霧の世界
「なあなあ、この世界って、どうして出来上がったか知ってるか? 」
魔法学園のとあるクラス。板目の目立つ床を踏んで、少年はそう呼びかけた。
「さあ。神様が作ったんじゃないの。」
興味なさげに窓を見て、制服姿の女の子はそう返す。
「どうやってだよ。」
言葉の接ぎ穂を探して少年は、少しいらだったように尋ねた。
彼は欲しかった。愛おしかった。この甘酸っぱい放課後の二人だけの時間が。
いつも彼女は会話が途切れるとそれじゃあと言って去っていく。もっと一緒にいたい。少年の思いは幼くて、純粋だった。
「どうやってって⋯⋯ 。」
彼女は、そう言って考え込む。翡翠の瞳に金の長髪が、夕日を浴びてキラキラと光る。そんな仕草にドキッとして、少年はうつむいた。
「こう、チョチョイとだよ。」
「それ、全然想像できてないだろ。」
でも、少女の言い分があまりにどうしようもなくて、少年は顔を上げて非難する。
机に座った少女は、それを見てにこりと微笑んだ。
「確かにね。どうやって生まれたんだろう。」
改めて不思議になったように、肘をついて彼女は考え始めた。
少年は、その横顔をぽうっと見つめる。夕日を浴びた彼女は光をまとっていて、彼には世界一美しく見えた。
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「この論文を発表すれば、世界はひっくり返るぞ。」
研究室で彼は独り言つ。様々な書籍が山と並ぶその部屋は、彼の聖域であった。何人も立ち入らせない。ここには彼の生涯の研究を作り上げるための全てが揃っているのだ。
豊かなあごひげを撫でて、彼は満足げに悦に浸る。
「誰も考えたこともなかろう。この世界が一つの球体であるなどと。そして、進化という概念など。」
彼の論文は地動説と進化論をごちゃまぜにしたようなものであった。
題名は創世論。世界は神によって作られたものではないことをつまびらかにし、人間がどのように生まれたのか。どのようにこの大地が作られたのかを科学的な見地から述べたものであった。素晴らしく画期的と言える。これまで彼の費やした時間の集大成が、ここにあった。
明日、発表しよう。彼はそう決めた。
ようやく長い研究が報われる。研究室を後にして、すっかり日がくれた夜道をゆく彼の足取りは大変軽い。
両側を石で作られた重厚な家々が立ち並ぶ。
霧が立ち込めている。
魔法の力で燃える街灯は、靄を照らすばかりで、道の先を案内してはくれない。
少しだけ不気味に思いながら、彼はそれでも行き慣れた自宅への道のりをたどっていく。
彼の黒いコートを着た背中は、霧に閉ざされ見えなくなった。
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「神隠しって、知ってるか? 」
少年はいつものように少女に尋ねた。
放課後。西日に照らされて教室は明るい。
「いつのまにか人が消えちゃうことだよね。」
読んでいた魔法の教科書から顔を上げて、少女はうなずいた。
少年は、その唇に見惚れたように動かない。
少女は小首を傾げた。
「それで? まさか、それだけってわけじゃないでしょ。」
少年は少しはねた赤髪の持ち主だ。彼女に答えるべく唇を動かそうとして揺れるアホ毛。その様子を少女は、少年にはわからないくらいの強さでじっと見つめる。
「僕の父の友人が、神隠しにあったらしいんだ。〇〇って人。」
「ああ。新聞で行方不明になったって言ってたね。神隠しなの?」
「はっきりとはしてないけれど。」
「なんだ。期待して、損しちゃった。」
そんなことをつまらなそうに言って、彼女は本の世界に戻る。
こうなった以上、彼女の興味をひきつけることはできない。少年は諦めて、その横顔を見ることにした。
風が吹き込んでくる。彼女の金髪を揺らす。夕日は今日も彼女の髪を綺麗な金に染め上げて赤い円盤として沈んでいた。
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王城の一室。夜の帳が下りたそこは、照明が煌々と照らし、夜を感じさせない。
何気なしに王女はそれを見上げていた。公の行事がなかったため、今の彼女は装飾をできる限り排した洗練されたワンピースで、肩に明るい金髪を下ろしている。
不意に扉が開いた。使用人が顔を出す。王城に使えるだけあって、見事な誂えのメイド服だ。
「姫さま。王様がお呼びです。」
「父上が? わかった。すぐいくわ。」
姫はうなずいて、立ち上がった。
少しだけ豪華なドレスに着替えてしずしずと。メイドの後に続いて姫はゆく。大きな廊下は天井高く、圧迫感があった。
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王の執務室。そこで彼は娘を待つ。
大きな机は片付いていて、彼が有能な王であることを教える。
茶の扉が開く。本革で布張りした。贅沢な扉だ。
メイドに先導されて、姫は部屋に入ってきた。
金の髪には青いドレスがよく映える。
その姿を確認して、王はメイドに下がるよう伝える。
これから伝えるのは王家に伝わる神話。みだりに王族以外に流していいものではない。
「改まってどうしたのですか。父上。」
小首を傾げて不思議そうに、姫は尋ねた。
王といえど、親としての愛情はあるようで、彼は相好を崩す。
「そろそろ、お前にも伝えておこうと思ってな。我が王家に伝わる話だ。」
王は話す。ずっと受け継がれてきた物語を。
それは創世記だった。神が泥をこね、地形を作り出し、命を吹き込む物語だ。
「市井で言われている話とあまり変わらないではないですか。」
姫は、そう言って、真剣にとらえようとしない。
「その通りだ。本当のことは白くてとらえどころのないものなのだ。」
「どういう意味です? 」
「それをこれから話そう。⋯⋯ だが、今日はもう遅い。帰って、寝なさい。」
優しい調子で王は言う。見れば、砂時計の砂は落ちきっていて、二刻ばかりを消費したことを教える。
「わかりました。本当の話、楽しみにしていますね。」
姫は、執務室を後にした。
「あの様子ならば、前置きは必要なかったか。」
姫の反応に、満足したように王は呟く。
王城の照明も徐々に落ち、霧がとぐろを巻くように集まってきた。
夜は霧の世界。白くてとらえどころのない千変万化する様相を持って静かに、でも確かに闇を支配していた。
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「明日、お父さんから創世神話を教えてもらえることになったんだ。」
珍しくウキウキした口調で少女は少年に話しかける。
「創世神話ってこの前、僕が言ってたようなやつか。」
少年は話しかけてもらえて嬉しいと言う感情を隠せないようで、表情は真剣ながら口は笑みを形作る。
「一緒にしないの。お父さんなら、きっと普通の人が知らないことまで知ってるから。」
自慢げな彼女は、いつもの大人びた様子から離れて、子供っぽい。だけど、それもまた彼女の魅力。
「そんなすごい人なんだ。」
少しその父に嫉妬を覚えたけれども、彼女の滅多に見れない表情はそれを計算に入れても満足に足るものだった。
「うん。へへへー。いいでしょー。」
幸せな笑顔を作る彼女は綺麗で少年の胸の鼓動は止まらない。
「聞き終えたら、君にも教えてあげるね。」
そうして待ちきれなくなったのか、彼女はカバンを掴む。
「じゃ、また明日。」
どこまでも明るいその声は少年へ。
手を振って見送る彼の赤髪を優しい夕日が染め上げる。
霧はまだ生じない。
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駆けだすようだった彼女は、家に近づくに連れて、その歩みをしとやかなものへと変えていった。
陽に照らされた王城は白亜の壁を煌めかせる。
彼女は王女。この国の唯一にして正当なる後継者である。
父王の方針で庶民に紛れて魔法学園に通っている。学園では普通の女の子のふりをして、砕けた言葉を使ってるけれど、王城での彼女は、完璧な王女だ。
城門が開く。衛兵に出迎えられて、彼女は王女としての衣をまとった。
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昨日と同じ執務室。整理された部屋は、装飾を凝らして華美だ。
「これを、嵌めなさい。」
そう言って王が姫に渡したのは、透明に白の混じった宝石を白金に埋め込んだ指輪だった。美しくも不気味な色合いで姫は少し不安になる。
「はい。お父様。」
それでも、それをつけないと言う選択肢は存在しなくて、彼女はゆっくり指輪を嵌めた。
頭に動画が流れ込んできた。世界創世の様子である。異様な情報量に姫は頭を抑える。
でも、最初のそれは大人しくて、姫は少しだけ拍子抜けした。もう少し派手なものだとばかり思っていた。
動画は何百倍の速度で現代へと再生されていく。
「っそんな。」
姫の目が開かれる。信じられないことを目にしたような驚愕だ。
その様子を、心配そうに王は見つめる。自分も通った道とはいえ、実の娘にこんなものを見せるのは彼も心苦しかった。
様々な思いの篭った息を吐いて指輪を外した娘に向かって王は優しく問いかける。
「これを共有してもいいと思える相手がいるのなら、連れてきなさい。私も妻をそうして決めた。」
未だ動画のショックで半ば放心状態にある彼女はしかし、その言葉で我を取り戻した。
「私が、これを、分かち合いたいと思うのは⋯⋯ 。」
視界の裏で赤毛が揺れる。
恥ずかしそうな表情が脳裏に浮かぶ。
答えは、とっくに決まっていた。
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西日の差す教室。いつもの放課後。
「ねえ。〇〇。今日、うちによらない? 」
少女は真っ赤な顔で、少年の服の裾を引いて、言う。
いつもより近い距離。それに特別なものを感じて、少年は一も二もなく頷く。
王宮の尖塔が近づいていく。
「ちょっと、こっちにはお城しかないだろ。」
迷うことなく近づいていく少女に少年は文句を言う。
「それでいいのよ。」
まだそんなことも教えてなかったって、少女は可笑しそうに笑う。
少年が王になるのはもう少し後。
△ △ △
指輪は語る。霧の置き土産のような透明の中に白を閉じた宝石の中に、世界の秘密が入っている。語られる人は一握り。君は世界に選ばれた。
△ △ △
白い霧がわだかまる。
尖塔。斜塔。四角いアパート。
霧は建物の形を作っていた。
その下に建物があるのかどうか知るものはいない。
霧が自然に形作っているとも取れるし、霧が建物を取り巻いているとも言える。
無人。
人の声も動物の声もしない。
静寂が包む霧の街。
風が吹く。それに吹かれて霧は姿を変える。静かな変化は、しかし、大きな変化だった。
別れた霧は新たに街を作る。今までなかった場所に、家ができる。
白い家。ただの濃い霧に覆われた家。
その姿を容易に霧の下に幻視してしまうほどに、霧は建物に似た形をとる。
霧が世界を作り出す。
長い長い時が経つ。
街はその姿を拡張していく。
真っ白に立ち込める城門めいた壁。
それより低くなって続く城壁。白いその姿は霧の柔らかさの中に石壁の固さを内包していた。
跳ね橋。白く流れる霧の川。
いつの間にやら城塞都市とでもいうべき外見へと変化して。
霧の街は成長していく。
風が吹きさらし、霧を散らす。霧は無限に湧いてくるようだった。
大きな街。それでもやはり霧の街に人気ひとけはない。
大きな空白を埋めるように、ゆっくりと、亀みたいな歩みで、街は拡大していく。
大きくわだかまって、山が作られる。
まっすぐに伸びて街道が作られる。
世界が拡張していく。
川は霧を流し、大洋が作られる。
街は増える。街道を通って供給された霧は、新たな建物を作っていく。
いつの間にか上空に輝いていた太陽は、湿り切った大気の中、その光を屈折させて、熱気を地上に届けない。霧は消えない。
何一つ妨げるもののない中、霧の拡大は続いていく。
王城が作られる。スラム街が作られる。真っ白な霧と、黒ずんだ霧。格差がこの霧の街の世界にも現れる。
天を衝くような尖塔を作り出す街もあれば、穴を巡って出来上がる街もある。
建物は霧でできていた。
弱い風が吹く。
建物を崩すことのない弱い風だ。
それでも風であることは確かで、家のベールを剥がしていく。
一瞬、石造りの建物が見えた。
すぐに霧で覆われ隠されたが、最初は何もなかった地だ。まるで、霧の中で建物が生み出されているようである。
人はいない。物音はしない。霧だけがある。霧だけの世界。
世界を形作りながら霧はものを言わない。全てを隠して知らんぷりだ。
霧の山を風が吹き下ろす。霧の木々の葉を揺らして、下へと急降下。風は自由でとらえどころがない。霧もまた同じく自由に揺蕩う。
風は吹き抜け波濤を揺らす。霧の大洋は荒れ狂う波を霧で作って、鳴動していた。
太陽を隠していた雲が動き、日が差す。
霧の街に光が差し込む。尖塔。教会。四角いアパート。白で覆われた街を、黄色が照らし金に染めた。
霧は散る。ゆっくりと、名残惜しそうに。
水たまりを残して石畳が出現する。固い固い石の道。霧の絨毯が退いた後、現われ出でたる敷き詰められた石と石。
街灯が光る。霧の残滓によって鈍くなりながら。ほのかな明るさが、再び隠れた太陽の光の届かなくなった街を照らす。
黒い石造りの街が、薄まった霧の中から現れる。
霧の白と対照的なその黒の姿は、確かな存在感を持ってそこにあった。
徐々に世界は姿を変える。
光が差し、霧が散り、建物が姿を現す。
霧で作られた幹が、木目色を晒して霧の間から現れ出る。
霧の白は他の色を打ち消さない。
むしろ引き立てる役割をする。
霧の中から、黒の街が、緑の葉が、青の水の流れが、色とりどりの姿を表す。
最後の仕上げとばかりに、霧は小さく形を作っていく。
街々に。
街道に。農村に。
苫小屋に。王城に。
小さな棒のような、細かい形が、ポツポツと作り上げられる。
雲が晴れた。
太陽は、ようやくその輝きを地上全てに放った。
霧は引く。一斉に。その役目を果たしたことを理解するように潔く。
霧の中から人々が現れる。
霧が形作っていた街の全てを、人は我が物顔で歩き始める。
農作業をする。執務を取る。買い物をする。散歩をする。
先ほどまでの静けさなどもうどこにもない。この世の王者は自分であると、当然の表情で、彼らは闊歩する。
ちょろり。霧は静かに舌を出す。
尖塔を取り巻くように、霧の最後の残滓が消えていく。
誰も知らぬ昔話。
少年少女の恋の終着。
霧の世界で彼らは暮らす。
秘密を知るもの知らぬもの。
解き明かすこと無きように。
霧はあなたのすぐそばに。
0
「おー。お仲間じゃないか。」
霧の中、コートを着た男に声がかかる。
「お前は、どんなことを発見したんだ? 」
興味津々なその声は、今度は別人のもの。
「新入りが来たぞー! 」
触れ回る声。
「宴会の用意だな。」
食器とグラスが音を立てて楽しげな雰囲気だ。
家への帰り道を歩いていたはずの男。こんな場所に出ることなどあり得ない。彼は、頭を振る。この現実を否定しようとするように。
霧がテーブルを形作った。大きな大きなテーブルだ。
それは手をついたら沈んでいきそうで、でもなぜだか、固い石でできているような感触がする。
血色のいい太った男が彼を長方形の短い方。その真ん中に誘導した。
「我ら、霧の中の知恵。お主を歓迎しよう。」
向かい側に座った、ヒゲの老人。見ようによっては神様と呼んでも良さそうな人物が代表して彼に呼びかける。
気づけば、テーブルには、多くの人々が並んでいた。
利発そうな少年。本を小脇に抱えた少女。くたびれた顔で目を炯炯と光らせる研究者と思しき中年。魔女のような帽子をかぶった鼻の曲がった老婆まで。ありとあらゆる人物だ。共通点などまるでないように思える。
だが、違う。彼らはそう、天才であるという一点において同質だ。世界の謎を解明し、矛盾を暴きうる存在だ。
彼らは説明する。この世界の成り立ちを。自分たちの存在の発生を。
この世界は霧でできている。
男は、それを受け入れた。受け入れざるを得なかった。霧が食べ物に変化しするのを見、それに味を感じた時だったか、彼の足が霧に変質しているのに気づいた時だったか。きっかけはどこにでも転がっていた。
「この世界は作られた世界じゃ。あり得ぬことは無数にある。」
「それを探り当てるのは、許されてはいないのだ。」
彼らの説明は飛躍に富む。理解できるのは一握り。だが、ここに来るのは、その一握りのみだ。
「なるほど。」
彼は自分の論文を思い出す。
思えば、歪みの萌芽のような例は無数にあった。
ただ見ないようにしていただけだ。自分たちは、どこかの時点で創造され、動き始めたのではないと、無意識のうちに信じていた。
「広まれば広まるだけ、違和感を感じるものも増えるからねえ。」
しわがれた声。
男は頷く。自分の論文は完璧だった。新しい潮流になると確信していた。だが、それこそが、世界の毒だったのだ。
「わしらは全員、そういう経歴の持ち主じゃ。」
老人は言葉を切り、全員の視線が、彼に集まる。
彼は思わずゴクリと唾を飲んだ。
「仲間とならぬか。」
短く放たれたその言葉は彼の耳朶を貫いた。
息を大きく吸って、男は答えを返した。
宴会は、ずいぶん長いこと続いたという言葉で彼の返事の代わりにしよう。
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霧の世界は矛盾だらけ。突き詰めれば、ボロが出る。
物語は、自分の矛盾に気づかないふりをして、世界となる。
明かすものは霧へ囚われる。世界を脅かすことなきように。
霧が自意識を持ったのか、人が霧になったのか。
全ては深い霧の中。