人付き合いが苦手だった。いつでも、何をするにも一緒にいないといけない。同じ行動を常に強いられる集団心理に、息が詰まりそうだった。一人で生きさせてほしかった。
ふと考えてみたことがある。彼らは一人では生きていけないのだろうか。いつも集団で群れて、その群れから離れるのを恐れて。もしそうなら、彼らはとても哀れだと思った。はたから憐れみを受ける私が、他人を哀れむなんて変な話だ。一人ぼっちの帰り道で、自嘲してみる。気持ちが悪くて、家に帰る気が失せた。
まわれ道をして適当に歩いた道は、もはや私に帰り道を教えてはくれなかった。見知らぬ、けれど同じようなあぜ道を歩いていた時、私は彼に出会った。とても古そうで、大きな案山子だった。でも、身に着けている帽子や服は真っ白で、新しかった。小さな私は鞄を道に投げ捨て、田んぼに入っていった。後で怒られることを覚悟しつつ案山子の傍に寄って行く。きれいな花柄のワンピースに泥が跳ねても、全然気にならなかった。
そっと案山子に触れてみる。見上げるほど背の高い案山子は、少し押したくらいではびくともしなくて、安定感がある。そのまま案山子の足元に腰を下ろした。もうこのワンピースは、着られないかもしれない。他人事のように思った。一人でずっと田んぼを守り続ける案山子は、すごく寂しそうに見えた。雨の日も、風の日も、泣き言を言わずにいる様は格好いい。いや、本当は喋れないだけかもしれないけれど。
しばらく黙ってただ座っていたけれど、日が暮れたので田んぼの持ち主のおばあさんに帰り道を聞いて帰った。泥で汚れた私を見ても、おばあさんは何も言わなかった。家に入ると、やっぱりお母さんには怒られた。
それから私は、たびたびその案山子の元へ行くようになった。今度は服を汚さないように田んぼには入らず、あぜ道に立っていたという違いはあったけれど。何にも言わずにただ立っていて、日が暮れたら帰ることを繰り返していた。今思うと、傍目には私は変な奴だったかもしれない。案山子が喋ったのは、田んぼを訪れ始めて1月程経った頃だった。
その日は雨だったかもしれない。でも、晴れだったかもしれない。私は、いつも通りに案山子の前に立った。意識が飛びかけて、注意が散漫になっていた時に、ひょいと声を掛けてきたのだ。記念すべき第一声は「調子はどうですか?」だったと思う。もちろんそのころの私は、案山子が喋るなんて夢物語を信じる人間ではなかったので、声の出どころが分からず困惑した。そんな私に彼は「ここですよ、ここ。」なんて、暢気に声を掛け続ける。私の頭が≪喋っているのは、この案山子である≫という事実を処理しきるまでに、5秒かかった。
ようやっと私に気付いてもらえた彼は「いつも来てくださっていますね。」と、喫茶店のマスターみたいな挨拶をした。田舎にはお洒落な喫茶店の一つもありはしなかったが、たぶんこんな感じなのだろうと思う。わたしは思わず「あなたは、誰?」と問いかけてみた。「誰って、案山子ですよ。」動かない案山子が、心なしか胸を張ったように見えた。日は落ちて、空は火のように赤く染まっていた。
❁ ❁ ❁
それ以来何度も話をした。学校でその日あったことを私が話すと、彼はいつも嬉しそうに笑った。そのころにはもう、表情は動かなくても彼がどのような気持ちか、察することが出来るようになっていた。彼は私が彼の生い立ちについて聞いても、何も教えてくれなかった。当時私は、いつも自分の話題になるとはぐらかそうとする彼が腹ただしかったものだが、改めて思うと、彼はもしかしたら本当に知らなかったのかもしれない。自分がいつ生まれたのか、どうして喋ることが出来るのか、どうして自分は立っているのか。長い長い日々の中で、その答えを探し続けていたのかもしれない。
私たちは、良い友達だった。私には周りに溶け込めない自分のストレスを受け止めてくれる彼が必要であったし、彼にも自分の行くことが出来ない未知の世界を教えてくれる私は必要だった。心地の良い共依存は、私たちの関係を持続させる1番の理由だっただろう。月日が流れても、私が彼の所に行くことを欠かすことは無かった。母は毎日遅くに帰ってくる私を、怪訝な顔で迎えた。
私は馬鹿だった。当たり前に来ると思っていた明日は、ふとした瞬間を機に急速に遠ざかっていく。家に帰るとお見合いがあると告げられた。顔合わせに何度かの会食の後、結婚を決められる。田舎の娘にもかかわらず、都会との縁談がまとまった私を見て、母はなんとも誇らしげだった。私に拒否権は無かったし、拒否する気もなかった。
たぶん最後になるであろう彼との話は、いつも通りだった。延々と自分の近況を語らされた後、夕日が地平線に隠れる前に、彼から話を切り出した。見透かされていたことに驚きつつ、もしかしたら誰かから聞いたのかも、とか考えてみる。小さい村で、誰かの噂は風のように全体に広まる。この道を通る誰かが、その話をしていたのかもしれない、なんて。嫁入りを素直に祝ってくれる彼に、素直に「ありがとう」を返せない自分が情けない。彼を一人にしては寂しいかと思ったので、彼より一回り小さな案山子を横に立てた。彼と違い喋ることは出来ないが、気休めにはなるかもしれないと思ったからだ。おばあさんに許可を取るのを忘れていたけれど、この際仕方がない。「また来るね。」というと、「もう来なくて結構ですよ。」と言われた。確かに嘘はつけないと思い、何も言い返さなかった。
「お母さん、こんなところに来てどうしたの?」
「ここに昔、お母さんのお友達がいたの。」
「どんな人だったの?」
「変な、人?かな。それも、飛び切りのね。」
「悪い人だったの?」
「いい人だった、と思う。」
「その人のこと、好きだったの?」
「うん、大好きだったよ。」
「そろそろ、帰ろうか。」
「もういいの?」
「うん、いいんだ。」
「お母さんのお友達さん、バイバーイ!」
「さようなら、私のお友達。」
❁ ❁ ❁
結論から言うと、かつての友はもう跡形もなくなっていた。だって案山子だ、2、30年の間にも風にさらされ、雨に打たれていたのだ。彼の立つ田んぼの持ち主だったおばあさんももう居なくて、家は空き家で荒れ放題だった。
嫁入り前に私が立ててあげた、小さな案山子ももちろんどこかに消えていた。彼よりも脆かった私の案山子が彼よりも先に倒れてしまったのだとしたら、彼に悲しい思いをさせてしまったかもしれないと思った。田んぼに落ちている小さな木の屑の一つ一つが、彼の残骸に思えてならなかった。夫を失っても泣けなかった私の目は、今この場所で涙を零すまいと踏ん張っていた。愛する夫よりも案山子の為に泣くというのだから、私はやっぱり変わり者なのだろうか。
今思えば、私が今まで幾度となく思い出したあの思い出は、全て自分の頭が作り出した幻だったのかもしれないとも思う。案山子が喋るはずは無いし、事実今この場所に彼は居ない。彼が存在した証拠はどこにもないのだから。それでも少しだけ、最後にもう一度だけ彼に私の話を聞いてほしかった、なんて。ありえなかった未来について考えてみる。私はありえなかったことの話は嫌いだ。
彼が居ない所にいつまでも居てもしょうがないと思った。立ち上がって帰ろうとする。「もう帰るの?」娘の声がした。そういえばここに来るまで、娘にはずいぶんと冷たい態度をとってしまった。用件もなく来たとあっては娘からしたらたまったもんじゃない、かもしれない。理解しているかは微妙なところだけれど。
お詫びの気持ちも少しあって、一応ここに来た訳を話しておいた。私の昔の友達のことも。娘は私の友達が案山子だったことには気付いて居ないようだ。考えてもみないだろう。重要なことなのでもう一度言うが、普通案山子は喋らない。
母の気持ちを知ってか知らずか、あくまで無邪気に誰も居ない田んぼに手を振る娘をみて、決心がつく。最後まで彼に背中を押されてしまったことを若干恥ずかしいと思いつつ、私は今度こそ彼にお別れを告げることにした。何十年越しにようやく言えた「さよなら」は誰にも届かず、風に吹かれて消えていった。
おそらくここにはもう、二度と来ないのだろうと思いつつ、娘の手を引いて先程来た道を引き返す。真っ赤に染まった夕焼けが田園風景に映えて、とても美しかった。